穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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たまの寄り道 ―椿一郎詩作撰集―

 

 そのころの竹柏会椿一郎なる人がいた。


 千葉県北部――茨城県と境を接する香取郡は米沢村の農家であって、最初の歌集『農人の歌』を出版したとき、すなわち昭和九年の段に於いては、親子五人と馬一頭、それから鶏二十四羽というのがおおよその家族構成であったという。

 

 

Katori-jingu honden

 (Wikipediaより、香取神宮

 


 暮らしは、当たり前に貧しかった。


 当時の農家の通弊というばかりではなく、祖父の代にてくだらぬ人間関係のしがらみから背負い込んだ借金が、一郎が成人してもなお相当以上に残されており、債鬼どもから返せ返せと追われまくった所為でもあった。


 必死に働き、皆済を実現したのは三十路を幾里か過ぎてから。華の二十代は兵役と、ただひたすらな筋肉労働で埋め尽くされた。汗みずくの埃まみれで鍬など動かす彼の頭上を、青春はただ徒に通り越していったのだ。


 世を呪い、生を憎み、人を怨んだとしても、誰も不審に思うまい。

 

 

肥料こえにすと苗代小田なはしろをだに投げ入れし
冬菜うれ立ち花咲きにけり

頬白の啼く山に来て雪折れの
松の木あさり薪造れり


ほろほろと山鳩の啼く静けさや
曇れるままに雨となるらし

 

 

Emberiza cioides male

Wikipediaより、ホオジロ) 

 


 ところが彼の織り成す詩作には、そうした負の情念がまるで反映されていない。生まれつきそういう感情に乏しいのか、よほど隠すのが巧いのか。

 

 

荷馬にうま引き往復二里の神崎に
行く楽しさよ本を読みつつ

立ち止まり馬が糞するそのひまに
浮かびし歌を口ずさみつつ

夜おそくかへれば妻はただ一人
月の下びに稲きてをり

 


 彼の織り成す三十一文字みそひともじをなぞっていると、後者の如き発想に至る自分の姿が「下衆の勘繰り」そのものに見え、無性に恐縮したくなる。

 

 

Kozaki-bridge,Kozaki-town,Chiba-pref.,Japan

 (Wikipediaより、神崎大橋)

 


 私は生田春月の、

 


 厭世家にも慰めはある。厭世それ自体が一つの快楽である場合も多い。静かな丘の上にひとり坐して、十分に人間を憎み得る時は、厭世家にとっていかに喜ばしい時であらう。人生の中から悲惨な事実をあとからあとからかき集めて来て、かりにも人生を楽しいものだなどと云ふ者があれば、これでもかこれでもかと突き附けてやる時はどんなにか胸がすくであらう。

 


 との言葉に感銘を受け、感銘どころか天啓と信じ、人生の指針の一つとさえ仰ぐ者だが、それでもたまには宗旨を逸れて純朴な生の歓喜とやらに身を委ねてみたくなる。


 今がまさにその最中。椿一郎は実によく、私を浄化してくれた。

 

 

小春日や障子あくれば切干の
甘き香ほのに流れくるかも

黒穂焚く煙夕べの麦畑に
淡く漂ひ月いでにけり

露冴えてほのに明るき暁の
納屋にころころ籾摺りにけり
 
 

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  芸術の域まで高められた農村風景の切り抜きは郷愁の念を激しくそそり、瞼の裏に故郷の像を結ばせる。天を縁取る山並みを。春月に「花の湖水」と形容された、甲府盆地の有り様を。

 あの空には今も変わらず、野焼きの煙が立ち昇っているのだろうか。

 関東平野のコンクリートを踏みながら、そんなことを考えた。
 
 
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夢路紀行抄 ―覗きの報い―


 夢を見た。


 機械と猫の夢である。


 時刻は夜。私はどこか、海に近いホテルの一室に投宿していた。


 部屋立ては、なんてことない。


 テレビにベッド、こじんまりした丸テーブルと、簡素ながらも必要十分な道具は揃ったありきたりのビジネスホテル風である。

 

 

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 が、ただ一点。まるでスチームサウナの如く、ひっきりなしに噴射され続ける蒸気こそがこの部屋を、「ありきたり」からどうしようもなく遠ざけていた。


 よしんば加湿器のつもりにしても、過剰としかいいようがない。


 たちまちシャツがびしょ濡れになった。たまりかねて窓を開ければ破れた網戸とご対面、その向こうにぽっかり広がる闇の中、レンズをもぎ取られた監視カメラがどこからともなくぶら下がって浮いており、欠損箇所から色とりどりのケーブルが、力なくだらりと垂れていた。


 なんとなく淫靡なその有り様に、


 ――腸のようだ。


 との感慨が湧く。


 時折蒼白くスパークするのがまた開腹された蛙の痙攣のようでもあって、生々しさの演出に一役買っていただろう。


 つい、誘われるように剥き身の導線に触れてみる。


 すると、はてさて、こはいかに。別の部屋の光景がありありと見えるではないか。

 

 

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 見えるというより、脳内に直接、映像を流し込まれている感覚だ。どうやらこのホテルときたら、不届きにも個室という個室すべてにカメラを設置しているらしい。むろん、客に断りもなく、見つからぬよう隠して、だ。その信号を、たまたま傍受してしまったようである。


 ――はて、義体化手術を受けた覚えはないのだが。


 不審に思わないでもなかったが、それより出歯亀根性が優先された。


 テレビをザッピングするように、映像を次々切り替える。微笑ましい家族連れがいたかと思えば、ベッドに日本刀を投げ出してネクタイを緩める初老男性の姿もあって、このホテルの客層というのがどうもいまいち掴み難い。


(いろんな奴が居るもんだ)


 覗きを満喫していた刹那――一切の前触れなく視界が砕けた。


 まるで薄氷さながらに。それまでの眺めは破片となって乱舞して、露わになった虚空から、正体不明の何者かが一歩一歩接近ちかづいてくる。

 

 

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 ちょうどデスノートに於ける、初登場時のワタリのような。男か女か、老いか若きか一向にして読み取れぬ、厚着の装束に身を包んだ「誰か」であった。


(まずい)


 すわこそ傍受がバレたかと、こいつは俺の脳を焼き切りに来たハッカーと恐怖して、急いで身を翻す。


 と、次の瞬間。気付けば私は車のハンドルを握り締め、アクセルベタ踏みで黄色い外車を追いかけている最中であった。


 動機は明瞭、あの車のボンネットの内側に、飼い猫が侵入はいり込んでしまっているのだ。我が家の大事な愛猫が。一秒でも早く救出してやらねばならない。どうやってそれを知ったのか、答える術はないのだが、とにかくそうに違いないのだ。


 焦慮に臓腑が灼けつくようで――そのあたりで目が覚めた。

 

 

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 洗脳され、偽の記憶を植え付けられて、誰かの操り人形になる――攻殻機動隊を筆頭に、近未来sf作品で多用される手法だが、実際に喰らうとあんな味わいなのであろうか。


 それにしてもああまで無抵抗に敵の術中に堕ちるとは、我ながらどうしたことだろう。


 個人的には、もうちょっと堅固な精神性と信じ込んでいたのだが。


 悪酒をしこたま呑まされでもしたかのように、黒々としたわだかまりが胸の底にへばりつき、暫くの間離れなかった。

 

 

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仏教徒による大暴動 ―1938年ビルマの夏―

 

 ビルマで暮して四十年、山田秀蔵はいみじくも言った。


 ビルマを理解したいなら、まず宗教を理解せよ。


 ラングーンの天を衝いて聳え立つ、黄金の仏塔――シュエダゴン・パゴダが象徴するそのままに。


 ビルマ仏教国である。


 人々の日常生活は仏教文化と非常に根深く繋がっていて、切り離すことは誰にも出来ない。

 

 

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(シュエダゴン・パゴダ)

 


 たとえば入道式である。


 ビルマの男子は七つか八つの峠に至ると、例外なく僧籍に入るを常とした。この際の典礼がすなわち入道式であり、ビルマ人がその生涯で是非とも通過せねばならない三つの関門――三大式の最初の一に位置付けられた儀式であった。

 


 しかし坊さんになるといってもタイのやうにそのまゝ寺に入って何ヶ月もしくは何ヶ年、坊主の修行をするのではない。入道式が済めば我家に帰って家族と起居を共にする。僧侶になるのは一種の形式に過ぎないが、それにしても人生行路の一時期を画する大切な儀式であって、服装や知人の招待やをできるだけ派手にして、惜気なく多額の費用をかけるのである。(『ビルマ読本』97~98頁)

 


 なお、補足しておくと三大式の残る二つは、結婚式と葬式だ。


 国号をミャンマーと改めた現在でさえ、男子はその生涯で二度の出家をするべしと強く推奨されている。紅顔初々しい少年僧の托鉢姿も珍しくなく、その光景を一瞥すれば、仏教国としての面目が些かたりとも薄れていないと、自ずと理解されるであろう。


 実際、2014年の国勢調査を参照すれば、国民の87.9%が自己を仏教徒と規定しており、その勢力は圧倒的としかいいようがない。

 

 

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(入道式の様子)

 


 閑話休題


 視点を山田秀蔵の活躍時代――二十世紀前半にまで差し戻したい。


 このころ、ビルマイギリスの植民地に他ならなかった。


 西隣、国境を接するインドもまた同様の境遇に置かれている。


 置かれている、どころではない。ビルマを領有したイギリス人は長いこと、この地をインドの一州と看做し、それに相応しく扱い続けた。


 当然、民族の混交が起こらねばならない。


 高きから低きへ、密なる側からすくなき側へ。「両国人の交流を妨げる何の障壁も設けてなかったから」、物理的必然の命ずるがまま、「インド人はドシドシビルマに流れ込んできた」(42頁)。


 しかし困ったことにはこのインド人というのは大半が、ヒンドゥー教イスラム教の敬虔な信徒なのである。

 

 

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 異教徒が群れをなしてやって来るのだ。


 その数たるや、ビルマに於ける総人口の7%にも達したという。


 雪崩れ込んだといっていい。


 軋轢を生ぜねば奇蹟であろう。


 現に生じた。 


 個々人もしくは家族単位の小競り合いならそれこそ日常茶飯事として、態々数えるのも億劫なほど頻発していたものであったが、1938年7月に於ける騒擾は、ついに社会そのものが、轟音と共に一大爆裂を来したが如き観がある。


 起爆剤となったのは、イスラム教徒の筆による一冊のパンフレットこそだった。

 


 ビルマ人の仏教に対する絶対の信仰と、僧侶に対する無条件の尊敬とは、いやしくも仏教に対する誹謗を許さない。うっかり誹謗でもしやうものなら、それこそ飛んでもない大事件が持上がることになる。(中略)回教徒の一小学教師が、回教と仏教の比較研究といったやうなパンフレットを刊行した。それには手ひどく仏陀及び仏教を侮蔑し冒涜する文字が綴られてゐた。(174~175頁)

 


 このあたりの下りから、先年世間を騒がせた風刺画事件を連想するのは私だけではないだろう。マクロンをして「フランスには冒涜する権利がある」と言わしめた、アレのことを述べている。


 挑発する側、される側を入れ替えて。


 よくまあ一ツ調子の演目が、飽きもせず繰り返されるものである。

 


 僧侶の憤激は一通りでなく、約三千人がラングーンのシュエダゴン・パゴダの堂塔に集結して、種々の会議を行った結果、スルテイ市場に向って一大示威運動を起した。この市場にはハシム・カシム・パーテルといふ回教徒の有力商社があり、パーテル商会主は問題のパンフレット出版に金を出したといふ理由から、僧侶及び市民から成る大群集は、パーテル商会を指して猛然と殺到したのである。(175頁)

 

 

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(とある仏塔パゴダの内部風景)

 


 僧侶たちに端から闘争の意図があったにせよ、なかったにせよ。人間集団が――それも信仰心という、極めて微妙な、ともすればニトログリセリンより慎重な扱いを要求される部分によって固く結ばれた集団が――こうまで勢いづいてしまった以上、なまなか・・・・なことで止まったりするわけがない。


 いくところまでいく。


 津波に似ていた。溜め込んだエネルギーを総て吐き出しきるまでは、ぶち当たり、薙ぎ倒しして進み続けるより津波自身術がないのだ。

 


 急を聞いて駈けつけた警官隊は、これを食止めやうとして群衆との間に大衝突が起り、遂には軍隊まで出動して凄惨な戦場そのまゝの光景を現出した。騒擾はラングーンで二週間、マンダレーで一週間続いて漸く鎮静に帰したが、この間相互の死傷者約三千人、物的被害一千万ルピーに上った。
 影響は更にインド人のヒンドゥー教徒にも飛び、彼等もまた相当の死傷者を出した。地方における回教徒の商店は片端からビルマ人に襲撃され、一部はマンダレーに集合し、大部分はラングーンの安全地帯に避けて漸く難を免れた。(175~176頁)

 


 仏教とて、寂滅為楽を望むばかりが能でない。


 かつて本邦にも一向宗などというものが出現あらわれて、乱世に掉さし一大勢力を築いたように。転用の方法如何によって、いくらでも戦闘的性格を帯びさせることが出来るのだ。

 

 

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マンダレーの大通り)

 


 この一件でビルマを離れたインド人は数千人。


 身の危険を感じつつ、しかし旅費なく途方に暮れる者とて多く、放っておくとまたぞろ血の惨禍を現出せしめかねないゆえに、政府は特に彼らのため、無料の船便を誂えてやったほどである。


 そうまでして、やっと事態を収拾したのだ。


 まこと、歴史はで綴られる。


 こればかりは東西南北わけ隔てなく、万古不易の哲理であろう。

 

 

 

 

 

 
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古き文士の女性観 ―この窮屈な現世こそ―

 

 生方敏郎


 竹久夢二


 徳冨蘆花


 小酒井不木――。


 文芸史上に光彩陸離たるこの人々も、しかし時折女性に対してひどく辛辣なことを言う。


 お前ら女関係で、何かコッピドイ目に遭ったのかと勘繰らずには居られぬほどに。


 生田春月はそれが、それのみが男の偉くなる道なりと明朗に歌い上げたものであったが――今回はまあ、さて措いて。


 フェミだのポリコレだの何だのと、わけのわからない連中の専横により、悪口どころか性別に関するありとあらゆる表現が窮屈になってきている現今。些か以上に病的な、こういう時勢だからこそ、古人の激語を過去の暗がりから引っ張り出して陳列するのも、きっと大きな意味を持つ。

 

 

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 極端に対して別の極端を叩きつけることにより、うまいこと中庸にもって行く――所謂「爆発で火事を消す」とか「バケモンにはバケモンをぶつけんだよ」式の手法を実験してみたいのだ。

 

 前置きが長くなった。そろそろ本題に入るとしよう。


 では、しばしお付き合い願いたい。

 

 


・平生は散々に迷惑を懸けても平気でゐる癖に、責任を負はなくてもいい、こんな場合に限って自責の念に苦しんでゐる。これが女だ。


・男は恋をする時、唯其心を告白しやうとばかり焦慮して何事も為し得ない。女は恋をする時、其れを口に言ふまいとして何事でもする。


・女は皆女優である。男は唯その美しさに見とれてゐればいい。楽屋を覗くものは馬鹿だ。楽屋を人に見せるものは悪魔だ。


・一口に女といってもいろいろ有る。オンナもあればカンナもある。カンナ屑もある。
 欲の皮ばかり突っぱって色気も水気もなくなってる婆あなぞは、オンナの部類には入れられない。カンナ屑である。


・結婚は決して恋愛の延長ではない。結婚はナポレオンの云った通り、恋愛の墳墓だ。決して恋愛の延長ではない。けれ共恋愛するのも男女二人の事であるし、結婚するのも矢張り、男女二人の間のことであるから、人はしばしばそれを混同して、甚だしきは結婚は必ず恋愛に依るべしと、恋愛結婚でなければならぬ様なことを云ふ。西洋にも日本にもそんなことを云ってゐる人があるやうだが、それは頭の良くない人の考へだ。

 

 

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長谷川哲也著『ナポレオン~覇道進撃~』 1巻より)

 


 この生方にかかっては、森喜朗も三舎を避けるに違いない。

 

 


・「あなたの眼は美しい。まるで馬のやうだ」とほめたら、その女は怒りだした。一体馬の眼はそんなに美しくないだらうか。


・嬰児はまず乳房に吸ひつく。それから、はじめて母親の顔を見る。


・自分がいかにエライかを見せるよりも、いかに自分も、彼女のごとく馬鹿だかを示す方が早道だ。


・妻は手で選ぶものだ。伯楽が馬を買ふ時のやうに。

 

 


・女が偉くなると、独身者が沢山出来て来る。だから社会の原則は、独身ものが出来ない程度内に於て、女が偉くならなくちゃ駄目だ。


・婦人に対しては、言はざるをよしとす。已むを得ず言ふ時はなる可く簡勁にして言ふべし。肩を怒らし肱を張るべし。軽蔑の意を明白に発表すべし。

 

 

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竹久夢二 「青い木の実」)

 

 


・女の感情生活はマドンナと遊女の間を振子の如く往き来する。


・女が秘密をばらし易いといふのは、カントの説破したやうに、自己の秘密ではなく、他人の秘密をばらし易いことをさすのである。


・すべて女性の犯罪は複雑なることをその特徴としてゐるが、而もその複雑さ加減は単に複雑であるといふだけで、深淵な計画によって複雑を極めてゐるといふのではない。ことに女性は甚だ口やかましいものであるから、事を複雑ならしめるには頗る都合よく出来てゐるのである。

 

 

山崎露川


・女が新しくなるに従ひ、従順おとなしく十ヶ月も腹を膨らまして辛抱してる様なのがズッと減るだらう。


・男は美の外、女に恐るる何物をも見出せない。


・僕が此世で一番可愛いのは僕だ。そは僕と生死を共にして呉れるものは、世界に僕があるばかりで、女房の様に僕の死後に再婚する様な心配がないからだ。僕が悪いことをすれば隠してくれ、善いことをすれば吹聴してくれるのは、生まれて今日まで僕程忠実だったものはない。

 

 


・どんな正当な理由があっても妻を怒らしたら夫は負けだな。直ぐ糧道を断たれるからな。

 

 

 

 

 


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ビルマに跳梁する華僑 ―日貨排斥華僑同盟―


 盧溝橋事件が突発する少し前、1930年代半ばごろ。中華民国は世界各地に散らばった華僑の数を統計し、そのデータを発表している。


 国民政府僑勢委員会たらいう組織が調査を主導したようだ。


 それによると、


 まず、タイに於いて二百五十万、


 次いで英領マレーに二百二十万、


 更に蘭印に百三十万、


 仏印に於いて五十万、


 それからビルマに二十万といった調子で、


 その他諸々を合わせれば、だいたい七百万人弱というのが、当節南洋一帯に活動する華僑の総数だったらしい。


 それで1937年。日中戦争の幕が上がるや、この七百万がいっせいに――少なくとも見かけの上では――、日貨排斥をやり出した。日本商品をボイコットして、日本の経済に打撃を与え、祖国を援助しようというのだ。

 

 

Marco Polo Bridge air view

 (Wikipediaより、盧溝橋一帯の航空写真)

 


 むろん、ビルマの二十万とて例外ではない。その有り様を、山田秀蔵は一番近くで克明に眼に焼き付けた。


 まず、ラングーンに日貨排斥華僑同盟などという、あまりにも直截な名前の組織が結成されたということだ。山田が初めてこの地を踏んだ明治三十七年の段階でさえ、ラングーンには五万人からの支那人が居て、既に堂々たるチャイナタウンを形成していたそうだから、ここを本部とするのはまったく自然の趨勢である。


 なお、山田はこうした体験の積み重ねから――ビルマを旅行するものは、どんな寒村僻地でも支那人の影を見ざるなきにおどろくであらう。(中略)ビルマの主要都市には何処にでも支那人街があって、支那商店が軒を列ねてゐる。雲南人は米屋、雑穀屋、宝石商を営み、福建人、広東人は多く大工職、家内工業、鉱山業に従事してゐる」――前述の数字を深く疑問視するもので、ビルマ華僑の実数は、下手をすると公式発表の倍近く、四十万に届くのではあるまいか、と指摘している。

 

 

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ビルマ雲南ルートの風景)

 


 あの国と地続きである以上、こういう現象はどうも不可避なようだった。


 まあ、それはいい。


 同盟の動きは目覚ましかった。ビルマ各地に点在している都合三百七十以上の華僑学校――ほぼ同時期、ナチスドイツは五十万の移民に対し、千三百の学校をブラジルの地に建てているから、比率の上では順当といっていいだろう――を足掛かりとし、またたく間に支部を展開。互いに連絡を緊密にして、愛国運動の実を挙ぐるべく、権謀術数を弄していった。


 その具体的な遣り口を、山田は極めて詳細に書き残してくれている。

 


 同盟の検察員といふものが、バッジをつけて支那人の店を歩きまわる。そして日本商品が置いてあったり、日本人が店先に立ってゐたりするのを見ると忽ち摘発する。それを新聞に載せて、何町の誰は日本人と交際してをった、向後華人は彼と交際してはならぬ、取引は停止しろと指令を出す。さうなると店は立行かなくなるから、しぶしぶ同盟の中に入り前非を悔ひて許して貰ふといふ風で、これは日貨排斥にかなり効果があった。(『ビルマ読本』51~52頁)

 


 斯くの如きを眺めていると、漢民族共産主義が馴染むわけだと心底納得したくなる。


 相互監視、密告、私刑、吊し上げ――赤色国家に欠かせないこれらの要素は、なんのことはない、漢民族にとって第二の天性化してとうに久しきものであり、彼らを統御する上で、最も抵抗が少なく且つ有効な手段であった。


 上に立つのが蒋介石だろうが毛沢東だろうが、やることに大して差異はない。なんといっても、「畑から兵士を取る」というスターリンの十八番を、蒋とて淫するほどに用いているのだ。

 
 支那は所詮、どこまでいっても支那である。

 

 

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(ラングーンの電車)

 


 雲南ビルマ間の貿易は生糸、綿糸、玩具、文房具など相当多数に上るが、実はすべて日本製品である。品物がビルマに入ってからレッテルを貼り替へて、さも支那製品か英米製品ででもあるかのやうにカモフラージュして売ってゐた。(52頁)

 


 こういう体面さえ繕っておけばそれでいい、らしく・・・見えることが肝心なのだと言わんばかりのハリボテ主義も、実に現代の中韓の姿そのもので、いよいよ辟易させられる。


 ビルマには日貨排斥華僑同盟以外にも、商品不買委員会だの、空軍再建会だの、戦備者の友会ビルマ支部だの、数多くの華僑団体が立ち並び、構成員はみずからの愛国熱をアピールすべく、日夜励んでいたそうだ。

 

 

 

 

 


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南洋に夢を託して ―ビルマ生活四十年史―


 ミャンマーについて知ろうという気になったのは、直近の軍事クーデターが絡んでいること勿論である。


 泥縄式としか言い様がなく、この点我ながら汗顔の至りだ。


 幸いにして、良書を得た。


 昭和十七年発行、山田秀蔵著『ビルマ読本』がすなわちそれだ。

 

 

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 著者は記者でも外交官でも、ましてや何がしかの学位を持っているのでもない。


 しかしビルマ――ミャンマーの旧称――で四十年近く生活し、地道に事業を営んで、身代を殖やし続けた実績がある。


 長きに亘る己自身の体験から帰納された文ゆえに、本書の記述は一字一句、どこをとっても血の通わない場所はなく、なま・・な息遣いが感ぜられ、専門的でないだけに、却って脳に滲み込みやすい印象だ。


「読本」の名を冠するに相応しいというわけである。


 さて。――


 事の起こりを、もう少し詳細に読み解いてみよう。

 

 

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(ペグーの大四方仏)

 


 著者の山田秀蔵はもともと京都染物同業組合で会計主任をやっていた人。給料は悪くなかったが、このまま人に使われるより自分で自分の運命を切り拓いてみたいという青雲の志やみ難く、ついに職を擲って女房と二人、日本を飛び出した男であった。


 ときあたかも明治三十五年の砌、山田秀蔵二十七歳。


 あぶらののった、働き盛りの年齢であるといっていい。


 本人の筆にもそのあたりの血の熱さが如実に出ていて、

 


「掌大の日本内地は男子の驥足を伸ばすべきところではない。志を立て大に為すあらんとするには、須らく活躍の天地を海外に求むべし」(5頁)

 


 と、まことに壮たる意気である。


 が、世の中のことはそう都合よく、とんとん拍子に進まない。


 一旗揚げ得る土地を求めてマカオに香港、マニラにスマトラシンガポールに至るまで――南洋を一通り廻ってみたが、どうにも腰を下ろしたくなる場所がない。「これぞといって強く私の心を打つものがなかった」のだ。


 やきもきする間に、いたずらに時間ばかりが流れ、気付けば二度の年明けを迎えてしまった。


 すなわち明治三十七年、日本にとっての運命の年。日露戦争の勃発が、満洲せんじょうとはおよそ反対側を流離っていた山田秀蔵の頭上にも、奇縁というか、思わぬ影響を及ぼすに至る。

 

 

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(池田牛歩「遼陽占領」)

 


 実はこのとき、山田はほとんど南洋に見切りをつける寸前だった。

 


 これは駄目だ、南洋には見込がない。いっそヨーロッパを経てアメリカに渡らう。そこにこそ私を待つ事業があり、私の運命を決する天地があるに相違ないと考へた。(6頁)

 


 どうにも行き当たりばったりの感が強いが、なにぶんインターネットなぞ影も形もない時代、現地の事情に通暁したくば直接懐に飛び込んでゆくより他になく、賢しらぶって責めるべきではないのだろう。


 引用を続ける。

 


 別に急がねばならぬ旅でもない。ゆるゆる馬来マレー半島を歩いてゐると、たまたま日露戦争が勃発した。船はラングーンに寄港して二日碇泊するとのことに、私達も上陸した。忘れもしないその年の四月十二日、私が三十歳の時である。
 すると、ラングーン在住の日本人で雑貨商を営んでゐた神戸の人が私にいった。
「この戦争の最中にアメリカへ行ったところで仕方があるまい。しばらくこゝに滞在して様子を見たらどうか」(6~7頁)

 


 この一言が、山田の運命を動かした。


(なるほど、それもそうか)


 もともと何か確信あって、アメリカを目指していたわけでない。


 漠然とした期待だけが根拠であるから、修正するのも容易であった。


 数日間、あてどもなくラングーンをぶらぶらするうち、山田は次第にこの街にこそ望みを託したくなった。ある光景が、彼の意欲を激しくそそった。

 


 それは毎日夕暮になると、三々五々、インド人の汚い茶店に集まってくる英国の兵隊である。兵士の数はおよそ三個連隊位であったらう。インド人の店でさへこの通りの繁盛である、設備を整頓して小ざっぱりした店を開いたら、彼等を誘引することは雑作もない仕事に相違ないと私は考へた。(12頁)

  

 

RangoonStreetView

 (Wikipediaより、第二次世界大戦直後のラングーン)

 


 軍を太い客にして弾みをつけようとするあたり、私の眼にはどうしても、宮崎甚左衛門と姿が被る。そういえばあの文明堂創業者がカステラを売りに行った大日本帝国海軍は、何かにつけて英国海軍を手本と仰いだものだった。


 とまれかくまれ、やっと掴んだこの着想に、山田秀蔵は文字通り、みずからを賭けてみる気になった。この段階ではヤングーンの街中に、電気もガスもろくろく普及していない。夜は全く、深山のような暗さと寂しさに満たされる。


 闇の中では、人も勢い蟲の習性を得るらしい。灯りのもとへ誘引されずにはいられなくなる。山田は金に糸目をつけず、米国製のガス灯を買い入れ、この痛点を刺激した。


 あかあかと照明された看板には、「ロイヤル・リフレッシュメント・ルーム」と銘打たれていたそうである。

 


 私はできるだけ店を明るくし、気持ちよくする設備に工夫を凝らした。(中略)すると来るわ来るわ、開店当日から兵隊さんが続々入来して街の人気をさらってしまった。私の計画は美事図星に当って予期以上の好成績を収めることができたのである。(12~13頁)

 


 日英同盟の締結間もなく、


 ――日本人に親しんでおけ。


 今はそっちの方が得だという雰囲気が、イギリス社会全体に澎湃として満ちていたのも大きいだろう。せいぜいおだてて、いい気持ちにさせ、自分の代わりに自分の敵と戦って死んでもらおうではないか、と。――

 

 

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(中島六郎「日英同盟」)

 


 日露戦争の進展――皇軍満洲の曠野を破竹の勢いで進むにつれて、ビルマ人の来店も増えた。


 白人に勝利した黄色人種ということで、親日気分が青天井の盛り上がりを見せたのだ。彼らは日本人というだけで、山田に対して肩でも抱かんばかりの親しみを発揮し、いつか、いつの日か俺達もと虹のような気焔を上げた。


 時勢に乗るとはこういうことだ。もはやアメリカに行くまでもない。ビルマに根をおろして日本商品を紹介し、日本人の意気を見せ、日本の発展を図ることが私の使命」と、今度こそ完全に頓悟した。


 以来、三十八年間。山田がこの地で勢力を培い続けたことは、冒頭に於いて既に述べた通りである。


 異国の巷に散々揉まれ、酸いも甘いも味わい尽くした。


 彼はビルマ人の国民性に「どうにもならない博奕好き」が含まれていると分析し、当時ラングーンに存在していた東洋一の大競馬場について触れ、そのにぎわいが如何に空前のものかを描き、ついには

 


 老若男女の別なく、ビルマ人の大好物は賭博である。南洋各地の民は押しなべて賭博好きであるが、ビルマ人も御多分に洩れない。何かといへば金をかけて輸贏を争ふ、他人の真剣勝負も彼等は平気で賭博の材料にする。こんどの大東亜戦争も、彼等にとっては絶好の材料となるかも知れない。(121頁)

 


 このようなことまで書いている。


 時代背景を考慮に入れれば、よほど大胆な記述であろう。

 

 

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ヤンゴンの街並み)

 


 ちょっと前、パチスロにのめり込むあまり、パイロットの仕事を辞めてしまった在日ミャンマー人の姿が、ネットの一部で話題になった。


 山田秀蔵がこれを知ったら、果たして何と言ったろう。案外動じず、諦観まじりの苦笑を浮かべ、


 ――さもあろう。


 そうこぼすのみではなかろうか。

 

 

  

 

 


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謎の元勲・山縣有朋

 

 伊藤公はネタの尽きない方である。


 これは伝統的にそう・・なのであって、明治時代の新聞記者は三面記事に悩むと直ぐにこの「今太閤」を担ぎ出し、その私生活を赤裸々に暴いて悪口を吐き、ヤレヤレこれでシメキリ破りの罪を犯さず済んだワイとほっと胸を撫で下ろし、得々とするのが常だった。

 

 

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(森火山「印刷屋」)

 


 なんというか、伊藤博文という男には、そういう扱いをしても怒られないと、一種甘ったれたような雰囲気が自然と醞醸されていたらしい。

 

 これもまた、君子の徳というものだろうか。

 

 完成された人格が周囲に向かって放射する、説明し難い安堵感。如何にも東洋的であり、だからこそ当時日本を旅した西洋人は、一様に奇異の感に打たれざるを得なかったという。

 


 欧米の政治家は遥かに新興帝国の大政治家伊藤を想像し、非常なる人傑なりと思ふ、それは鎖国が開国となり、廃藩置県、立憲政治、条約改正より、日清日露二大戦役を経て、今日の隆運に達するまで、彼の干知せぬ事はあらざる故に、空前の英雄を想像するのも無理ならぬ事なり。然るに日本に渡来して、翌朝新聞を見れば、伊藤の艶種がある始末。此に於て外人は電気に打たれたる如く、不思議な感に襲はるゝ也。(『現代人物競べ』18頁)

 


 同じ長州藩士でも、山縣有朋とは正に天地の差異である。

 

 

Series C 1K Yen Bank of Japan note - front

 (Wikipediaより、千円札の伊藤博文

 


 左様、山縣有朋


 日本憲政史を総覧しても、これほど噺のネタになりにくい奴というのは珍しかろう。私も色々な書籍を渉猟して廻ったが、この人の人格的香気を伝えるエピソードは非常に乏しく、何かにつけて無機質で、生身の人間かどうかさえ、ときに怪しくなってくる。彼の身体の何処を刺しても赤い血なんぞは噴き出さず、大理石の破片ばかりがカラカラと、乾いた音を立てながら散らばるのみではなかろうか、と――。


 伊藤も山縣も、同じ長州の産であるのに、この隔たりはなんであろうか。


 南部生まれの硬派文人「春汀」鳥谷部銑太郎は不朽の名著『明治人物評論』中に、以下の如く書いている。

 


…井上や、大隈や、伊藤や、皆露骨裸体の人物にして其長所と短所と共に既に明白なり、彼は独り然らず、彼は政治家として記憶す可き一の成功もなく失敗もなし、而も彼は巧みに隠れて巧みに現はるゝの術を善くし、曾て其の行蔵を以て人の指目を惹くの愚を為さず、故に彼は一種の秘密なり。(63~64頁)


 彼は最も失敗を恐る、失敗を恐るゝは名を惜む所以にして、名を惜むは身を保つ所以なり、故に彼は隠忍慎密先づ自ら布置せずして他の石を下すを待つの碁法を用ゆ、是れ伊藤春畝先生と雖も未だ悟入せざるの奇法にして、流石に滑脱なる先生も、其出処進退の巧みなるに至ては遠く彼に及ばざるもの洵に此れが為なり(67頁)

 


 山縣の個性を表現するに、これほど正鵠を射た記述というのを他に知らない。

 

 

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(明治三十一年発行『明治人物評論』)

 


 彼はまったく、巨大な謎の人だった。それが血で血を洗い骨で以って骨を削る、凄愴酸鼻な権力社会を生き延び続ける最善の策と気付いたゆえに、躍起になって自己の姿を晦まし通した男であった。甲斐あって、政治的な不死性を、この妖怪は確立し得た。


 ただ、その秘匿があまりに周到に行われたため、我々後世の眼をしても、山縣有朋を補足するのは容易ではない。


 これはこれで、よほどの意志力を必要とする生き方だ。「本当の私を見て欲しい」――こんな台詞は、しょせん弱者の泣き言に過ぎぬと、いっそ唾でも叩きつける勢いで喝破したのは確か三島由紀夫であったか。


 如何にも彼らしい烈しさである。


 その筆法に則るならば、実に山縣有朋こそ、井上も大隈も伊藤さえも飛び越えて、元勲中最強の漢と呼ばれるに値したに違いない。

 

 

Yamagata Aritomo

 (Wikipediaより、山縣有朋

 


「この人の人格的香気を伝えるエピソードは非常に乏」しいと、上段に於いて私は書いた。


 が、それはあくまで「乏しい」の範疇に留まって、ぜんぜん皆無というわけではない。


 最後にその一を書き添えて、本日の締めくくりとさせて貰おう。

 


 某県に於て、建碑の時、公(山縣)の潤筆を乞ひ、後ち、御初穂を献ずと称して、新米一俵を贈る。公命じて直に逆送せしむ。曰く、余は書家に非ず。報酬を贈る者には、今後依嘱に応ぜざるべしと。
 他の某県は、即ち御初穂と称して、真に小さき玩具の俵を造り、以て新米を贈呈す、公喜んで之を受け以て卓上に置く。(『明治人物競べ』229頁)

 

 

若きサムライのために (文春文庫)

若きサムライのために (文春文庫)

 

 

 

 


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