穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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勲を立てよ若駒よ ―軍馬補充五十年―


 ドイツ、百十五万五千頭


 ロシア、百二十万一千頭


 イギリス、七十六万八千頭


 フランス、九十万頭。


 イタリア、三十六万六千頭


 アメリカ、二十七万頭。


 以上の数字は各国が、第一次世界大戦に於いて投入したる馬匹の数だ。


 合わせてざっと四百六十六万頭か。多い。途轍もない規模である。更にオスマントルコやら、ベルギーやらブルガリアやら、参戦諸国を総計すれば、数はいよいよ膨れあがって六百万にも達するという。

 

 

 


 二十世紀半ば以降、機械力が台頭するまで、何千年もの永きに亘り、馬は活動武器だった。


 前線に、後方に、兵站に、奇襲に、偵察に、あらゆる任務に、必須欠くべからざる存在であり、よりよき馬を得ることが、すなわち勝利への捷径であり得た。


 だから為政者、就中、名将とか賢君とか聞こえの高い人々は、大抵良馬創出に意を尽くしているものである。


 家康公が飼い葉桶の中にまで細心の注意を払ったことは蓋し有名な噺であろう。「豆は煮て乾かし藁は細かく切り和らかにして飼付くべし」仙台藩では文化五年に去勢術を試みて、一定の成果を収めたそうだ。睾丸たまを抜かぬ軍馬というのは「馬の形をした猛獣」だから、これは当を得た措置だろう。流石は鉄砲騎馬隊を、竜騎兵を運用したとの伝説を、伊達政宗の英姿と共に語り継いだ藩である。

 

 

(小休止中の英国軍)

 


 維新後、明治政府では、陸軍省軍馬局を設置して、当該任務に就かしめた。


 ――その軍馬局を。


 題材とした詩がある。


 創立五十年を記念して編まれたものだ。もっともその時分に於いては軍馬局も様々な変遷を経た挙句、「軍馬補充部」という新たな区分けと名称を獲得していたものの、こまごまとした経緯には煩雑なのでいちいち触れない。


 重要なのは、詩、それ自体だ。


 七五調で貫かれ、なかなか秀逸な出来と信じる。


 埋没させるには惜しいゆえ、この場を借りて紹介したい。


 題は至って直截に、「軍馬補充の歌」である。

 

 

 


一、皇国みくにを護るつはものゝ 軍馬の補充勤むなる
  牧場まきばの勇士我が友も 心は同じ国のため


二、川上・釧路・た十勝 吹雪はげしき冬の日も
  育つる駒のかはゆさに 凍えん身をもかへりみず


三、十和田のうみ東風こち吹けば いななき勇む春の駒
  群れつゝ遊ぶ三本木 嬉し飼育の甲斐見えて


四、秋風渡る白河や 那須の裾野の末かけて
  み空高くも晴るゝ時 駒もひとしほ肥ゆるなり


五、霧島山を朝夕に 仰ぐ日向の高鍋
  羅南らなんの奥の雄基ゆうきにも 軍馬補充のまきはあり


六、さはあれ飼育辛労の 心づくしは誰か知る
  猛獣襲ふ備へにと 榾火ほたび焚く焚く夜を明す


七、あてがふまぐさ麦や大豆まめ 品の選びもただならず
  母の乳呑子抱く思ひ 祈るは駒の育ちのみ


八、秋開かるゝ馬市場 数千の駿馬集まれる
  中に選ばれ若駒の 鬣振ふ雄々しさよ


九、やがて戦のにはに立つ 駒の功績いさをは我が功績
  父の其の子を送るごと 勇みつけてぞいだすなる


十、使命を受けて五十年 唯一日の思ひもて
  軍馬補充にいそしむも 君の御為ぞ国のため

 

 

 


 靖国神社遊就館の手前には、戦没馬慰霊像がらと共に立ち、祖国の行方に静かな眼を向けている。

 

 

 

 

 


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ドゥーチェ! ドゥーチェ! ドゥーチェ! ドゥーチェ! ―ムッソリーニ1939―

 

 ムッソリーニは本気であった。


 周囲がちょっとヒクぐらい、万国博に賭けていた。


 一九三九年、サンフランシスコで開催予定のこの祭典に、ドゥーチェは己が領土たるイタリア半島が誇る美を、あらん限り注入しようと努力した。

 

 

 


 フィレンツェ市所蔵、ボッティチェリ作『ヴィーナスの誕生を皮切りに、

 

 

Raphael Madonna della seggiola

 

 

 ラファエルの『マドンナ・デラ・セディア』、

 

 

Tizian 068

 


 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作『パウルス三世とその孫たち』、

 

 

Accademia - Madonna col Bambino tra san Giovanni Battista e una santa Cat.881

 

 

 ジョヴァンニ・ベッリーニの手になる『聖母子と洗礼者ヨハネ、聖女』、

 

 

David, Andrea del Verrocchio, ca. 1466-69, Bargello Florenz-01

 


 ヴェロッキオの『ダヴィデ像』、他にも他にも――都合四十点からなるイタリア美術の精髄を陳列しようと目論んだのだ。


 まさにアートの根こそぎ動員。およそ独裁者と呼ばれる種族は自国の威信を示すため、なにがしか大掛かりなことをやらかしたがる性質たちを有すが、わけてもこれは――戦争行為を除外して――格別の沙汰、史上屈指であったろう。

 

 

ベニート・ムッソリーニ

 


 文化の結晶、人類の至宝、魂の遺産、――どれほど修辞を連ねてもこの荘厳に迫れている気がしない。たとえ人類が絶滅しても、次の知的生物のため保存の途を講じておくべき代物ばかりだ。そういうものを一万キロも、地中海から北米大陸東海岸まで送り届けねばならぬのだから、当然輸送は慎重を極めた。


 なろうものならサム・ポーター・ブリッジズ伝説の配達人に依頼したいぐらいであろう。任に当たった者たちは、


「いいか、アメリカが保有する金塊全部をザンジバルに輸送すると仮定しろ。それより更に一段上の注意力と危機感とが求められていると知れ。たっぷり肝に銘じておくんだ」


 こんな訓示を雲の上から受けたとか。

 

 

 


 四十点の作品群を格納するのは特注品の大箱三個。まずは船にて、ジェノヴァ港からニューヨークへの航路を進む。陸揚げされるや間を置かずして特別列車に積み込まれ、今度は線路、鉄道上の旅となる。


 列車内では常に四人の精鋭が、装填済みのライフル構えて箱の警備にあたる仕組みになっていた。


 この備えならとち狂った環境活動家エコテロリストがトマト缶持って乱入しても、不埒を働かれる前に、そいつ自身を潰れたトマトにしてやることが出来たであろう。なんと素晴らしい。安心、安全の備えであった。

 

 

 


 サンフランシスコではブレア美術館の学芸員が箱の到着を待っていた。そりゃもう首を長くして、今か今かと待ちわびていた。荷解き・陳列は彼らが行う。その任を全うするために、ミラノの街から遥々と、先んじて現地入りしていたのである。


 一切の作業が滞りなく、予定通りの進行をみた。


 ムッソリーニは鼻高々であったろう。


 実際問題、手際のいいことだった。


 己の指揮で、己が企画を実現すべく、人々をこうも機能的に動かし得たのだ。嬉しからぬ筈がない。そういうことで支配欲を満たすのも、独裁者の習性であり、条件である。

 

 

(演説中のムッソリーニ

 


 やがて成就した美の殿堂に、日本人では田中耕太郎が足を踏み入れ、いたく感銘を受けている。

 

 

…陳列中は昼夜を分たず番人を附してある。陳列されてゐる美術館は防火建築であり、博覧会終了後之れを改造して飛行機の格納庫にすることになってゐる。(昭和十五年『ラテン・アメリカ紀行』)

 

 

 そういうことも、この有能な法哲学者の興味を惹いたようだった。

 

 

 

 

 


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続・外から視た日本人 ―『モンタヌス日本誌』私的撰集―


 ジャン・クラッセ日本に関する大著を編んだ。


 しかしながら彼自身は、生涯日本の土を踏んだことはなかったらしい。


 かつて布教に訪れたスペイン・ポルトガル両国の宣教師たち、彼らの残した膨大な年報・日誌・紀行文等を材料に、『日本西教史』を完成させた。


 似たような成立過程をたどった書物に『モンタヌス日本誌』が存在してる。

 

 

Montanus - Gedenkwaerdige Gesantschappen - title page

Wikipediaより、モンタヌス日本誌)

 


 一六六九年、刊行されたこの本も、やはり編者自身は訪日経験を有さない。


 両書の記述は往々にして酷似する。たとえば日本民族名誉に関する条項だ。

 


 日本人一般の気質として、名誉を重んじ、他より卑しめさげすめらるゝは、最も嫌忌・憤慨する処で、こは外国人の比すべき処ではない。畢竟するに、これ名誉・面目に束縛さるゝので、事々物々、すべてこれが為に動作し、その極、名誉の奴隷となる様である。

 


『日本西教史』がこう書けば、『モンタヌス日本誌』も

 


 彼等はその面目の点、または正直の点に関しては、苟も疑はるゝことには堪へ得ず。また自家の恥辱となり、非難さるゝことに至りては、一刻も忍ぶ能はず。万一、誤って嫌疑を被らば、既に罪人の如く感ず。故に卑賎の者でも、互に相逢へば、双方敬意を表して、悪感に触るゝなきに努め、不在に乗じて、他人を罵り、または侮辱的に他者の非を語ることなし。

 


 このように説く。


 外国人らの網膜に何がことさら印象的であったのか、自ずと察せるというものだ。どいつもこいつも、「侮辱する」という行為に対して平気で命を懸けてくる、死の報いを与えることさえ厭わない。いったい何処のマフィアパッショーネだと突っ込みたくなるようなのが、近世期の日本人の気質であった。


 なにせ日稼労働者を雇入れんとする時すらも、相当の敬意を表せざれば、彼等は、その申込を拒絶する事ありと『モンタヌス日本誌』は述べている。

 

 

頼山陽旧家)

 


 せっかくなのでもう二・三点、本書に於いて特に趣深い部分を抜き書かせてもらうとしよう。


 まずは宗教関連だ。

 


 日本のカミは、既に多いが、更らにその数が増加する。即ち或る王が、国家のために偉業を為し、または英雄的動作で、国民の尊敬と追慕とを得れば、その死後は、これがカミに祭り込まれ礼拝されるからである。これはギリシャ・ローマ人がその英雄に対して為したと、全く同一である。

 


 東照大権現豊国大明神なるほどなるほど。


 八百万やおよろずの懐深さをよく把握しているではないか。


 神道には一定の理解を示すアルノルドゥス・モンタヌスだが、これが仏教の話になるとたちまち様子が一変し、

 


 日本人の宗教は、誠に忌むべき迷信的偶像教で、それによりて、日本人を諸種の悪徳に堕落せしめたのみならず、残虐・惨酷・流血を喜ばしむるに至った。そしてこれを斯くまで勧説したものは僧侶である。彼等僧侶間には、幾多の宗派を異にすれど、霊魂不滅に至っては相一致せり。或はこれを寺院で公衆に説教し、或は貴族・王族の礼拝堂で、稍々高尚に神的教義を吹き込む。但し彼等は、上流社会に対しては、来世罪人の苦罰を語らずに、ただ普通民衆に対してのみ、常に地獄の苦痛、永久の処罰を説教する。

 

 

 諸悪の根源視も辞さず、およそ語彙の限りを盡して腐敗堕落の非を鳴らし、許されるなら手ずから槌を振り上げて、日本に蔓延る坊主頭を一つ残らず叩き潰してやりたいと言わんばかりの気勢を示す。


 素材が多く宣教師に由来するのを勘案すれば、この態度も不思議ではない。


 商売敵だ、そう易々と褒める気にはなれまいさ。


 異教徒を悪魔と同一視して憚らぬ、キリスト教お家芸もあったろう。らしい・・・為様しざまともいえる。

 

 

(小室山妙法寺にて撮影)

 


 日本には外面菩薩、内面夜叉の人物が多い。その容貌、誠に恭敬、真実の態なれど、胸中には更に万斛の禍心を蓄ふるのである。即ち無慙、非道の復讐を企てつゝも、尚その対者あいてには、微笑し、交歓し、能く慈愛・敬礼を捧げて、何等の悪心を包蔵せざるが如し、しかも手を翻へして人の頸を扼し、胸を刺す。これ日本人の一茶飯事である。心胸を語り、肝胆相照らすが如く見ゆるも、肚裏に剣を含む。

 


 本音と建前、本当によくわかっているじゃあないか。


 この使い分けこそ日本人の伝統的な美徳であろう。貌を一つしか持たぬ不自由さこそ憐れむべけれ。宛然英国紳士の如く、必要に応じていくらでも「本当の自分」を増やし使い分けられてこそ、大丈夫として世に立てた。油断大敵の四文字が、生き生きとしていた時代であった。

 

 

 

 

 


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外から視た日本人 ―『日本西教史』私的撰集―


 極東に浮かぶ島国という、地理的事情が無性に浪漫を掻き立てるのか。ヨーロッパの天地に於いて日本国とは永いこと、半ば異界めくような興味と好奇の対象だった。


 需要に応える格好で、近代以前、西洋人によって編まれた日本の事情を伝える書物は数多い。


『日本西教史』もそのうちの一部であったろう。


 一六八九年、仏人ジャン・クラッセの編纂に成る。出版から二世紀隔てた一八七二年、元号にして明治五年。当時の駐仏公使たる鮫島尚信が本書の存在を認識し、内容に魅力を覚えたことが邦訳へと繋がった。

 

 

Sameshima Naonobu

Wikipediaより、鮫島尚信

 


 出逢いについてはパリの街を散歩中、たまたま寄った古本屋の一角でうず高く積み上げられてた塔の中から「発掘」したとか、顔見知りのフランス人から「こういうものを知ってるかね」と紹介してもらっただとか、奇譚的な面白味を宿すものから無味乾燥な報告文まで色々あるが、どれが真実かは絞り切れない。


 確かなことは鮫島の働きかけにより、本書は太政官翻訳係の取り組むべき課題となって、明治十一年めでたく完成。上記の題を貼り付けられて出版されたことである。


 いざ目を通すと、なるほど鮫島尚信が、草創期の明治人らが魅力を覚えた所以というのがよくわかる。

 


 日本人の物に堪ふる事は実に感ずるに余あり。飢寒しても屈せぬ。勤務に倦まぬ。その他、都て困難に堪ふる美質を具備する。商事によりて、事を処するに、曾て粗暴、暴慢の挙動なく親切、懇情である。職工・農夫の如きすら、平常の交際に於ても温雅和平の態度で、欧州に於けるそれ等とは、全く反対してゐる。故に知らざる者は、彼等日本人は、皆宮中に於てでも教養されたかと思ふのである。

 


 おいおい褒め殺しのつもりかよ、と。


 警戒しつつもつい頬が熱を帯びてくるだろう。

 

 

早川雪洲、自室にて)

 


 日本人の、特に習練する所のものは武術である。男子十二歳、始めて剣を佩き、夜間睡眠の外、敢て腰間を脱せぬのである。その就褥中は、これを枕頭に安置し、睡眠中も武を忘れざるを期するのである。彼等の武器は剣・短剣・小銃・弓箭等である。その剣の精錬さは、欧州製の刀を両断すとも、毫も刀刃に疵痕を留めぬと云ふ。

 


 想い出す、高橋是清と祖母の噺を。あのダルマさんが米国に渡る数日前、すなわち十四歳のころ。祖母は彼を部屋に呼び、短刀を渡し、

 


「これは祖母が心からの餞別です。これは決して人をそこねるためのものではありません。男は名を惜しむことが第一だ。義のためや、恥を掻いたら、死なねばならぬことがあるかも知れぬ、その万一のために授けるのです」

 


 こう諭した後、念入りにも切腹の作法まで教えたという。


 確か陸軍の幼年学校だか士官学校だか、あるいはその両方だったか、とまれそういう機関でも、ある時期まで腹の切り方――もちろん物理的な意味合いで――を教授していたそうである。


 フランシス・マカラーが見たような戦慄すべき人間性ができあがるのも、この風土なら納得だ。

 

 

陸軍士官学校

 

 主君が将軍の命か、若くは自己の為、居城・堡塁を築く際に当りて、家臣は自ら乞ひて、その建築材の下敷となる事がある。蓋し日本人は以為らく、人体を建築の下敷とするならば、その城塞は破壊せず、また諸種の災害を免るべしと信じてゐる。さてこの請の許さるゝや、その人は、自ら建築の基礎なる大石の下に、その身体を敷かれて死す。

 


 なんだこれは、聖帝十字陵か何かか?


 人柱やら追腹やらの風習がごっちゃになった所産だろうが。笑殺するに値する。

 

 

 

 

 


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富士と山梨


 霊峰富士は、ある日とつぜん出現あらわれた。


 まるで太閤が若いころ、墨俣で演じた奇術の如く。それはほんの一夜のうちに忽然と聳え立っていたのだと、そういう俗伝山梨県の各所にはある。


 特に郡内、都留のあたりにこそ多い。


 地名の由来と、往々にして結合している。


 あくまで俗伝は俗伝であり、真実性の保証など、望むべくもないのだが。古人の想像力を窺う上で、なにかしらの取っ掛かりにはなるだろう。

 

 

 


 大目村の人々は、東の空が白みはじめた未明ごろ、百万の銅鑼を一斉に叩きでもしたかのような大音響の襲撃を受け、瞬時に夢を破られて、なんだなんだと泡を食いつつどっと戸外へ走り出た。


 するとこれはどうだろう、昨日までは何一つとして遮るもののなかった空に、見たこともない大雄峰が鎮まっている。


(あっ)


 村人たちのたまげっぷりはまったく声を失うほどで、両のまぶたを限界以上に押し広げ、いまにも眼球が零れ落ちそうな形相になるより仕方なかった。


 みんながみんな、きくおっぴろげたゆえ、以来この村は「大目」の名をとったのである。

 

 

 


 大嵐村の人々も、やはり異音を聞いている。


 ただしこちらは一度で終わらず、ずいぶん長く続いたようだ。ほぼ夜通しといっていい。板張りの壁をびりびり鳴動せしめるそれ・・を、住民たちは嵐の襲来だと思い、一睡もできぬ夜を過ごした。


 音はやがて、太陽が昇ると共に去る。


 おそるおそる戸を開けて、富士の姿を目の当たりにした人々は、


「こりゃどうだ、天と地が繋がっちまっとるぞ、おい」


 そんなふうに叫んだという。


 賑岡村にぎおかむらのケースでは、更にちょっと毛色が違う。彼らがその夜、聞いたのは、銅鑼でもなければ嵐でもない。


 まるで祭囃子のような、ありとあらゆる管弦楽器の組み合わさった実に華美なる旋律だった。

 

 

 


 一説に曰く、富士山はダイダラボッチの創作という。


 あの巨人が近江の土を掬い取り、ぺたぺた盛って押し固め、斜面を磨き溝を彫り、八面玲瓏を生み出した。抉られた近江の大地には順次水が流れ込み、琵琶湖の壮大へとった。割と有名な伝説である。


 とすると賑岡に響いたという旋律は、巨人を景気づけるため、眷属どもが掻き鳴らしていた行進曲かなにかだろうか。


 音楽の力は素晴らしい。


 人も、神も、あやかしも、いやしくも精神を有するモノはこぞってそれ・・に影響される。共通言語と謳われるのも納得だ。

 

 

Origin of Iwato Kagura Dance Amaterasu by Toyokuni III (Kunisada) 1856

Wikipediaより、「岩戸神楽の起顕」)

 


 ――以上、永田秀次郎が紀行文中、

 


…自動車が段々と、登り行くに従って、富士の御山が、いただきから裾の末まで、残るくまなく展開される。丸で崇高な女神の、裸体を見るやうで、あまりに勿体ないやうな、あまりに気の毒なやうな、正視するに忍びないやうな感じがする、富士の御山は、とても普通の山ではない。それには魂が潜んで居る。

 


 あまりに褒めそやすものだから、つい故郷くにの話をやりたくなった。


 いわば先日の補遺である。大いに満足させてもらった。お付き合いに感謝する。

 

 

 

 

 


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山中暦日あり ―富士五湖今昔物語―


 山中湖には鯉がいる。


 そりゃもうわんさか棲んでいる。


 自慢なのは数ばかりでない。


 体格もいい。二貫三貫はザラである。どいつもこいつもでっぷり肥えて、下手をすると五貫に達するやつもいる。


「そりゃちょっと話に色を着けすぎだろう」


 永田秀次郎が茶々を入れると、


「いいえ、誓って本当なのです。漁師に訊ねてごらんなさい。肉の厚さに槍が負け、撓んじまったなんて話をたんと聞かせてもらえます」


 土地の長者はむきになり、眼を血走らせて言い張った。


 永田が東京市長を退いて間もない時分、昭和八・九年ごろの情景である。

 

 

永田秀次郎

 


「槍?」
「左様。ここらで鯉を獲るのなら、釣り竿なんてとても使ってられません。なにしろデカブツばかりですから。槍投げ一発、影も見せずに仕留めちまうのが主流ってな寸法で」
「ふうむ。いったい何を食ったなら、そんな大物が育つのかね」
「沢エビでさあ」


 機密保持とか、そういうコセコセした配慮は長者の頭脳あたまにないらしい。実に気前よく話してくれた。


 三歳の童子に至るまで、土地の者ならみんながみんな知っている。


 湖の浅瀬、特に平野浜の一帯には薄紅い藻が生えている。水中森林さながらに、隈なくぎっしり生えている。

 

 

山中湖 - 遠景1

Wikipediaより、山中湖港)

 


 この藻の合間が、どうも沢エビたちにとり、理想的な生育環境であるらしい。一大住居と化している。人間世界に擬すならば、さしずめ団地かマンションか。空き部屋もなく入居している。で、この細やかな甲殻類を餌食にすべく、またぞろ多くの魚族らが出入しゅつにゅうするというわけだ。


 そうした魚族の筆頭が、すなわち鯉であったろう。土地の漁師は槍を携え船に乗り、狩りに熱中している彼らを更に背後から狩猟する。食物連鎖の、まるで縮図のようだった。


 永田はここで、この槍投げの名人とも会っている。もう見るからに屈強な三十代の男であって、本業たる養蚕が手すきな時期にやおら槍をとるという。


(世が世なら、信玄麾下の猛将として大禄を食んでいただろう)


 隆々たる筋骨、強調された肩幅が、ついそのような幻視をみせた。

 

 

平野人
二眠にみんひま
鯉突けり

 


 同時に詠んだ詩である。


 その日、泊まったホテルにて、永田は夕餉に鯉の甘煮を喰っている。

 

 

Koikoku at Saku city

Wikipediaより、鯉こく)

 


 ――すべて、すべて、過ぎ去りし世の面影だ。


 今日ではむろん、鯉を求めて鵜の目鷹の目光らせて、槍の穂先を上下している地元民なぞ存在しない。


 それどころか鯉どもは、人が湖畔に立つだけでエサを撒いてくれると思い勝手にわらわら寄ってくる。


 人と自然の和合が進んだ結果と受け止め喜ぶべきか、それとも鯉から往年の野気が消え失せて、だらしのない家畜と化したと嘆けばいいのか。


 どちらにせよ、人間本位、自己本位な観点なのは変わらない。

 

 

(昭和初頭の富士吉田)

 


 事が事、故郷にまつわる事案なだけに、ついこのような愚にもつかない想像まで生やしてしまう。蛇足の極みだ。永田が甘煮を喰ったところで後味よく切り上げればよかったものを。


 蛇足ついでに、こんな話柄にも手を伸ばす。永田秀次郎の紀行文、そのページをもう少しばかりめくってみると、「政友村」なる奇妙な名詞が現出あらわれる。


 なんでも代議士先生方の別荘、それも政友会系の代議士ばかりが所有者である別荘地のいいらしい。西湖周辺に存在すると記してあるが、正直心当たりがまるでない。まさか根場村ではあるまいし、全く以って謎である。

 

 

(西湖いやしの里根場)

 


 畢竟、時代のうねりに呑み込まれ、跡形もなく消滅した「村」なのだろう。


 永田はここを自動車で、横目に見ながら通過した。


 その際、運転手との間で、


「分裂したらどうするかい」
「なに、政友会は分裂しても、別荘地は分裂しませぬ」


 このような会話が交わされている。


 政友会が現に分裂に至るのは、昭和十四年以降のことだ。


 しかしながらその兆候は、この段階でもう既に、見え隠れしていたのであろう。昭和の空気を仄かに嗅げるやりとりだった。

 

 

 

 

 


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日本民家園探訪記


 驚いた。


 川崎に、押しも押されぬ首都圏に、人口百四十五万の都市に、

 

 

 


 まさかこんな和やかな、藁ぶき屋根の家並みがあるとは。


 意外千万そのものである。

 

 

 


 ここは日本民家園、生田緑地の一角を占める「古民家の野外博物館」。北は奥州・岩手から南は鹿児島・沖永良部島に至るまで、日本各所の旧き家屋を蒐集・展示している施設。

 

 

 


 ほとんどの家屋が立ち入り可能で、

 

 

 

 

 

 その構造の逐一を内よりとっくり見確かめられる。

 

 

 


 筵の敷かれた囲炉裏端。飢饉のときにはこいつを刻んで煮て喰うわけだ。汗やら何やら、色んなモノが、多年に亘って滲み込みまくっているゆえに、味付けには困らない。

 

 

 


 この農具は、『天穂のサクナヒメ』で見覚えがある。


 籾摺りの効率を大幅に向上アップしてくれるのだ。

 

 

 


 玄米がたちまち白米に!

 

 

 


 南部地方に特徴的なL字型民家。

 

 

 


 厩にはちゃんと馬の模型が。

 

 

 


 ついでにこれが戦前昭和、南部地方に於ける馬市。


 すごい賑々しさである。


 毎年九月に開催される二歳駒の競り市こそ見ものであって、奥州中からざっと二万頭が集ったそうだ。

 

 

 


「名馬のふるさと」を自称するのも、蓋し適当。

 

 

 


 園内の広さは相当なもの。高低差もある。隈なく巡れば、けっこうな運動になるだろう。

 

 

 


 もちろん私はしっかり歩き、丹念に観た。入場料五百円を納めた以上、味わい尽くさない限り損した気になるからだ。

 

 

 


 水車小屋まで展示されてる。


 左上に見える樋から水を引き込んでいるのであろう。

 

 

 


 これは至近距離から撮ったもの。

 

 

 


 小屋の中では歯車が一定のリズムで駆動していた。

 

 その響き、厳かにしてなかなか耳に心地よい。

 

 

 


 民家ばかりではない。

 

 

 


「古い部落に通ふ沿道とか、入口とかには、大抵、裸地蔵や庚申塚が立ち並んでゐる。
 自然に依存してゐる百姓達には、農業そのものが一つの投機のやうなものである。春に種を撒いてから秋の収穫まで、一切自然の手に任せ、それに随はなければならない彼等にとって、豊作も凶作もすべて天意である。
 そこで彼等の先人は、その願望を容れ、不安を満たしてくれる神々を創造し崇めたのであらう」――相場信太郎が斯く説いた、「半ば埋れた神々」もまた、そこかしこに見出せた。

 

 

 


 ことのほか天候に恵まれたゆえ、枡形山にも寄ってみる。

 

 

 


 標高84m、なんなら甲府盆地の底山梨の県庁所在地より低い。熊も猪もでっこない。さりとて山の妙味がないわけでなく、

 

 

 

 

 

 地層の露出や繁茂するキノコにいたく心癒された。

 

 

 


 山頂には展望台が。


 エレベーターの備えもあるが、ここは敢えて階段で。「自分の脚」にこだわってみる。

 

 

 

 


 この眺めはどうだろう。


 本当に大気が澄んでいる。


 雲一つない、突き抜けるような蒼空だ。

 

 

 


 富士の影すら薄っすら見える。


 繰り言になるが、川崎にこんな場所があるとは。まさに都会の通風筒に這入り込んだ気分であった。

 

 

 

 

 

 

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