大正九年から十年にかけ、布袋竹の一斉開花と枯死が来た。
この「一斉」の二文字を、どうかそのまま受け取って欲しい。
現象が確認されたのは、福島、新潟、長野、山梨、神奈川、東京、栃木、茨城、群馬、千葉、愛知、岐阜、兵庫、大阪、奈良、京都、香川、徳島、愛媛、高知、鳥取、島根、佐賀、福岡、熊本、大分、宮崎、そして鹿児島。四十七都道府県中過半数越え二十八、上は東北から下は九州に至るまで。ブラキストン線の向こう側、北海道を例外とする日本すべての地方に於いてであったのだから――。
(Wikipediaより、布袋竹)
竹の開花、それ自体が既に立派な珍事であるのに、こうまで気息が揃うというのはなにごとだろう。どう表現したものか、語彙に惑うほどである。
「天地
との修飾がすこしも誇大にあたらない、極めて稀な例だろう。
それまで布袋竹の花といえば実物はおろか標本すら見た者はないと言ってよく、ただ理学士武田久吉が奥日光を登山中、たまたま
ところがどうだ、もはや一般人であろうとも、ごくごく気軽にこの「貴重品」を拝める日が来たのである。
「釣具屋にとっては災難だろうが」
私共にしてみれば勿怪の幸い、欣快に堪えぬ事態なり――と、当時に於いて書いたのは、植物学者の川村清一。
布袋竹は特徴として稈の先が細長く、且つ強靭ゆえ釣り竿には最も適した素材であった。
(Wikipediaより、布袋竹の稈)
手元の部分は女竹で我慢できないこともなくとも、先端部分はどうしても布袋竹を継がねばならぬ。これがすなわち、当時に於ける定説だった。
ところが今や全国各地の布袋竹は枯れ落ちて、必須材料の供給をために断たれた釣り竿製造業界は、ずいぶんな悲況に見舞われるに違いない。川村の文は、そういう意味を内包している。
彼はまた、この時期なにかの用向きで九州地方を旅したらしく、その途中、
「熊本より鹿児島行の汽車に乗って沿道の左右を見渡すと、山里に夥しく竹林を成して居るのが悉く褐色を呈して、目も当てられぬ光景である」
このような記録をつけもした。
(工場の煤煙でも浴びたのか)
不吉な予感が咄嗟に胸をよぎったが、訊ねればすぐ「褐色の部分の竹林」がみな布袋竹から成る地帯だと確認できた。
当時に於ける鹿児島県の竹林は、面積にして実に八千四百四十町歩。うち最大を占めるのが真竹三千十七町歩で、三千十六町歩の布袋竹がこれに次ぐ。
一位と二位を隔てているのは一町歩、紙一枚の僅差でしかない。
角逐し合う両者のあとを孟宗竹千二百町歩が追いかけて、さらに淡竹二百九町歩と、ざっとこのような塩梅である。
上記の如き光景が成立する条件は、十二分に揃っているというわけだ。
(鹿児島の孟宗竹林)
それやこれやで、
「竹の開花は生理現象であるから、絶対に之を予防することは出来ないが、肥料を充分に与へて置けば、かういふ場合に、恢復することが早い。又花が開くと、地中の養分を一時に吸収するから地が疲弊する。故に開花の兆候を認めたならば、平年よりも余計竹を伐って了ふが
おそらくは一世紀に一度、使いどころが有るか無いかの、斯くの如き忠言を、川村清一は世に与えている。
なお、関東大震災が突発したのは、布袋竹の一斉開花が観測されておよそ三年。大正十二年九月一日のことだった。
(伝統的な竹細工)
科学的根拠は何もない、安易な結びつけはやめろ、それは迷信の入り口だぞと自戒に自戒を重ねれど、共に大地に由来している現象だけに、つい想わずにはいられない。
日本の底に、いったい何が潜むのだろう。
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