【▼▼前回の神戸挙一伝▼▼】
勤王の志士とは、字面だけを眺めたならばこれほど麗しい文句もないが、しかし同時にその実態をあらってみると、これほどいかがわしい人間集団というのもまた珍しい。
おそらくは、「志士」を名乗ることによって得られる特典が大きすぎたがゆえであろう。
なにしろただ人を殺して金を奪えば悪逆非道の強殺犯だが、「国家の危機をかえりみず私欲を恣にし、民草の膏血をしぼり私腹を肥やした奸商」に「天誅」を加え「攘夷御用金を召し上げ」たとすれば、これはたちどころに堂々たる「正義の行い」と化すのである。
およそ馬鹿げた話だが、これが時代的イデオロギーの神通力というものだろう。その馬鹿げたことを、平然と罷り通らせる。
思想の方向は真逆だが、かつてこの国で共産革命を夢見た人々も、銃器店やら交番やらを襲撃して火器を手に入れ、それで武装し今度は銀行強盗をはたらいて、革命資金を調達しようとしたではないか。その所業を、所謂「進歩的文化人」の方々はこぞって擁護し、称賛することさえ珍しくなかった。
目を海外へ転ずれば、ペルーの熱狂的毛沢東主義集団「
万事、みな斯くの如く。いつだって目的は手段を正当化してくれるのである。
全く以って度し難い。度し難いが、これほど便利な仕組みはあるまい。
利用しない方がどうかしているというものだろう。
現に、大いに利用された。腕に覚えがありながら、喰い詰めて面白からぬ日々を送っている――世が世ならば山賊や追剥にでもなる以外に能のなかった連中が、こぞって攘夷の看板を掲げたのはそういう次第だ。
むろん、この連中のことだから、世を動かす仕組みになぞまるきり無智で、ろくに読書経験もなく、日の本は何故神州か、ひるがえってまた何故異人は「夷」であるかと訊かれても、
――そうであるから、そうなのだ。
と、答えにもならぬ答えを返すか、さもなくば、
――そのような問いを口にするとは、貴様、さては開国論者か。
と、旧ソ連に於ける「資本主義者」並のレッテルをはりつけ、太刀を引き抜き、質問者を真っ二つにして議論そのものをぶち壊すのが関の山であったろう。
勤王の志士を名乗っていても、
が、一郎のように素朴な思考回路しか組み込んでいない坊ちゃん育ちの田舎者をたぶらかすには、その程度の付け焼刃でも充分だった。
彼らにとって一郎は、さしずめ
蟻が、砂糖の塊を見付けたに等しい。
――好餌。
それも、夢かと見紛うばかりの好餌であった。
自称「志士」がひきも切らずに神戸の門へ押し寄せたのも、蓋し必然だったろう。
そしてこの現象は、一郎の自尊心を大いに満足させてくれた。
――おれは重んじられている。
と、一郎は彼の頭皮の下にしか存在しない「志士社会」で自分の名声が日々高まるのを実感し、ひとり悦に入っていた。
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