維新史で江戸がクローズアップされるのは、たいてい彰義隊騒動以後であり、それまでこの百万大都市は風雲をよそに眠りこけていたかのような観がある。
が、事実は決してそうではない。
時勢の影響は、しっかりと随所に於いてあらわれていた。
徳川慶喜が江戸を離れて京に入った頃だというから、ちょうど文久二年(1862年)あたりだろうか。『江戸は過ぎる』の語り部の一人、小菅孝次郎氏はこの時期に、二度にわたって外国人を目撃している。
一度は外人が馬に乗って、後先に別当がゐて、それが大通りから広小路を抜けて浅草の方に曲って、あれから吉原にかかります。その時に途中で見てゐましたが、浅草でその外国人が、鳩に豆を買ってるのに十杯ばかり買って二分金を一つおいて行きました。(『江戸は過ぎる』66頁)
二分金とは長方形短冊形をした江戸時代の金貨の一種で、一枚がおおよそ一両の半分の価値を持つ。
鳩豆十杯の支払いで二分金というのは、おそらく破格の支払いだったのだろう。現代式に当て嵌めるなら、「釣りはとっとけ」と云うヤツだ。
(Wikipediaより、二分金)
それから蔵前の通りで、乞食が飛び出して来て、旦那さん旦那さんといって拝むとポケットから天宝銭を二三枚出してくれて行きました。一体に外人は下の方のものを手馴付けたのでそれで下の者は外人に限るといふ風になりました。(同上)
どことなく敗戦後――1945年8月15日以降、占領下に置かれた東京にて、ジープの上からチョコレートやらチューインガムやらを投げ与えた、あの米兵たちを彷彿とさせる情景である。
弱者への施しの伝統性は、あるいはキリスト教圏ゆえにだろうか。帝政ロシアに於いてもこの傾向は甚だ強く、当時のモスクワではレストランの中へでも平気で物乞いが出入りし、しかもそれを異とする客は誰一人としていなかったと聞き及ぶ。
もっとも共産革命以降、その種の慈悲は「惰民を生む」と批判され、地上から根絶されてしまったわけだが。
まあ、それはいい。
話を、江戸に戻そう。
考えてみれば開港地として異例の発展を遂げつつある横浜がすぐ近くに控えているのだ。江戸に外国人が流入してくるのも当然だろう。
さてそうなると、自然の勢いとしてもう一つの種族も引き寄せられて来ざるを得ない。外国人を禽獣視して、隙あらば日本刀に血を吸わせてやりたがっている、攘夷浪士と通称される連中が、だ。
孝次郎氏は、次のような事件をも報告している。
外国人と取引をしてゐる羅紗屋に、一人の武士が来て何か預けものをして行ったが、取りに来ないので、開けてみたらそこの家の番頭の首だったといふやうなこともありました。(同上、67頁)
脅迫であろう。
包みを開けた店主は、腰を抜かすほど驚いたに違いない。
これ以外にも、やはり三井の呉服屋が、外国人と取引をしていたという廉で火を付けられて、全焼するという騒ぎが起きている。
しかもこの火が飛び火して、両替町、鞘町、魚河岸まで延焼する事態に発展したというのだから、大火といって差支えはない。
ところが、やはり三井は天下の三井だ。この放火に気落ちして引っ込み思案になるどころか、逆に大きく張り出して、被害を被った住民全部に、
豪気、ここに極まれり。江戸っ子たちの間で三井の人気はとみに上がり、以下のような落首が出るまで至ったという。
瀬戸物町あたりに住んでいた学者先生の作ではないか、と孝次郎氏は洞察している。
京都で血の雨が降っていた頃、江戸も決して静謐なだけではなかったわけだ。
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