結果から先に言ってしまえば、堀田正睦は敗北する。
必死の周旋もとうとう実を結ばずに、林大学頭と同様、空手で京を去らねばならない破目になる。
しかしながらそこに至るまでの道筋は、決して平坦なものでなく、紆余曲折、起伏重畳せしものだった。
ある時点では、はっきり堀田の勝ちの目が見えた刹那もあった。
これは何より、鎖攘派の中でも最右翼と目されていた九条関白の一本釣りが与って力あったろう。
関白、名は尚忠。
その娘夙子は孝明天皇の妃であり、以前彼女の立后の話が持ち上がった際、幕府がこれに口を挟んで妨害した都合上、もとより関東に対して好意を抱いているはずがない。
(Wikipediaより、九条夙子)
この尚忠が、
「誰が転んでも、あの宮だけはころぶまい」
と、尊攘派から全幅の信頼を寄せられきっていたことは、当節都に謡われた、
うらぬ関白大丈夫大臣
この狂歌一つを取っても十分に知れよう。
実のところこの認識は幕府側でも共通したものであり、
「関白を口説き落とすのは、泥水を酒にするより更に不可能に属することだ」
諦観を籠め、まことしやかに囁かれたものである。
今度の関白九条殿は、何分手強き御方にて、江戸表より御贈物更らに御請け相成らず、二十年禁裏を御疎略になされ候儀等につき御憤り少なからず候云々
江戸に内報された書簡に於いても斯くの如し。
ところが、ふしぎなことが起こった。
堀田正睦の着京から二週間余を隔てた安政五年二月二十一日、改めて請願された条約勅許の一件につき開催された朝議の席で、劈頭一番この関白が従来の鎖攘論を一擲し、
「万事堀田閣老の請ふままに、之を幕府に一任すべし」
とやりだしたものだから、一同こぞって目を見張らずにはいられなかった。
まるで中身を入れ替えられでもしたかのように。あまりにも鮮やかな変節ぶりは度肝を抜くのに十分であり、すかさず鷹司太閤がこれに和し、あれよあれよという内に、場の雰囲気をいっぺんに幕府協調路線に押し流してしまう勢を見せた。
このとき、末席に居た大原三位重徳が、三条実万の袖を引いたという。
不安に駆られた幼児の所作といっていい。彼らを操り人形に仕立て上げた尊王攘夷の志士たちでさえ、散々に苦汁を舐めさせられた公卿といういきものの先天的な腰の弱さ。その欠点が露骨に表現された形であろう。
(この、馬鹿が――)
しかしながら同族のその劣弱ぶりが却って三条を激発せしめ、もはや自分がやるしかないと飛躍を覚悟させた点、人間社会はほとほと一筋縄ではいかないらしい。
三条実万、やおら声を張り上げて、幕府一任論の不可なるを弁じ、
「先ず列藩諸侯の意見に
こう結論すると、漸く声を取り戻した久我・徳大寺・正親町の諸卿らがたちまち雷同、ほぼ決しかけた形勢はまたもや紛糾の態を示した。
やがてその騒擾が鎮まった――少なくとも見かけ上では――とき、採用されたのは三条の意見。惜しくも紙一重のところで堀田の願いは受け入れられず、その旨通告する勅答書が差し向けられた。
この朝議の顛末は、風よりも早く京都中に知れ渡る。その証拠に、翌二十二日の暁方にはもう九条関白の邸内に、怪文書を投げ込んでゆく輩があった。
油紙に包まれ、コヨリにて括られた文書の中身は以下の通り。
是迄数度内願仕候処更らに御聞入もこれなく、此の節に至り、堀田備中守より、賄賂を取り、終には関東御役人共懇願の通り御評定御決断にも相成るべき旨、風聞承はり、以ての外の儀に御座候。年来朝廷を
如何にも狂信的国学者があつらえたらしい香ばしさが到る処から漂っている。
要するに関白の変節を裏切りと責め、この上は貴様も国賊の一味だと断じ、遠からず全員に天誅を下す、首を洗って待っていろと脅迫しているに過ぎない。
実際問題、九条尚忠の変節は、この文書に云うような金銀の魔力に幻惑された結果だろうか? 私にはどうもそうは思えぬ。
関白がその程度の、言ってしまえば低人格の男であれば、当然この種の斬奸状にふるえあがる筈であり、また幕府が積んだ以上の金を積まれたならば、至極あっさり再びの寝返りを打つ可能性とて十分有り得た。
ところが現実の関白ときたらどうであろう。尊攘派の脅迫など野良犬の遠吠えも同然よとせせら笑って
単なる金慾亡者ふぜいに発揮できる誠実さではないだろう。
この一徹ぶりからは、何か、信念に支えられた硬骨漢の面影が浮かんでくる。
そういえば堀田正睦は着京間もなく、件の贈物と併せてこの九条関白に、『米使対話書』八冊と『条約草稿演説書』二冊を差し出していた。
或いはこの書籍群が九条関白の脳髄を、想像以上に啓蒙したのではなかろうか。
とするならば純粋なる言論が政局を転換させたという点で、我が国に於けるかなり稀有な事例に属する。
否、
何しろ結局、堀田正睦は負けるのだから。二十一日の朝議で再び勅許を拒まれても、彼に諦める心算は毛頭なかった。なおも京都に留まって、執拗なる裏面工作に明け暮れている。
堀田跡から何をしよとて
しんくして堀田かひなし唐井戸へ
雲の上人はまりこまねば
暗中飛躍する志士が、如何に陰険極まりない落首を張り出そうとも屈しなかった。
何とて町はさびしかるらん
九重の花を東へ匂はせて
佐倉は春のくれにちるらむ
この二首は、堀田が佐倉藩藩主であることにカケたものであったろう。
既に個人攻撃の域である。
ここまでの悪意に曝されて、それでも己が職責を全うしようと粘って粘って粘り抜く堀田の姿勢は確かに称賛に値しよう。
が、頑張ればいつもいい結果に恵まれるなどというのは、きょうび小学生でも真に受けやしない戯言だ。
やがて、敗北が来た。
断崖にすがりつく堀田の指を纏めて切断するような、完膚なきまでの敗北が。
これ実に、安政五年三月二十六日のことである。
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