「真理は口にした瞬間真理でなくなる。一切はこれ不立文字――」
そう叫び、みずからの喉を掻っ切った男がいた。
今朝の夢の中に、である。
迸る鮮血を浴びながら、ああ、とうとうやってしまったか、遺族にどう説明すりゃいいんだ阿呆垂れめ、と頭を抱えたところで目が覚めた。
原因は明白である。昨晩寝る前に、近重真澄氏の『野狐禅』を読んだ所為だ。
この人は理学博士でありながら、漢学にも造詣が深い。むろん禅にも通暁している。文系・理系の垣根を超えて博識な、興味深い人物である。
不立文字という言葉は、氏の著書によってはじめて知った。
それがこうまで即座に、且つ如実に反映されるとは、我ながらなんと分かり易い構造の脳味噌であることか。
ところで、夢の中の男は誰だったのだろうか。
遺族への説明責任へと真っ先に思い至ったあたり、私と親しい人物のようだが。以前の夢に出てきた、狂おうとしても狂いきれず嘆き悶えていたあの男だったら面白い。その場合、見事本懐を果たせたようでなによりだ。
彼の行動は過激だが、発言自体には一理ある。己の内に渦巻く情動を正確に言語化するのは至難の業だ。そのことは、このブログを立ち上げて以来毎日のように実感している。自分の立てた理屈が自分でわからなくなった経験なぞ、もはや数えるだに愚かしい。
そうして積もりに積もった苦心惨憺の想念が、「不立文字」なる触媒を得て、ああいう形に具現したのやもしれない。
だからと言って、筆を投げ捨てるわけにはいかんだろう。それでは本当に「野狐禅」の弊に陥ってしまう。行動を委縮させるのではなく、鼓舞してこその禅ではないか。ああ、またしても自分の理屈がなんだかわからなくなってきた。未熟千万、精進精進。
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