穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ドン・バルトロメオ譚 ―「最初のキリシタン大名」について―

 

 父親の葬儀で位牌に焼香をぶっかけたというのは織田信長のあまりにも有名なエピソードだが、戦国時代にはこの逸話に匹敵するか、あるいはもっと凄まじいことをやってのけた奴がいる。


 肥前の大名、大村純忠のことである。


 この男があるとき祖先の仏寺に参詣するや、いとも無造作にその位牌を掴み取り、そのまま香炉の灰の中にぶち込んでいったとされている。墓石を叩き壊したとも伝えられ、霊を慰めるどころではなかった。

 

 

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 (Wikipediaより、善行寺本堂前の大香炉)

 


 何故、そのような所業に及んだか。


 簡単だ。彼がキリシタン大名ったからである。


 イエス・キリストの教えを厚く奉じ、領内に幾つもの天主堂を建立せしめ、「ドン・バルトロメオなる洗礼名まで授かった彼からすれば、仏教など原始的な迷信以外のなにものでもなく、その「迷信」を利用して人々の財をかすめ取り、暖衣飽食して憚らない坊主などというものは、地上に存在させておく価値のない「悪」そのものに見えたのだろう。


 当然、仏罰など恐れるはずもない。


「邪悪な迷信」の定めるところによって葬られた祖先の偶像など、いくらでも穢せる。純忠は従来奉ぜし軍神像まで焼き捨てた。


 家臣団の大反発は、蓋し必然であったろう。


 純忠は元々、大村氏の正当なる嫡子ではない。
 やはり肥前に根を張る大名、有馬晴純の次男である。

 

 

Japanese crest Arima Mokkou

 (Wikipediaより、有馬瓜)

 


 それが先の大村氏当主、大村純前養子として迎え入れられ、家督を継承するという摩訶不思議な現象が成立したのは、まったく当時の大村氏を取り巻く政治力学の作用に他ならなかった。


 母親が大村氏の娘であったとか、一応もっともらしい理屈はつけられるが、何のことはない。装飾をひっぺがしてしまえば後に残るは至極単純な力の論理だ。


 大村氏側にとってみれば苦々しいこと千万で、純忠を当主に戴くことに対する不満は、老臣の中にずっと鬱積し続けていた。


 斯様に脆弱な地盤の上に立っていながら、よくまあ養子入りした先の祖先の霊を冒涜するような真似が出来たものである。


 信仰とは、ここまで人を盲目にするものなのか。
 それとも純忠の頭脳あたまの出来が、もとからあまり良質ではなかったのか。


 いずれにせよ、彼の度を越えたキリスト教への傾倒ぶりは、火薬庫にたいまつを投げ込むに等しい結果を招いた。堪忍袋の緒を切らした老臣たちは、この「暴君」を廃嫡すべく相図り、後藤貴明を担がんと決意。


 後藤貴明というのは、先代当主大村純前の実子であり、当然家督を継承すべき権利を有しておきながら、横から闖入してきた純忠のためにその座を追われ、不遇をかこつ破目に陥っていた人物である。


 血の正当性から見れば、老臣たちが彼を担ごうと思ったことに何の不思議性もない。


 果たして永禄六年(1536年)、事は起こった。純忠に反旗を翻した家臣団は城下に火を放って攻め寄せて、このため純忠はいっとき近くの叢林に身を隠さざるを得なかったほどであるという。


 間もなく有馬の援軍を得て大勢を挽回しはしたが、一度広まった戦火は容易に消えるものでなく、以降三年に亘って争いは続いた。


 ポルトガル船がしきりに入港し、彼らから「キリストの聖母の港」と名付けられた横瀬は見る影もなく荒れ果てて、天主堂もそのほとんどが焼け失せた。

 宣教師たちはとっくにこの地を見棄てて豊後の方に去っていた。

 一方、商売敵の横瀬が荒廃してくれたおかげで平戸の方は大いに栄え、商船の出入りも頻繁になった。

 

 

横瀬公園

 (Wikipediaより、横瀬浦公園 ポルトガル帆船来航記念碑)

 


 大村純忠についてどうしてももう一つ触れておきたいことは、天正五年(1577年)、彼が国を売り渡した一件である。


 この前後、肥前に於いては龍造寺氏の勢力が非常に強い。


 天正三年には藤津郡の大村氏領を悉く奪われ、その創痍も未だ癒えざる天正五年にまた戦を仕掛けて来、反撃しようにも軍用金が大いに不足を来しており、純忠はこの上ないほど苦悩した。


 窮した挙句、彼は「禁じ手」に打って出た。


 宣教師から金を借りることにしたのである。


 額は銀百貫。担保として、長崎村、隣村山里村、浦上村、淵村の年貢を提供する契約を結んだ(『大村家秘録』)。


 その金でなんとか急場を凌いだものの、後にこれが「庇を貸して母屋を取られる」の好例になる。
 宣教師たちは年貢徴収の権利を得た村々に対し、あたかも慈悲の神であるかの如く振る舞ったのだ。

 

 

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 百姓たちが年貢を納めに来ると、豪華な膳部で彼らをもてなし、着ているものの粗末さに涙をこぼして衣類を与え、米銭を支給してやることさえあった。


 当然、百姓たちはこの「聖恩」に感じ入り、宣教師をこそ主人と仰ぎ、魂を蕩かされたようになる。


 これはおそるべきことだった。民と王の離間。大村氏の支配を根っこからして掘り崩し、水を流し込むに等しい行為といっていい。


 今で言う「実効支配」に近い状態であるだろう。宣教師たちもそう判断したのか、やがて次の手に打って出る。


 長崎領分を悉く、我々の「寺領」として「寄進」せよと迫ったのである。


 実効支配を相手方の国家に対し、正式に認めさせようとした格好だろう。
 最初こそ拒絶した純忠だったが、宣教師たちは既に彼のあしもとを見切っている。強硬な彼らの態度に次第にへこたれ、ついに長崎全体を彼らの手に委ねることに頷いてしまった。


 宣教師たちが教界に於いてのみならず、俗界の支配権をも確立させた瞬間である。もはや長崎は日本人の土地でなく、外国人の版図になった


 もし戦国時代があと50年も続いていれば、長崎がどこまで変貌していたか想像もつかない。


 が、幸いにも豊臣秀吉が天下人として頭角を現し、九州征伐に乗り出したことでこの地は「日本」に帰還した。


 ケンペル『日本誌』によれば長崎の実態を目の当たりにした秀吉はのけぞらんばかりに驚愕し、その驚きがすぐさま憤怒に変換されて、「大いに大村侯を遣責し、此の如き須要の地を外国人に附するの不注意を咎め、長く之を汝の所領と為すに忍びず、宜しく之を官領に属すべし」と裁断したとされている。

 

 

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 (Wikipediaより、1722年英語版『日本誌』の表紙)

 


 ただ、このとき純忠は病に侵され、既に生死の瀬戸際にあったとされているから、ここで「遣責」されている「大村侯」は若干19歳の嫡子喜前であったろう。


 宣教師による長崎領有のこの一件こそが、後に秀吉がキリシタン禁令に乗り出す大きな要因になったとする説もある。


 してみると、「最初のキリシタン大名大村純忠とはいったい何者だったのだろう。

 

 


 大村氏は関ヶ原で東軍に属した功により、家康からその所領を安堵され、以降幕末まで続いている。


 維新回天の動乱ではいち早く官軍側についたことで、破格といっていい三万石の賞典禄にあずかった。

 

 

ケンペルとシーボルト―「鎖国」日本を語った異国人たち (日本史リブレット人)

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