穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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竹、甘い竹 ― Tabaschir あるいは Tabasheer ―


 ある種の竹はその節に、甘味を蓄積するらしい。


 本多静六が書いている。


 この筆まめな林学士、日本に於ける「公園の父」とも渾名される人物は、人生のどこかで台湾を、――それも高雄や基隆の如き都市部に限らず草深い地方をも歩き、その生活を字面通り支えるに、竹材がどれほど寄与しているかを目の当たりにして、俄然この被子植物に興味を持った。


 彼の起こした感興たるやどれほどか、

 


「竹の柱に竹の屋根、竹の寝台に竹の壁、椅子も机も桶も杓子も竹ならざるはなく、陸を行くにも竹の輿、海を行くにも竹筏、川には竹の橋を架し、家には竹の林を繞らし、飯を炊くにも竹を焚き、酒を買ふにも竹の筒で、竹がなければ一日も生活することは出来ないほどである」

 


 いまにも手足を舞わせんばかりの、はずむようなこの文体に、くっきり浮き彫りになっている。

 

 

Honda Seiroku

Wikipediaより、本多静六

 


 そろそろ話頭を竹の甘味に引き戻す。


 これについては竹内叔雄の随筆にも確認できない。


「竹博士」のお株さえ、ともすれば奪いかねないような本多静六の博覧強記ぶりだった。

 

 曰く、

 


 熱帯産の数種の竹類中には、節間中に清澄な甘味の液を含有して、旅人の渇を医するものがある。其味砂糖に似て居るので竹砂糖と云ひ、約八十六%の珪酸を含有する。インド地方では古来之を貴重なる医薬とし、殊に発汗剤として用ゐた。其後近隣諸国に輸出せられ、ペルシャ人は之を「樹皮の乳汁」と称し、アラビアでは古来 Tabaschir と称し、今猶アジア南部に於ける貴重薬として貿易品の一となって居る。

 


 実際嚥下したならばどんな刺戟が来るものか、ちょっと試してみたくなる。舌で、喉で、はらわたで、賞味したい代物だ。


 ココナッツシュガーが市民権を得たように、竹砂糖もいつの日か、日本の食卓に珍しくなくなる、そんな展開があるのだろうか?


 せいぜい期待しておこう。

 

 

 


 ――先日の記事を書くついで、大正・昭和の林学士どもの書いたものをあれやこれやと漁ったが、想像以上に個性的なメンツが多く、得るところが多かった。


 上の噺も、その「得たもの」のうちの一つに含まれる。


 他に印象的だったのは、

 


「日本に於ける山林植物の種類は三百種の多きに達し、西洋のそれに殆んど十倍する。山林植物と水産物とを以てならば、優に欧米諸国と競争が出来ると思ふ。吾々は海国男子であると同時に山国男子である

 


 志賀泰山のこの喝破であったろう。


 名の雄大さに遜色ない、いい気を吐くと思ったものだ。


 四方八方ぜんぶ山、宛然一個の盆に等しき地形で育った筆者わたしには、特に応える部分があった。ああ、そうだ、おれは山国男子だったのだ。……

 

 

 


 今年もきっと、山梨は暑くなるだろう。


 野良に響くラジオの音、ノイズ混じりの放送を、束の間耳底に聴いた気がした。

 

 

 

 

 


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今昔神保町


 無性に神田に行きたくなった。


 一枚の写真が契機きっかけである。


 これが即ちその「一枚」だ。

 

 

 


 いちばん手前の屋号に注目して欲しい。


 右から左へ、流れるような草書の文字は、「大雲堂書店」と読める。


 ある種のビブリオマニアなら、この時点でもうピンと来るに違いない。この看板を掲げた店は、令和五年現在も絶賛営業中ゆえに。


 そう、この写真は今からおよそ一世紀前、「昭和」の御代が明け初めて未だ間もない時分の折の神保町を撮影したものなのだ。


 否でも応でも胸が高鳴る血が騒ぐ。


 そういうわけで行ってきた。


 これが最近の大雲堂。

 

 

 


 筆者が『生田春月全集』と運命的な邂逅を遂げ、古書の世界にますます深入りしていったのも、思えば明治二十六年創業の、この店に於いてこそだった。


 あれに劣らぬ良き出逢いを求めつつ、しばし通りをうろつきまわる。

 

 

 


 パチンコ店の潰れた後に古本屋が入るなど、如何にも神保町に相応しい景色であったろう。

 

 

 


 当日最大の収穫は、この「@ワンダーJG」にこそ待っていた。


 雑誌『雄弁』第三十巻、昭和十四年十二月一日発行――。

 

 

 


 記録に依れば昭和四年末の時点で日本の雑誌の総数は、六百十二種に及んだそうだ。


 うちのいったい何割が、十年持たずに消えたのか。


 正確な数は不明だが、まず九割は固かろう。でなくば「三号雑誌」などいう俗語が、流行するわけがない。創刊から廃刊までわずか三号のスピーディーさが生起せしめた言葉であった。

 

 

(戦前の雑誌売り場)

 


 炭酸水の泡みたく、次から次へと生まれては、片っ端から消えてゆく。


 出版業は目まぐるしきかな。それもこれも、日本人の読書熱が旺盛なればこそだろう。

 

 

 


 とまれ『雄弁』三十巻で、私はずっと未知だった、稲原勝治の面構えを漸く見ることができた。「対談」という形式で、開幕間もない第二次世界大戦の情勢分析をやっている。


『雄弁』はいい人選をしてくれた。

 

 

(稲原勝治)

 

 

 本書の値段はポッキリ千円。野口英世一枚を手放す価値は十分にある。躊躇なく財布の紐を緩めにかかった。自己の判断の正当性を、今以って私は疑わぬ。

 


 折角ここまで来た以上、靖国にも参拝しよう。

 

 

 


 九段下で地下鉄を出た。

 

 

 


 東京メトロの入り口も、九十年を間に挟んで随分な変わりようである。


 ときに昭和十二年、東京日日新聞は緒に就きだした地下鉄事業を占うに、

 


…浅草から新橋まで約五マイルの地下工事は実に十ヶ年の日子にっしとマイル当り七百乃至七百五十万円の大金を投じて完成したもので、然もこれが我が土木界には不慣れな事業であったため、この間屡々地割れ、陥没等の災難を経験した。然しながら海外諸国の例に見るも、ラッシュ・アワーに郊外生活者を都心に運ぶにはこの地下鉄が最も効果的であって、目下東京高速鉄道も一昨年来新橋、渋谷間の四マイルに亘る工事に全力をあげてをり、更に本年九月から二ヶ年の予定で新宿、赤坂目付二マイル六分の工事が始められる。そしてこの三線合計の工事費は六千五百万円に上るので、このパイオニア・ワークが将来のわが地下鉄事業に貢献するところは大であろう。

 


 このような――つまりはかなり前向きな――記事を以ってした。


 これを書いたやつ、校正したやつ、活字を拾って組んだやつ、全員に現代の東京の地下鉄網を見せてやりたい。蜘蛛の巣みたく入り組んだ、あの路線図を突き付けて、表情がどう変化かわるかをじっくりとっくり観察したい衝動が湧く。

 

 

Tokyo metro map ja - Tokyo Metro lines

Wikipediaより、東京メトロ

 


 ……ちょっと下卑た興味だろうか?


 私も所詮人畜生、俗界を蠢く一肉塊。


 その性根には抗えぬ。


 大鳥居が見えてきた。

 

 

 


 境内の対照を試みる。

 

 

 

 


 こちらはそれほど甚だしい差異はない。


 過ぎし世の面影を伝えるのは、やはり神社仏閣の役割なのだ。

 

 

 

 

 


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昇進お断わり ―日本の場合、イギリスの場合―


 三井物産は日本最初の総合商社だ。


 海外への進出も、当然とりわけ早かった。


 明治十二年にはもう、英国首府はロンドンに支店を開いてのけている。


 大久保利通が紀尾井坂にて暗殺された翌年だ。まずまず老舗といっていい。その歴史あるロンドン支局に、これまた永年、奉職してきた小使がいた。

 

 

MITSUI & CO., LTD. 2

Wikipediaより、三井物産ビル)

 

 

 現地採用の英国人で、十九世紀の白色人種がみずから求めて黄色人種の下働きになりにゆくということは、それ自体がもう異変であった。よほどの奇人か、選り好みする余裕というのをまったく持たない下層民かのどちらかだろう。


 彼の場合は、後者であった。


 といって、評価は悪くない。


 よく気が利くし、勤務態度は実直で、社員の視線が離れた隙に備品をこっそりちょろまかすような真似もせず。およそ店舗の運営を円滑ならしむるために、必要とされる多くの美徳を兼ね備えた男であった。


 ――それほど要領がいいならば。


 小使ごとき卑役のままで居させておくのは惜しかろう、もっと大きな、相応しい仕事があるはずだ。そういう声が上がったことも、むろんある。つまりは昇進のお達しである。


 ところがそれを聞かされた、当人の反応はどうだろう。


 意外も意外、彼は蒼褪めてしまったのである。


 ――冗談じゃない。


 と言わんばかりに頬の筋肉をこわばらせ、かぶりをふりつつ、ややあって、まくし立てた内容こそ凄まじい。


 ちょっと、いささか、あまりにも、英国的に過ぎたのだ。


「どうかこのままにして置いてくれ、そして願わくば俺の子供に、いつかこの役を引き継がせてくれ」


 保守精神・伝統指向の権化以外に、相応しい表現が見当たらぬ。

 

 稲原勝治がさんざん味わい、辟易を通り越してもはや愛すら抱くに至った英人らしさ。こんな場所にもそれは遺憾なく発揮され、不慣れな日本人の眼をある種の魚類さながらに丸くせしめたものだった。

 

 

霧の都ロンドン)

 


 むかしむかしの元禄時代、五代将軍綱吉の世に、三枝喜兵衛なるさむらいがいた。


 歴とした士分だが、これといってなんの仕事もしていない。職にあぶれた、所謂「非役」の分際である。こういう手合いをひとまとめ・・・・・に括っておくため幕府には、小普請組なる部署がある。


 喜兵衛もまた、それへ属した。


 如何なる面でも御政道に携わることは出来ないが、ともかくこまめに登城し、適当な上役をつかまえて、


 ――お頼み申す。


 と見込みの薄い猟官活動を繰り返す日々。地蟲のようにうらぶれた御家人喜兵衛の日常に、しかし一日、予想だにせぬ転機が来た。

 

 

江戸城二重橋

 


 どういう物のはずみであろう、葉武者としか言いようのない彼の名を、将軍綱吉が知ったのである。知って、更にその上に、三段飛ばしで一気に地位を引き上げる、およそ前例のない人事をやった。


 なにごとにつけ旧を守る・・・・を善しとする、封建の世にほとんど有り得るはずもない、この奇蹟を前にして、喜兵衛はむしろ喜ぶよりも戦慄してしまったらしい。


「拙者ふぜいには、とても」


 戦慄が彼に、逃げ口上を吐かしめた。


 家計窮迫のため相勤まらずとか何とか言って、この「栄誉」から免れようと、回避を図ったものである。


 だが それが 逆に五代目の将軍の逆鱗に触れた。

 

 

 


「喜兵衛めは、けしからぬ」


 首筋まで真っ赤に染めて、犬公方さまは叫んだという。


 せっかく俺が特に眼をかけ、陽の当たる場所へ出してやろうとしたというのに、撥ねつけるとはなにごとだろう。これは「主を軽んずる」不徳そのもの、裏切り、忘恩の沙汰ではないか。


 可愛さ余って憎さ百倍、プレゼントは素直に受け取り、歓喜を全身でアピールせねば却って意趣を抱かれる。過度の謙遜は毒物なのだ。そういう処世上の必須知識を、三枝喜兵衛は迂闊にも、失念しきっていたらしい。


 だから雷が落とされる。


島流しにせよ。不届き者めを追っ払え」


 そういうことになった。


 あれよあれよと言う暇もなく、喜兵衛の身柄は滄海遥か八丈島に送られる。

 

 

八丈島西北岸の景)

 

 

 有為転変は世の習いと言うものの、ちょっと、あまりに、こいつは度が過ぎていた。


「なんということだ」


 喜兵衛の精神状態は悲歎を超えて一種白痴こけのようになり、ついに回復していない。


 自害も、抜舟も、この男は選ばなかった。「選ぶ」という行為に踏み切る気力すら、その魂は奮い起こせはしなかった。


 十二年かけ、この島で、なめくじが乾いてゆくように、ゆっくりじっくり衰死している。

 


 ――そういう記録が、昭和三十九年に刷られた八丈島流人銘々伝』に載っている。

 

 

 本書を通読している最中、当該部分を視線で一撫でした際に、脳裏にぱっと前半の――三井物産英国支店の小使の佳話がひらめいたというわけだ。


 新たな知識に類似の記憶が脳の奥から呼び起こされる、連鎖反応の一種であろう。


 もっとも三井物産は綱吉ほどの苛烈さを、その性格上、持ち合わせてはいなかった。


 でなくば「佳話」とはとても書けない。なに、昇進を嫌がった? ふてえ野郎だ、意欲に欠けるんじゃあねえか、足りてねえぞ、社への奉仕精神が――などとくだ巻き無慈悲にくびきったりはせず、ちゃんとそのまま雇用した。


 ――それが英国気質なら。


 もはや已む無し、何をか言わん、郷に入っては郷に従うべきである、と、積極的に折れ合う気さえあったろう。

 

 

(ロンドンの牛乳売り)

 


 望んだ通り、居心地のよい在るべき場所に収まり続け、小使はとても幸せだった。


 つまりはめでたしめでたしである。ハッピーエンドといっていい。当人が満足している以上、文句のつけようのないことだ。

 

 

 

 

 


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狂信者、徳川家光


 家光は信仰の持ち主だった。


 しかして彼の熱心は、アマテラスにもシャカにも向かず。


 高天原の如何な神、十万億土のどんな仏にもいや増して、東照大権現・神君徳川家康をこそ対象としたものだった。


 まあ、この三代将軍の、因って来たるところを見れば無理もない。

 

 

Iemitu

Wikipediaより、徳川家光

 


 幼少期、将軍家の跡取りとして専ら期待されたのは、家光でなくむしろ弟の忠長だった。


 忠長の才気、容貌は、まさに輝くばかりであって、彼の前では家光ごとき、泥人形かいいとこ案山子が精々な、なんの光も放たないうらぶれた石塊でしかない。


 父も母も、ごく自然な人情として忠長にこそ我が家の後事を託したく、愛を注いで贔屓して、そういう雰囲気の家庭内にて家光は、いうなら体よく放置された状態だった。


 その境遇をどんでん返しさながらに、一八〇度覆したのが家康である。


 ――長幼の序を誤るは家門の乱るる基。


 神君の鶴の一声で長子相続制は確立された。


 その「一声」を出さしむるため、舞台裏にて春日局の大苦労があったわけだが、それについてはここでは触れない。


 家康という絶対者の決断に背けるものが、当時の日本に居るはずもなく。将軍の座が家光にこそ渡ること、これにて明白になったのだった。

 

 

(旧江戸城桜田二重櫓)

 


 家光の日常は、一変したといっていい。


 昨日まで忠長の機嫌を取り結ぶべく汲々としていた諸将らは、掌を返すような素早さで、今度は家光の膝下に擦り寄り、叩頭し、うやうやしげに貢物を差し出す始末。


 そのいやらしさに直面し、


(これはどうだ)


 人間とはなんと現金ないきものだろう、いったい彼らに定見というものがあるのか、どうか、ただ大勢に順応してゆくだけの、浮草野郎ばかりかよ――と軽蔑の気を起こすほど、家光の性根はねじれていない。


(ひとたび祖父の威に打たれれば、世の中はなべてこう・・である)


 ごくごく無邪気に、家康の力の巨大さを思い、それが自分の為にこそ揮われたことに感謝した。


 この感情は時を追うに従って、いよいよ昂まり、純化され、ついに「崇拝」の領域にまで突き進み、よってもって一個の巨大な結晶体を形作るに至るのだ。

 

 たとえば彼が将軍の座を継いで以後。家康とじかな関わりを持つ古老などと対話中、「そういえば権現様は…」などと口の端にでも上らせようものならば、それがどんなに些細な話柄であろうとも、


「しばし待て」


 家光はすかさず顔を引き締め、羽織袴の崩れを直し、両手を着いて頭からのめり込むような姿勢になって、


「さあ、申されよ。権現様はなんと仰せられし」


 せっつくように、いや、現に、話の続きをせっついたと伝わっている(『徳川実紀』)。


 彼はまったく「秀忠の子」というよりも、「家康の孫」という方にこそ、おのれ誇りの基盤を求めたものだった。

 

 

(旧江戸城・田安門。明治九年ごろ撮影)

 


 壮年以降は夢に家康が出現あらわれるたび狩野探幽を呼びつけて、


「権現様はこれこれこういう出で立ちでおいでなされた」


 事細かに説明し、その通りの特徴の絵を描くよう命じたほどである。


 探幽、少なくとも表面上は倦む気振りをまったく見せず、律義にこれに付き合った。


 結果夥しい数の東照大権現霊夢像」が作製されて、十幾点かが今もなお、現存しているとのことだ。


 うち一枚たる白衣立膝の家康像の裏側を、そっとめくって覗いてみると、


東照大権現霊夢難有被思召、寛永十九暦十二月十七日、奉畫於尊容給而已九拝」


 との文字列が見出され、必然的に四百年前、完成したてのこの絵の前で総身を小きざみに慄わせて、激しきった感情のまま何度も何度も伏し拝んでいる家光三十八歳が、余儀なく瞼に浮かんでしまう。

 

 

Kanou Tanyu

Wikipediaより、狩野探幽

 


 普通こういうのは人生の然るべきタイミングで、


 ――おれは何をやっているんだ。


 と、俯瞰の視点が発生し、唐突に我に返るものだが、こと家光に限っては、その形跡が毫もない。


 彼の信仰は最後の、最後の、最後まで、小動こゆるぎすらしなかった。


 なにせ死病に冒されて、息も絶え絶えの枕頭から自分の葬儀を指示して曰く、


「わが遺骸むくろは日光山に葬れ。魂となり、朝夕東照宮の神霊に近侍するのがたのしみである


 こんな風であったというから、骨がらみというか、膏盲に入るというべきか、とにかく筋金入りだろう。


 家光はその生涯で、日光東照宮に参詣すること、都合十度に及んだという。


 これほど足繁く家康の霊に逢いに行った将軍は、後の十二代を総攬しても彼を除いて絶無であるといっていい。


 ときに『武功雑記』には、家康が喋ったという訓戒として、


「凡そ人は一生の内三段のかはり目あり。大事の儀なり。先づ十七八歳の時は、友に従って悪しく変る事あり。三十歳の時分は物事に慢心して、老功の者をなんとも思はぬ心出るものなり。四十歳の時分には、物事退展し、述懐の心出でゝ悪しくなるものなり。此三度に変らぬものをよき人といふべし」


 斯くの如きが載っている。

 

 

Yomeimon (Gate of Sunlight), Japan; April 2018

Wikipediaより、日光東照宮陽明門)

 


 ――売り家と唐様で書く三代目。


 ――親苦労、息子道楽、孫乞食。


 川柳子が諷した通り、往々にして没落の切所となりがちで、その立ち位置を危ぶまれるのが三代目。だが徳川家は、実に「よき人」に恵まれた。

 

 

 

 

 


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林業衰退プレリュード ―萌芽は既に大正に―


 大正後期、安価なるアメリカ製の木材が、怒涛の如く日本国へ押し寄せた。


 数字に徴して明らかである。


 大正九年はものの八十七万石に過ぎなかった代物が、


 翌十年には一躍して三百三十六万石、四倍弱を記録しており、


 大正十一年ともなると、七月末で既にもう、六百三十八万石に達するという、ほぼ狂瀾の勢を示した。

 

 

(河川による木材流送)

 


 識者は口々にわめいたものだ、


「国内林業が壊滅する」


 と。


 大いに危ぶみ、警告し、対抗策を講じなければと日夜強く訴えた。

 


…実際今日では、津々浦々、到るところ米材を使用し、殊に運搬不便の山間地方までも、その巨躯を横たへ、しかもその地方に鬱蒼と繁ってゐる「すぎ」や「まつ」、また原生林の「もみ」や「つが」を睨みつけてゐる有様を見ては、如何に呑気な林業家でも、林業の将来を考へずにはをられぬ。

 


 上は大日本山林会会長・川瀬善太郎の言である。


 文久二年――江戸時代に生を享け、人となった身にしては、ずいぶん平易な、読み取り易い文を書く。

 

 

Kawase Zentaro, Dean of the Faculty of Agriculture at Tokyo Imperial University

Wikipediaより、川瀬善太郎)

 


…この間も、王子製紙会社の藤原君がカナダの森林伐採及び送材の活動写真を持ち帰られ、その実況につき説明されたが、大きな河へ木材が山のやうに流れて来て動かなくなったのを、ダイナマイトで破壊して流送をなしてゐる。これを見ても、如何にその濫伐が行はれてをるかゞわかる。

 


 藤原銀次郎とも多少繋がっていたようだ。


 植えたはいいが輸入木材の拡大により採算が徐々に取れなくなって、林業自体の衰退により管理も杜撰に赴いて、為すところなく放置され、荒廃に帰す国の山林――。


 この人々の危機予測は、畢竟するにそういう景色に帰着する。


 なにやらどこかで、すごくよく、聞き覚えのある構図でないか。


 戦後間もなく、先見の明なきアホンダラがやらかした造林事業の大失敗、日本の山を杉だらけにした不始末と、気味が悪いほど一致するのだ。

 

 

(杉林)

 


 連中ときたら先を見通す視力に欠けるのみならず、過去を紐解き教訓とする敬虔さすら持ち合わせがなかったらしい。


 そんな愚物の遺したツケを花粉症という形で以って支払わされる我々こそいい迷惑だ。


 今年の痒みはやけに長引く。


 粘膜の反応、今なお過敏で、いつ底止するとも知れぬ状態。


 これは本当に花粉症か? と正体不明の不安が折々胸を刺す。


 薬に使った金額も馬鹿にならなくなってきた。


 目に触れるすべてを呪いたくなる。


 病みとはやはり闇なのか。


 思考が薄暗い淵へ向かって傾斜するのをどうにもできない。


 出口はまだか。植物どもの繁殖期の終焉は。ただひたすらに待ちわびる。

 

 

 

 

 

 

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法度は法度 ―駿府城の開かぬ門―


 将軍職を息子に譲り、駿府に退いた家康は、隠棲するなり居城の門の開閉に口やかましい規則をつけた。


 曰く、夜間の開閉は、如何な理由があろうとも一切罷りならぬなり、と。


 この新法で迷惑したのが村越茂助だ。

 

 

Sunpu Castle Tatsumi Yagura 201015a

Wikipediaより、駿府城巽櫓)

 


 茂助、ある日の都合によって、なにか用事を片付けるべく城外へと出向し――関ヶ原の件といい、不思議とこういう使い走りに縁の深い人物である――、意外に事が長引いて、帰路を急ぐころはもう、星がまたたき月を見上げる時刻であった。


 案の定、門は閉じている。


 型通り、


「通せ」
「通さぬ」


 の押し問答をやってはみたが、むろん何の効もない。


 癇の虫をまぎらわすべく、足踏みなどしていると、たまたまそこへ安藤直次が通りがかった。


「茂助ではないか」


 お互い古参の三河者ゆえ、顔も気性もよく知っている。


 どうしたことだ、夜分遅くに、こんなところで――と、会釈抜きでいきなり訊いた。


(いいやつが来た)


 と、あるいは茂助、思ったか。


 土くさいお国言葉まるだしで事情を説明したという。


「ふむ。……」


 直次はちょっと考えて、しかし結局、茂助の期待に応えてやることにした。


「こいつの身元の確かさは、わしが全面的に保証する」


 上様に不為を働く者では決してない、我が顔に免じ、ここはひとつ、便宜を図ってくれまいか。そんな意味の相談を、門番相手に持ち掛けた。

 

 

Sunpu castle higashigomon koraimon

Wikipediaより、駿府城東御門)

 


「そ、それは」


 番士は流石に、言葉に詰まった。


 安藤直次といえば小牧・長久手に大功ある老将で、家中でも聞こえた・・・・人物である。


 生きた英霊にやや近い。いやしくも武士である以上、この男を前にして精神になにごとかを起さないのは不可能であり、現に起こった。番士の呼吸は早くなり、ねばっこい汗がこめかみ・・・・に垂れ、夜目にもはっきりわかるほど顔から血の気が引いていた。


 が、そこまで追い詰められてなお、


「なにぶんにも、法度は法度でござりますれば」


 最後の一線だけは譲らず、頑張り通してのけた点、この門番も尋常一様の胆気ではない。


 村越茂助・安藤直次という、家康の興隆を初期から援けた老臣二名を、規則規則の一点張りでついに妨げ、妨げきって追っ払ってのけている。


「ちっ」


 と、茂助は闇を鳴らして去った。


 やがて夜が明け、陽が昇り、奥から出てきた家康にこと・・の顛末が達すると、


「ほう、茂助が、な」


 この老人は意外にも、終始機嫌よく報告を受け、聴き終わるやいよいよ相好を蕩けさせ、


「それでこそ頼もしき門番よ」


 あっぱれ見事、さてさてそう・・であってこそ、門を任せた甲斐がある――と、激賞して惜しまなかった。

 

 

江戸城半蔵門

 


 当の門番は、後に人づてにこれを聞き、思わずその場に崩れ落ちるほど感動し、声を涙で滲ませて、せきあげるように「厚恩」を謝した。


 封建人の可憐さというものだろう。


 もう彼は、自分の固める門前に、鬼が来ようが菩薩が来ようが、孔子孟子が弟子を引き連れたとえ列を成そうとも、その来訪が正規の手順を踏んだものでない限り、棒を突き出し、


ねっ」


 と叫ぶに違いない。


 もちろんのこと家康は、そういう効果を期待して一字一句を吐いている。


 政治的妖怪と畏れられる所以であろう。権現様は明らかに、法が峻厳に行われ、各々が各々の職分に命を懸けて忠実なのをお望みだった。

 


 ――たとひ地獄から来れる鬼たりとも我定めたる掟を守る以上は天人の如く之を待遇すべし。

 


 南蛮人の取り扱いをめぐる議論の席上で、発したという一言が、よくそれを証拠づけている。

 

 

久能山家康墓所

 


 彼が天下を取るわけだ。


 その政権が三百年間持つわけだ。


 深く掘れば掘るほどに、納得ばかりが湧いてくる。それが東照大権現、神君徳川家康公という漢。

 

 

 

 

 


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動物愛護先駆譚 ―松井茂という男―


 明治・大正の日本にも、動物愛護の動きはあった。


 特に高名な旗頭として、松井茂・小河滋次郎の両法学士が挙げられる。


 わけても前者は動物を虐待して平然たる者は人間に対しても残虐を敢えてして平然たる者」「動物虐待を見過ごす社会は問題児を大量生産する社会」との所見に基き、新聞に盛んな投書を行い、欧米すなわち先進諸国の実情を伝え、大衆の意識を刺激して、立ち上がらせんと努力した。活発というか、意欲に満ちた人である。

 

 

MATSUI Shigeru

Wikipediaより、松井茂)

 


 こころみに「投書」の中身をひろってみると、

 


〇英国では一八〇九年ロード・エアースキン氏(Lord, Erskine)が上院に於て動物愛護の事を述べた時は寧ろ嘲笑に附せられたが、一八二二年マーチン氏(Martin)が之を唱ふるや、議員の多数に歓迎せられ、マーチン・アクトとして其法令が発布され、一八二四年、世界に率先して動物虐待防止会を組織し、越えて一八四〇年には皇室的の名称を冠することを許された。

 


 一八〇九年といえばナポレオン戦争の真っ最中だ。


 コルシカの人食い鬼を相手に、存亡を賭け、がっぷり四つに取っ組み合ってる状態で、更にこの上、物言わぬ獣へと割いてやるだけのリソースは、いかな大英帝国といえど持ち合わせが無かったか。

 

 

 


 我が身の安全が確保され、心に余裕があってこそ、他の誰かに優しくしてやる気にもなる。


 世間一般の「善人」とはそういうものだし、たぶんそれでいいのだろう。

 


〇ベルフ(Bergh)氏が米国領事館書記官として露国在職中、同国の動物の残忍な取り扱ひを受けて居るのを見て惻隠の情を起し、帰途ロンドンに立寄りて、動物虐待防止事業を視察し、帰来防止事業を初めて米国に企て(時に一八六六年)、続いて児童保護会を組織(一八七五年)して、斯会の鼻祖と仰がれるやうになった事を考へても、動物を虐待する露国民の中から、パルチザンの如き兇暴の徒の輩出したのは決して偶然でなく、又動物愛護と児童保護とは根本義に於て離るべからざる関係にある事が判る。

 


 引き合いに出されたロシア人こそいい面の皮であったろうが、なにぶん尼港事件が起きてからあまり時を措かないうちに草された文ゆえ、いかんせん。


 ニコラエフスクに滞在していた邦人を、軍民問わず皆殺しにされたショックは大きかったということだ。

 

 

Nikolayevsk Incident-3

Wikipediaより、廃墟となったニコラエフスク

 


 もう何点か抽出したい部位がある。

 


〇ドイツでは一八三七年、初めてシュトゥットガルトに、一八四一年にはミュンヘンに於て之が創設せられ今や各州に亘って居る。我邦では東京、横浜、神戸の如き外国人の多く居る場所で而も外国人の注意の下に貧弱なる動物愛護が行はれて居るに過ぎない。


奥州辺では馬の子を我子のやうに可愛がって育て上げ、やがて伯楽に売り渡す日になるや、家族一同村境まで見送り、愛馬が伯楽に曳かれて行く後姿を見ては、泣いて別れを惜むさうだ。所が曳かれ行く馬は、無情な伯楽に怒鳴られ、鞭れるので、初めて人間の怖ろしさを知り、段々と警戒の色を浮べて、それが東京に着く迄には、怒りっぽく後足を挙げて蹴るやうになるといふ。

 


 ああ、これについては聞き覚えがある。


 確か明治十年代であっただろうか、中央から役人が来た。


 南部馬の皮の質の調査のためだ。良好ならば背嚢・鞄・靴等の、軍需品の原料供給源として設定する気でいたらしい。お国の大事というわけである。ところがこの目的がひとたび漏れるや、たちまちのうちに収拾のつかぬ騒ぎになった。


「この人非人、鬼、外道っ」


 耳から蒸気を噴かんばかり――と言うべきか。


 岩手県の農民という農民が、逆上して叫んだのである。

 


皮をとるために育てるのぢゃない。たとひ死んでも皮を剥ぐやうなことは情として出来ない。死んだわが子の皮を剥ぐ奴があるものかと、ひどくどなられて役人連中、面目を失して退却した話が残ってゐる。その位にみんな馬を可愛がる。競売に出るときは家族の者多数つきそひでついて行く。売れる前夜まで馬の横にねる。随所に塩原多助馬わかれの場が実演される。

 


 こういう記述が、昭和三年の『経済風土記に載っている。

 

 

岩手県、久慈の馬市)

 


 ほぼ一揆寸前の眺めであった。


 威圧によって「官」の意向を曲げさせた形であるゆえに、そう取られてもやむなしだろう。


 天高く馬肥ゆる地の誇りと看做してやるべきか。


 こういう「お国柄」と対面するのは、何につけ悪い心地ではない。

 

 

 

 

 


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