幕府が如何に上方を軽視しきっていたかについては、勅許もまだ得ていないのに、いそいそと条約調印の日取りを決めてしまっていたという、この一事からでもよくわかる。
彼らにしてみれば、それは規定事項以外のなにものでもなかったのだ。
――長袖者流ふぜいに、何ができるか。
自覚不能なほど自然な驕りが、誰の意識の中にもある。筆頭老中・堀田正睦に於いてすら例外ではない。二百五十年の泰平の、賜物といえば賜物だろう。
――それゆえに。
いざ京都に派遣した林大学頭・津田半三郎の両名が、「散々の不首尾」で勅許奏請を却下されたと聞いたとき、彼らは驚きを通り越して半ば茫然自失の態を示した。
(……?)
白昼の大路でいきなり頬桁を張られたとしても、これほど当惑することはなかっただろう。
が、いつまでも呆けてばかりはいられない。冒頭にも記した通り、日米修好通商条約は
「安政五年三月五日」
に調印すると予定して、ハリスの同意も既に得たのだ。
この期に及んで不都合が起きたからやっぱりちょっと待ってくれなど、言おうものならそれこそ足許を見透かされよう。一刻も早く事態を把握し、解決の目処を立てねばならない。
事のあらましはこうである。林大学頭一行が王城の土を踏んだのは、安政四年十二月二十一日、年の瀬迫る師走の下旬。彼らはさっそくその足で京都所司代を訪れて、責任者である本田忠民と話し合い、意識のすりあわせを行ったのち、やがて東坊城聡長・広橋光成両卿の招請に至る。
これは「伝奏」と呼ばれる人々であり、朝廷―武家間の連絡をつけるのが役儀であった。
この両名に、林大学頭はつらつら語った。四囲を取り巻く時勢を鑑み、開国通商の一件はもはや不可避であることを、ハリスとの応接対話の記録等々、関係書類を添えながら説き、以って勅許の旨を奏聞して貰いたいと願い出た。
伝奏は、みずからの職務に忠実だった。その通りにした。
しかしながら「外夷」に対して動物的な恐怖を覚え、恐れる以上に嫌悪して、彼らにこの神州の清浄な大気を呼吸させたくもないと考えておられる孝明帝が、素直に頷くわけもなし。
「宸襟安からず思召され」、陛下は直ちに諸卿を招集。御前会議が開催されるも、その出席者のほとんどは、既に尊王攘夷論にかぶれきっている手合いであるから、結果など端から知れていた。
まず真っ先に萬里小路正房が、
「外夷の請ふところは、名を通商に藉り、人心を誑惑し、果は我が国を併呑するの下心に他ならぬ」
血膨れた貌で「絶対反対」を獅子吼すると、たちまち内大臣三条実万がこれに和し、あとはもう議事といったものではなかった。
誰がいちばん情熱的に外夷と幕府の悪口を叫べるかを競っているようなものであり、そういう文句なら日頃自邸に出入りする「憂国の志士」から耳にタコが出来るほどに聴かされている。彼らはただそれを口移しにすればよく、見ようによればこれほど楽な商売もなかった。
「そうか、皆はそういう意見か」
会議がこのような状態であれば、帝としても安心して勅許請願を退けられる。
たまらないのは林であった。こんな箇所での蹉跌など完全なる想定外、切り崩しを行いたくとも
反面尊攘志士の側には水戸・長州・薩摩から潤沢な資金が流れ込み、惜し気もなく公家の間にばら撒いたから勝負になる筈もない。
撤退以外に途がなかった。
その背に向って投げつけられた嘲罵の類は無数に及ぶ。
公卿に蹴られて恥を大がく
ごうけつと林たてられ京へ来て
大きなはぢを大学の守
大学はもうし違ひをしたゆゑに
ろんごどうだん首尾は中庸
下二つは、林が四書五経を研究する儒学者なことにかけたものであったろう。
「みやこびとの薄情ぶりよ」
とは、林ならずとも口惜しがらずにはいられまい。これはもう、ほとんど死体蹴りの域である。
とまれ幕府はこれで漸く、上方の情勢ただならざるを理解した。
「わしが直接、行って説く」
そうでなければ、これはとても治められまい――腕まくりして屹立したのは、なんと筆頭老中・堀田正睦ご本人。
反対意見など、誰に呈せられよう筈もなく。彼が江戸を発ったのは安政五年一月二十一日、川路聖謨・岩瀬忠震以下選り抜きの外交通十数名を引き連れて、説得用の「実弾」に関しても遺漏なく、準備万端、堂々たる陣立てでの「乗り込み」だった。
堀田が京都到着後、各所に配った贈物は以下の通り。
禁裏へ 伽羅一本
黄金五十枚
大紋綸三十端
准后へ 羽二重二十疋
色綸子十端
太閤へ 白銀百枚
巻物十本
関白へ 白銀百枚
巻物十本
伝奏へ 白銀五十枚
巻物五本
匂当内侍へ 白銀三十枚
なお、これらはあくまで表向きの目録に表された品であり、公にできない裏金の類は更に夥しい数に上ったかと思われる。
東からの攻勢を受け、尊攘派も黙ってはいない。
賄賂をいくら使ったところで所詮は無駄な悪足掻き、否それどころか逆効果にしかならぬわと落首で以って反撃し、梅田源次郎、梁川星巌、頼三樹三郎、池内大学といった論客たちが公卿の間を駈けずり廻って、ともすれば動揺しがちな彼らの腰に喝を入れる。
およそ数百年ぶりに、京都は陰謀渦巻く魔窟としての面目を取り戻した。
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