江戸時代、京の貧乏公卿たちが好んで用いたゆすりたかりの手口があった。
「文箱割り」と呼ばれる技である。
菊の御紋のついた文箱を使いに与え、市街に送り出すところからそれは始まる。使者は丹念に獲物を物色し、やがて「これは」と思った相手を見つけると、走って行ってわざと彼に突き当たるのだ。
衝撃で文箱が落ちる。
地面に当たって砕け散る。
ここからが狂言のしどころだ。使者は血相を変え、この世の終わりのような悲鳴を上げて、
「なんたることだ、菊の御紋を割ってしまった。こんな不始末を仕出かして、とてもお屋敷へは帰れない。帰ればお手打ちになってしまう。今すぐ京から逃げねばならんが、やい、この始末をどうしてくれる」
そういう意味のことをわめきながら詰め寄ってゆく。
被害者は内心不服としながらも、割れた文箱には本当に菊の御紋が刻まれているから
最終的には他国へ逃れる「旅費」として、財布を軽くする破目になる。
(Wikipediaより、菊花紋)
実力皆無、されども古き血統ゆえに権威だけは持っている、日本の貴族らしいやり口といってよい。
この時代の公卿の多くが貧窮にあえいでいたことは、今更言うまでもなく有名な話だ。与えられる知行だけではとても食っていけないから、カルタの絵描きや楊子削りなどの内職で糊口を凌いでいたことも。
貧は罪の母と俗に言われる。彼らの間で詐欺的手法が発達するのは蓋し必然であったろう。
大晦日の晩に、家に火を付けてやると近所の酒家に前触れした公卿もいた。明日は元旦だが、こう貧窮していては餅も搗けんし注連縄も張れん、表に何の飾りも出せん。どうにもこうにも仕様がないから、いっそのこと人の嘲笑を買うより先に自ら家に火を放ち、なにもかも灰にしてやろうと思う。風向きからして、ひょっとするとお前のところも焼けるかもしれん。お前には普段から心安くしていたから伝えておく、要らんものは置き棄てるか人に預けるかして逃げたらよかろう。――
平気な顔でそういうことを言われたと、江戸時代を生きた人々の回顧録、『江戸は過ぎる』(昭和四年発行、河野桐谷編)は述べている。
仰天したのは酒家であった。この年の瀬に来て、家を焼かれてはたまらない。ま、ま、あたしがどうにか計らいますから、ちょっと待っていておくんなしいとこの予告犯をなだめおき、町内の者を集められるだけ呼び集めると必死に説いて、結果百両もの金を工面することに成功。それを渡して、どうにか犯行を思い止まってもらったのである。
いまの人々はそんな馬鹿馬鹿しいことが出来るものかと思ひますが、その頃はやりかねないのです。所司代でも公卿には手をつけることが出来ないし、一々伝奏の手を経なければならないし、又公家などどうせ家は古いぼろ屋ですから、切羽つまるとやりかねないので、みんな心配したさうです。これは実話で、文助といふ、その酒屋の爺さんが話したことであります。(『江戸は過ぎる』29頁)
類似の話はいくらでもある。
こういういきものが御一新でにわかに息を吹き返し、社会の表舞台に返り咲いたのだからたまらない。
新政府も、そりゃあ汚職塗れになるだろう。公卿諸法度の拘束のもと呻吟した、長年の鬱屈を思う存分晴らしたわけだ。西郷隆盛が絶望のあまり官を擲ち、隠遁して野の草陰に隠れたいと念願するのもむべなるかな。
江戸の旗本連中が三百年の泰平に慣れ、戦闘者として使い物にならなくなっていたというのは広く人口に膾炙されたところであるが、公卿の醜状、政権担当者としての低劣ぶりはそれ以上のものがあったようだ。
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