地下鉄三越前駅から文明堂東京日本橋本店に行く場合、A5出口を使うのが、経験上いちばん手っ取り早く思われる。
ここを出たら、後は右手側に直進するだけでいいのだ。
二分もせずにこの看板が発見できることだろう。
先日カステラを買った際には、おまけとして「黄金三笠山」がついてきた。
この「おまけ」の伝統を作ったのも宮崎甚左衛門その人で、如何にも彼らしい哲学性が底にある。
『まける』ということは、お客さまにとってはこの上ない魅力である。商人が負けるのであるから、お客さまは勝つのである。勝って気持のよくない人はいない。ところが、百円の値段を八十円にまけて、二十円が財布に残ったというのでは、まだ魅力の度が薄い。また、あとあとまで尾を引く生命が短かく、展開力も少ない。その点、品物によるおまけは、はるかに効力が大きいのである。婦人雑誌や少年雑誌につく附録が、どんなに購買欲をそそっているかが端的な好例だが、カステラのような特殊な菓子になると、現物のおまけはますます大きな威力を発揮する。(『商道五十年』95~96頁)
人情の機微を理解し抜いていなければ、とてもこの下りは書き得ない。
創業以来の伝統が継承されていることに、保守派の私は大なる満足を味わった。
――ときに、文明堂のこのカステラ。
最大のお得意様が大日本帝国海軍だった時期があるといったなら、あるいは意外な感がするであろうか。
宮崎甚左衛門が六人兄弟の五男だったということは、前回触れた。
兄たちの消息にそれぞれ触れると、
長兄は父の仕事を継いで、長崎で大工をするようになり、
次男は分家し、他所に一家を構えるに至り、
三男もやはり長崎に出て商売を始め、
四男は、その三男の後を追い、彼の店の手伝いをした。
この「三男の店」というのが菓子屋文明堂であり、今日まで続く文明堂総本店の源流を成す。
阿漕な営業ぶりに嫌気がさして、ものの二日で酒屋を辞めた甚左衛門は、その後自転車屋や雑貨店に雇用されたり、ときには水夫となって船に乗り込んだりしたが、いずれもどうも面白くなく、長続きせず辞めてしまった。
こうした職業遍歴を経た後に、漸く文明堂に拾ってもらうわけである。兄の胸には、「見るに見かねて」という気分が少なからずあったのではなかろうか。
長崎には文明堂以外にも菓子屋が多い。南陽堂、松翁軒、福砂屋といった名うての老舗が軒を連ねて、新参者を圧迫していた。
この包囲下で商勢拡張を図るのは、言うまでもなく並大抵のことでない。
現に文明堂もなかなかの苦戦を強いられていて、その情景は甚左衛門の義侠心を刺激するのに十分であり、彼はまったくシャカリキになって働いた。
甚左衛門に割り振られた仕事というのは、要するに出張販売員めいた内容だった。
菓子の見本を満載した箱を担いで市中のお得意様を訪問してゆく。で、集めた注文を店に届けて、今度は本物を持ってゆく。
が、ほどなくして甚左衛門は疑念を抱いた。
(迂遠ではないか)
と思うのである。
(美味そうな見本を見せられる。口の中に
畢竟、喰いたいと思うや否や間髪入れず食卓に載せられるような仕組みが最上ではなかろうか――。
想到するや、彼の行動は早かった。
「速戦速決でやらせてください」
常に商品を持ち歩いて外回りをやりたい、と言ったのである。
弟からの申し入れに、兄は鷹揚に頷いた。
長崎は坂と石段の多い町なので、重い荷をかついでの上り下りは、実に骨が折れた。労力からいったら、見本で注文をとって、それだけを届けにゆく方が、足は二回運ぶにしても、楽であった。しかし、大切な『時間』というものは、労力などとは代えられない。微妙な『商機』というものは、肩の痛さとひきかえにはできない。私は毎日毎日、長崎市内のほとんど半分をまわり、それから渡し舟に乗って対岸の稲佐や向島までも行った。(56頁)
(Wikipediaより、長崎の夜景)
このころ、彼の座右の銘は、
の十七文字だったそうである。
決まったコースを、決まった時間に、毎日欠かさず巡回する。それこそ雨が降ろうが槍が降ろうが必ず、である。そうするうちに人々は、
――ああ、あの人が来たから今は何時何分だろう。
と、時計要らずで現在時刻を知るようになる。そういう商人は親しまれ、繁盛するぞという意味らしい。
事実、文明堂はそうなった。「次第にお得意さんも殖え、売上げも上昇してきた」とのことだ。
そんなとき、甚左衛門は気になる風聞を聞きつける。
三日月堂なるライバル店が軍艦に注文を取りに行き、巨利を博したとの噂であった。
(あっ)
その手があったか――と、膝を打たずにはいられなかった。
前述した通り、甚左衛門の神経は実に伝導率がいい。打てば響くというべきか、とにかく行動を逡巡しないつくりをしている。
早速そのとき長崎の港にはいっていた『千歳』という少尉候補生の練習艦に行ってみた。すると、たしか十円ぐらいの商売があった。
すっかり味を占めて、それから長崎に軍艦が来るたびに行った。(57頁)
接触を重ねるうち、段々要領が呑み込めてくると、比例して行動も大胆になる。
やがて宮崎甚左衛門は、長崎以外の港にも、軍艦目当てにカステラ担いで出没するようになってゆく。この点、彼は実におそれ知らずな男であった。
結論から先に述べれば、海軍と文明堂の仲というのは年を経るごとにいよいよ濃密なものとなり、ほとんど蜜のような有り様で、ついには呉鎮守府司令長官村上格一中将から直々に注文を受けるまでにさえ至る。
佐世保でもそうであった。司令長官や艦長に直接注文をとりにゆくのである。普通だと、当番の水兵が取次いでくれない。それを、長官にお気に入られてしまったので、注文があってもなくても、とにかく長官室にドシドシ入って行くようになった。水兵が直立不動の姿勢で敬礼してくれるのである。(71~72頁)
(Wikipediaより、村上格一)
このとき結んだ縁というのが、よほど長く生きていたのか。
大東亜戦争中、甚左衛門は山本英輔大将を品川御殿山の屋敷に訪ね――二・二六事件以降、山本は予備役となっていた――時局について親しく意見を交換している。
このようなカステラ屋が他にあったとは思えない。
まさしく文明堂ならではであったろう。
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