穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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三島由紀夫と英国紳士 ―「優しさ」の正体への私見―


 前々から準備されていたのであろう。


 一九三九年九月三日、ネヴィル・チェンバレン首相によって対独宣戦布告が為され、イギリスが戦争に突入すると、さっそく新聞紙面には、


「婚約中の応召者に告ぐ」


 などと云う、妙な記事が出現あらわれた。


(これはこれは)


 たまたま現地に滞在していた日本人が興味を持った。個人主義の国イギリスも、一朝有事ともなれば斯くも私的な領域にまで「指導」の手を伸ばすのか。


(いい土産話になるだろう)


 彼の名前は植村益蔵


 救世軍の少将であり、先月中旬から下旬にかけてロンドンにて開かれた、同組織の最高会議に出席するため現地入りした人物だ。

 

 

Uemura Masuzo

Wikipediaより、植村益蔵)

 


 任務を終えて、帰国の準備にとりかかっていたところ、風雲急に巻き込まれたわけである。


(来るものがついに来たか)


「二十年の停戦」が目の前で木っ端みじんに打ち砕かれる、時代そのものが決壊した爆音に胴震いをしながらも、先の見通しをつけるべく、植村は半ば本能的に情報収集にいそしんだ。で、片っ端から読み漁った新聞中に、上の表題があったのである。


 恋人をのこして出征いかねばならない青年に向けしたためられたその記事は、一貫して激励の気に満ちており、後ろ髪を引かれるな、情けなくグズグズ逡巡するな、泣きっ面を晒すなど以っての外との論旨を維持して、とどめとばかりに、


君の婚約者の眼は、君を素晴らしい英雄として讃えている。願わくば、この幻を破壊することなきように


 煌めくような「殺し文句」がついていた。


(なんともはや)


 さすが前の大戦で、兵役拒否者を銃殺にした帝国の言うことである。

 

 まるで三島由紀夫であった。

 

 

Ishihara Mishima

Wikipediaより、三島由紀夫石原慎太郎

 


 あの文豪もよく似たことを折に触れては書いている。他者が己に視ているであろう手前勝手な幻想を、敢えて言葉にされずとも態度の節々から察し、その蜃気楼が霧散きえないように振る舞いに細心の意を払う。「優しさ」とは、すなわちそれ・・だ。虚飾を維持する隠れた努力の別名だ。


 裏を返せば、


 ――これが本当のおれだ。


 などと叫んで、見ろよ見ろよと突き付けるほど情けない、残酷な真似はないわけである。

 


「理解されようと望むのは弱さです」


「どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することなど決してできないものだ」


「理解されようとねがったり、どうせ理解されないとすねたり、反抗したりするのは、いわば弱さのさせる甘えに過ぎぬ」


「どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです」

 


 名著『不道徳教育講座』で、三島は繰り返し述べている。


 一九三九年の名も知れぬ英国人記者と、この認識は偶然にも一致した。

 

 

(ロンドン市内の高射砲陣)

 


 新聞にはまた立場を移して、残される婦人へと向けた心構えも載っていた。いわく「婚約者の出発を悲しみもて鎖す勿れ」、曰く「常に身につけることの出来る記念品を贈るべし」、曰く何、曰く何……。


「とにかく余りくよくよしないでサッと別れよ、と言っていました」


 と、植村は帰国して後、雑誌『雄弁』の取材に応え述懐したものである。

 

 

 

 

 


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権現様と福澤諭吉 ―先生、三方ヶ原を説く―


 まさか旧幕臣の自意識が、この男の脳内に片鱗たりとてあったわけでもなかろうが――。


 とまれかくまれ、福澤諭吉は家康につき、よく触れる。


 それも大抵、好意的な書き方である。


 ある場面では「古今無比の英雄」と褒めそやしさえしたものだ。権現様が基礎固めして成し遂げられた江戸徳川の天下泰平――三世紀近い長期間の大半を「善政」が占めていればこそ、潜在的な国力涵養も行われ、いざ明治維新となった際、日本社会はあれほどの、目を見張るばかりに長足の国運進歩を叶えることが出来たのだ、とも。

 

 

福澤諭吉

 


 さて、そういう男の両眼に、三方ヶ原の戦いは、いったいどう・・映ったか?


 敗れたりも敗れたり、徳川家康、生涯無二の大敗北。甲府盆地から這い出してきた猛獣軍団・武田信玄とその麾下に、挑みかかってコテンパンにぶちのめされた、あの一戦の顛末は?

 意外や意外、


「あれでよかった」


 と、これまた大いに肯定してのけているのだ。


 百パーセント敗北すると理解しながら、それでも敢えて打って出た、あの瞬間の家康公の決断を――。

 


…若しも徳川にして和を強国に求めて一たび其膝を屈せんか、祖先以来養成したる三河の士風忽ち沮喪して自立の気象を失ひ、四隣の敵国は其為すに足らざるを知りて軽侮凌辱交も至るも之を防ぐに力なくして、仮令ひ三方ヶ原の失敗を免るゝも戦国競争の間に徳川の国家を維持して自から衛るの見込は到底、覚束なかりしことならん。

 

 

Battlefield of Mikatahara, sekihi

Wikipediaより、三方ヶ原古戦場)

 


 戦って敗れたのであれば、まだしも面目は施せる。


 だがしかし、戦いもせず敗けたが最後、家康は二度と将として世間に顔を向けられなくなる。つまるところは廃人同然、再起不能の身に堕ちる。戦国とはそういう時代、ぬきさしならぬ殺気が常に天地を沸かしていた頃だ。


 そういう世では、面子メンツが即座に人の生き死に・家の興廃に関わってくる。


 そのあたりの消息を、家康は百も承知であった。


 よく知り抜いていればこそ、「予め必敗を期して戦に決し、予期の如く失敗して其将士をしてますます敵愾の心を起さしめ、却て敗軍の勝利を収めたるのみ」であるのだと、福澤諭吉は確信籠めて書いている。


 現在でもなお、かなり根強く支持されている「観方みかた」であった。

 

 

(三州名産・八丁味噌

 


 もっとも当の家康の身にしてみれば、「予期の敗北」とは言い条、陣を破られ、手回りさえも木っ端微塵に粉砕されて逃げまどい、挙句の果てに「戦国最強」の聞こえも高い武田勢から何処々々までも追いまくられる恐怖のほどは到底冷静に受け止められる域でなく。


 ――もうだめだ。


 と、絶望に駆られた瞬間が幾度もあったに違いない。寸前暗黒の感である。あられもない痴態を演じ後世に笑話の種を提供したのも、余儀なき運びだったろう。


 過酷どころの騒ぎではない修羅の巷の只中へ、繰り言になるがそういう場所だと重々承知した上で、我と我が身を突き飛ばしたる権現様の意志力は、もはや勇気などという通り一遍な表現程度に収まらず。


 狂気としか呼びようのない、人間性の深淵を窺わせるものだった。

 

 

伝統芸能三河萬歳

 


 思い返せば「世間は所詮、感情八分に道理二分」と称しては、理屈の通る間口の狭さをあげつらっていた福澤である。


 日常すべての挙措発言に意を凝らし、一瞬たりとも気随気儘にふるまわず、君主としての自分自身を末期の時まで維持し抜いた家康という人物は、ある意味に於いて福澤の理想だったのではあるまいか。


 少なくとも、「自由は不自由の中に在り」。この言葉の体現を権現様に見ていたとして、さまで不思議はないだろう。

 

 

 

 

 


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大目出鯛の戸沢どの


 佐竹がやってくる以前、羽州北浦――田沢湖附近一帯を治めていたのは丸に輪貫九曜紋、戸沢の一族こそだった。

 

 

丸に九曜

Wikipediaより、丸に輪貫九曜紋)

 


 石高、四万五千石。評判はいい。善政を敷いていたらしい。


 百姓どもと領主の距離も近かった。戸沢の殿が田沢湖畔に祠を建てて、宇伽神――弁財天を勧進すれば、百姓どもは毎年正月十一日に小判型の餅をこしらえ、供物に捧げに持ってくる。誰に命ぜられるまでもなく、自然とそういう習を成す。


 すると殿様、その敬虔さ、純朴さを喜んで、百姓どもの主立つ顔を城に呼び、酒肴を与えてもてなして、お褒めの言葉をかけてやる。そういう循環、年中行事がごくさりげなく形成されたものだった。


 まこと、長閑のどかな景色であろう。


 聖徳太子の唱えた理想、和を以て貴しと為せというのは、斯くの如きを指すのでないか。

 

 

田沢湖

 


 戸沢の徳を百姓どもは大いに喜び、また慕い、御家の武運長久と弁財天の加護とを祈り、ついには歌謡うたまで作られる。


「大目出鯛」とかいう題の、もう名前からして景気のいい歌だった。

 


 これの館の水口に。咲いたる花は何の花、黄金こがねの花か米の花、これから長者になりの花、おめでたいてや、おめでたいてや、おうくとこうくとおめでたい。それから長者と呼うばれて、呼ぶも呼うだし、呼うばれた、朝日の長者と呼うばれた。
 東窓の切窓から、おうがの神は舞い込むだ、なあにをもって舞ひ込むだ。黄金の銚子をさし上げて。
 どんどめぐてや、どんどめく、何をするとてどんどめく、ゑびす大黒、ぜにかねつむとてどんどめく。

 


 東北地方特有の訛りが諸所に挟まり、つっかかりを覚えるが、それでもまあ、おおよその雰囲気は察せよう。

 

 

田沢湖白浜)

 


 秋田県では今でも夏に、戸沢氏祭なる盛大な祭事が催され、過ぎし世を愛おしんでいる。

 

 

 

 

 


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【閲覧注意】 マゴットセラピー ver.1945


 日本に於けるマゴットセラピーの濫觴は、実は二〇〇四年にあらずして、一九四五年にまで遡り得る。


 そう、大東亜戦争末期のころだ。


 亀谷敬三医学博士が機銃掃射を浴びた患者の治療に用いて、めざましい成果を挙げている。

 

 

Tuskeegee reload P-51

Wikipediaより、P-51Bへの弾薬補充作業)

 


 このことは、当時の新聞にも載った。


 日附は六月十二日。一面を飾るような華々しさとは無縁だが、内容はさすが医者だけあって実際的な知識のみで埋められて、半狂乱の精神主義的傾向を少しも含んでいない点、記事の質はすこぶる高い。


 亀谷はこう書いたのだ。

 


 被害者にP51グラマン戦闘機の攻撃法を聞くと、田圃の中に一人ゐても人と見たら執拗に攻撃を加へてくる、船員などの場合は体を物かげにかくし、脚だけ出してゐたら脚を狙ったといってゐる、兎に角人間なら見逃さず出てゐるところをうち込むから被害者には手足の傷が多い、(中略)馬鹿にできないのは待避の際慌てて壕の入り口などで頭や胸をうつ怪我である。
 銃撃被創の治療については半数が骨折に関係あり、出血が多量であるから附添には必ず同血液型の人が来てほしい、体内の傷は弾丸が被服と共に入るため被服に附着してゐた黴菌で全部化膿し、容易に癒り難い、そこで化膿した部分を削除するため蛆をわかせ蛆に化膿した部分を食はせる治療法をとった結果は良好で普通の治療法より遥かに癒りが早かった。

 


「窮すれば通ず」は本当だった。どれほど絶望的な状況下でも、有益な発見は成されるものであるらしい。

 

 

P-51-361

Wikipediaより、飛行するP-51D)

 


 …にしても、だ。亀谷敬三医学博士は、どこからこういう発想のとっかかり・・・・・を得たのだろうか?


 その部分が少々気になる。まさか完全な独創でもないだろう。何かしら起点になった知識・情報があるはずだ。


 マゴットセラピーの歴史は古く、それこそ数千年前の原始未開時代から、オーストラリアの先住民族――アボリジニの間に於いて行われていた形跡がある。


 濠洲、つまりは南洋か。昭和十年代半ばから、南進論に煽られて、あのあたりの地理・歴史・文化・風俗等々を記した本がずいぶんと出版た。


 亀谷先生、あるいは太平洋協会の著作物でも読み漁っていたのでないか。

 

 

(わが書棚。手前三冊が太平洋協会の本)

 


 勝手な想像に過ぎないが、あれこれ背景を考えるのはそのこと自体が脳にとって有益だ。重量を増し、皴を深くし、老化を防ぐ効がある。先人よ、どうか御寛恕召されたし。

 

 

 

 

 


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町工場の神頼み ―「科学と霊魂の興味ある一致」―


 工場ではよく人が死ぬ。


 電気を貪り喰らいつつ、ひっきりなしに駆動する金属の森の只中で、有機体はあまりに脆い。


 注意一秒・怪我一生、刹那の油断が命取り。指が飛んだり皮膚が溶けたり、そんなことはしょっちゅうだ。それだから昔の町工場は、よく敷地内に祠を建てた。祠を建てて神酒を供えて両掌りょうてを合わせて勧進し、「良き運命」を呼び込まんと努力した。

 

 

(戦前・花王石鹸工場)

 


 そのころ都下でくすぶる文士に、遠藤節というやつが居る。


「節」一文字で「さだむ」と読ませる。長塚節の影響を、いやが上にも勘繰りたくなる、そういう名前の持ち主が、ネタを求めて東京市の工業地域――蒲田区に足を踏み入れたのは、昭和十四年の秋だった。


 折からの軍需景気によって、一帯は活気づいていた。


 そこで見たもの、聞いたことを基にして、つくりあげた探報記にも、

 


 鉄筋コンクリートの橋の下に、建てたばかりの真新しい地蔵尊がある。ビール箱ほどの可愛い祠の前に、「厄除地蔵尊」と書いた白と赤の幟が立ってゐる。
 だいたいこの工場街ほど神様の多いところもないだらう、どんな小さな工場にも赤い鳥居があり、石の祠がある。科学と霊魂の興味ある一致だ。
 一人の職工服を着た青年が、地蔵尊の前に蹲って掌を合わせた。真面目さうな青年だ。まさか恋愛の成功などを祈ってゐるわけではあるまいから、今日の無事を感謝してゐるのだと見てよいだらう。

 


 このような文脈が確認できる。


 えもいえず床しき光景だ。きっと時刻は夕刻だろう。太陽はつるべ落としに落ちきってしまう瀬戸際で、影法師は長く伸び――想像するだに、こう、しんみりと、胸に迫るものがある。信仰はこれぐらいさりげなく生活景色に溶け込んだ、素朴であるのが望ましい。

 

 

 


 ……ああ、だが、しかし、やんぬるかな。「東京」の「工業地域」である以上、やがて来たる大空襲を、この蒲田区が逃れられる筈もなく。


 徹底的に爆撃されたに違いない。夥しい祠の群れも、悉皆烏有に帰したろう。


 稲荷も地蔵も産土神も、B29の投下するナパーム弾には敵わない。


 どれほど水をぶっかけようが、委細構わず燃え盛る。バケツリレーなぞまるきり無力、蟷螂の斧が関の山。ナパームとはそうしたもの。さしもの祖霊もこの情景に直面すれば、


 ――すわ、地獄の焔の顕現か。


 と、大いに恐れ、おののいたのではなかろうか。

 

 

 

 

 


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大陸浪人かく語りき


 大陸浪人多しといえど、およそ須藤理助ほど著名な志士も稀だろう。

 

 彼がその種の活動に手を染めだした契機きっかけは、明治三十七、八年の日露戦争に見出せる。


「皇国の興廃この一戦にあり」。国運を賭したかの戦役に、陸軍軍医中尉として参加していた。出征先で須藤が見たのは、際涯もない大陸的な風景と、亡国的窮境にあえぐ支那細民の姿であった。

 

 

揚子江の日暮れ)

 


 それらの要素が、彼の精神を不可逆的に変質させてしまったらしい。


 戦争が済み、凱旋したのも束の間のこと、郷里の人に手柄話をゆっくり語ることもせず、取って返すようにして再三海を渡って征った。


 以降、支那大陸にて活動すること三十余年。


 士官学校の教官役に任じたり、一軍の参謀長として作戦行動を補佐したり、軍医中将の待遇で民国から招かれたりと、須藤の事績は多岐に及んで華やかで、要約の術にともすれば戸惑わされるほどである。


 南京に於ける日本人居留民のまとめ役という顔すらも、晩年には獲得していたようだった。

 

 

皇軍の南京入城式)

 


 さて、そんな須藤が広西省桂林を拠点と定めていた時分。


 当地の府知事が倉皇として彼を呼んだことがある。なんでも妻がにわかに病を得たらしく、至急診察してくれとのこと。


「承知致した」


 二つ返事で引き受けて、直ちに支度を整える。


 六人担ぎの駕籠に乗り込み、赴いた。こういう大時代的な代物を白昼素面で使うのは、日本人の神経上、どうにもこうにも滑稽感を免れないが、


(礼教の国だ、やむを得ぬ)


 高位の者に対しては、訪問にも然るべき威儀が必要であり、それを無視して押しかけた場合、どうなるか。


 火を見るよりも明らかだろう。相手は「面子を蹂躙された」と怒髪天を衝くようになり、結果無限に話が拗れる。その法則は、急患の場合も容赦なく適用されるものらしい。


(仕事を円滑に遂げるため、忍ぶべきは忍ばなくては)


 そのように己に言い聞かせ、須藤は羞恥に堪えている。

 

 ところが、馬鹿な事態になった。


 府知事のやしきに到着しても、門番が邪魔をし、通さない。


「入れて欲しけりゃ、門銭を出せ」


 どうやら婦人の発病をまだ知らされてないらしく、常の客にそう・・するようにぬけぬけと、賄賂の徴収に勤しむのである。


「おい、ふざけるな」


 あまりに愚劣な展開に、流石の須藤も堪忍袋の緒を切った。


 駕籠をぐわらり・・・・と開け放ち、


「貴様こそ銭を払って俺を迎えろ、さもなきゃあ俺はここを通らぬ、ああ通ってやらぬとも。その時は、いいか、お前の首は熟柿みたいにはたき落とされ、どぶ・・ン中に転がるぞ」


 怒鳴りつけると、さしも厚顔な門番も何か直覚したらしく、急に腰を低くしてすごすご門を開きにいった。


 一見すると取るに足らない、些細な事件。しかしこういう日常の合間合間に於いてこそ、民族性とは出るものだ。


 三十余年のはたらきを通し――須藤理助も支那人性質サガをたっぷり知った。

 

 

(須藤理助)

 


 名うての「支那通」たる彼は、その立場から忠告している。日本内地の同胞へ、この「違いすぎる」隣邦に、どんな心構えで臨めばよいか。昭和十四年十二月、『雄弁』第三十巻の紙面を借りて――。

 

 実体験に厭というほど即したソレは、一世紀近くを経た現在も充分傾聴くに値する。

 


支那では、料理人は石炭や日用品の頭をはね、運転手はガソリンをのみ、別当は馬糧を食ふといふ調子に必ず盗みを働くが、それは普通のことであって、あまり罪悪とは考へて居らない。従って頭をはねさせまいと思へば、こちらで一割程度のコミッションを与へるやうにして、未然に盗みの防止策を講ずるほかはない」


一も金、二も金、金がなくては一歩も歩けぬのが支那である。
 日本人は、名誉を第一とするが、支那人は名誉だけでは、少しも有難がらない。名誉と金とが一緒に来て、始めて『發財』と有頂天になるのである。
 名誉と福利とを得ることが、支那人の理想であって、万民斉しく渇望するところである。それ故、支那大陸を旅行すれば、何処へ行っても、『名利棧』といふ屋號の飯店(旅館)がある。そこへ宿泊すれば、名利が得られるといふ縁起をかついで、こんな屋號が生れたのであらう」

 

 

(漫画・清水対岳坊)

 


支那人を指導するに当って、最も心してかからねばならぬのは、あまりこちらから下手に出るとつけ上がるといふことだ。与し易しと見れば、威張り散らし、しかも図々しくて横着だ。と云って、高圧的に出れば、寄りつかない。強いもの大きなものには服従するが、弱いもの小さいものの前では、実に尊大で、容易に屈しない。その狡猾さは、お話にならない位である」

 


 然り然り、「首を垂れる稲穂かな」は金輪際通じない。


 一度頭を下げたが最後、ぶん殴って這いつくばらせて靴裏で踏み躙ってくるものと覚悟しておくべきである。

 


支那人を指導して行くには、やさしくしてやるのも程度がある。あまりやさしくしすぎると、彼等は増長して、云ふことを聞かなくなる。矢張り、権力と金と勇気とをもって、恩威並び行ふことこそ、最も緊要適切なる方法であり、要諦であろうと思ふのである。それは恰も、馬を禦するのと同様で、手綱は寸時もゆるがせに出来ない。常にしっかりと手綱を締めてかかる必要がある」

 


 四千年来変わらない漢民族の本質に、須藤理助は確かに触れていたようだ。

 

 

 

 

 


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花咲く布袋


 大正九年から十年にかけ、布袋竹の一斉開花と枯死が来た。


 この「一斉」の二文字を、どうかそのまま受け取って欲しい。


 現象が確認されたのは、福島、新潟、長野、山梨、神奈川、東京、栃木、茨城、群馬、千葉、愛知、岐阜、兵庫、大阪、奈良、京都、香川、徳島、愛媛、高知、鳥取、島根、佐賀、福岡、熊本、大分、宮崎、そして鹿児島。四十七都道府県中過半数越え二十八、上は東北から下は九州に至るまで。ブラキストン線の向こう側、北海道を例外とする日本すべての地方に於いてであったのだから――。

 

 

Phyllostachys aurea0

Wikipediaより、布袋竹)

 


 竹の開花、それ自体が既に立派な珍事であるのに、こうまで気息が揃うというのはなにごとだろう。どう表現したものか、語彙に惑うほどである。


「天地開闢ひらけてはじめてのこと」


 との修飾がすこしも誇大にあたらない、極めて稀な例だろう。


 それまで布袋竹の花といえば実物はおろか標本すら見た者はないと言ってよく、ただ理学士武田久吉が奥日光を登山中、たまたま発見みつけ採取した一枝ばかりが存在するのみだった。


 ところがどうだ、もはや一般人であろうとも、ごくごく気軽にこの「貴重品」を拝める日が来たのである。


「釣具屋にとっては災難だろうが」


 私共にしてみれば勿怪の幸い、欣快に堪えぬ事態なり――と、当時に於いて書いたのは、植物学者の川村清一


 布袋竹は特徴として稈の先が細長く、且つ強靭ゆえ釣り竿には最も適した素材であった。

 

 

Phyllostachys aurea2

Wikipediaより、布袋竹の稈)

 


 手元の部分は女竹で我慢できないこともなくとも、先端部分はどうしても布袋竹を継がねばならぬ。これがすなわち、当時に於ける定説だった。


 ところが今や全国各地の布袋竹は枯れ落ちて、必須材料の供給をために断たれた釣り竿製造業界は、ずいぶんな悲況に見舞われるに違いない。川村の文は、そういう意味を内包している。


 彼はまた、この時期なにかの用向きで九州地方を旅したらしく、その途中、


「熊本より鹿児島行の汽車に乗って沿道の左右を見渡すと、山里に夥しく竹林を成して居るのが悉く褐色を呈して、目も当てられぬ光景である」


 このような記録をつけもした。


(工場の煤煙でも浴びたのか)


 不吉な予感が咄嗟に胸をよぎったが、訊ねればすぐ「褐色の部分の竹林」がみな布袋竹から成る地帯だと確認できた。


 当時に於ける鹿児島県の竹林は、面積にして実に八千四百四十町歩。うち最大を占めるのが真竹三千十七町歩で、三千十六町歩の布袋竹がこれに次ぐ。


 一位と二位を隔てているのは一町歩、紙一枚の僅差でしかない。


 角逐し合う両者のあとを孟宗竹千二百町歩が追いかけて、さらに淡竹二百九町歩と、ざっとこのような塩梅である。


 上記の如き光景が成立する条件は、十二分に揃っているというわけだ。

 

 

(鹿児島の孟宗竹林)

 


 それやこれやで、


「竹の開花は生理現象であるから、絶対に之を予防することは出来ないが、肥料を充分に与へて置けば、かういふ場合に、恢復することが早い。又花が開くと、地中の養分を一時に吸収するから地が疲弊する。故に開花の兆候を認めたならば、平年よりも余計竹を伐って了ふがい。すると開花の為に地下に貯へた養分を一時に消費することがなくて済む」


 おそらくは一世紀に一度、使いどころが有るか無いかの、斯くの如き忠言を、川村清一は世に与えている。


 なお、関東大震災が突発したのは、布袋竹の一斉開花が観測されておよそ三年。大正十二年九月一日のことだった。

 

 

(伝統的な竹細工)

 


 科学的根拠は何もない、安易な結びつけはやめろ、それは迷信の入り口だぞと自戒に自戒を重ねれど、共に大地に由来している現象だけに、つい想わずにはいられない。


 日本の底に、いったい何が潜むのだろう。

 

 

 

 

 


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