ミャンマーについて知ろうという気になったのは、直近の軍事クーデターが絡んでいること勿論である。
泥縄式としか言い様がなく、この点我ながら汗顔の至りだ。
幸いにして、良書を得た。
昭和十七年発行、山田秀蔵著『ビルマ読本』がすなわちそれだ。
著者は記者でも外交官でも、ましてや何がしかの学位を持っているのでもない。
しかしビルマ――ミャンマーの旧称――で四十年近く生活し、地道に事業を営んで、身代を殖やし続けた実績がある。
長きに亘る己自身の体験から帰納された文ゆえに、本書の記述は一字一句、どこをとっても血の通わない場所はなく、
「読本」の名を冠するに相応しいというわけである。
さて。――
事の起こりを、もう少し詳細に読み解いてみよう。
(ペグーの大四方仏)
著者の山田秀蔵はもともと京都染物同業組合で会計主任をやっていた人。給料は悪くなかったが、このまま人に使われるより自分で自分の運命を切り拓いてみたいという青雲の志やみ難く、ついに職を擲って女房と二人、日本を飛び出した男であった。
あぶらののった、働き盛りの年齢であるといっていい。
本人の筆にもそのあたりの血の熱さが如実に出ていて、
「掌大の日本内地は男子の驥足を伸ばすべきところではない。志を立て大に為すあらんとするには、須らく活躍の天地を海外に求むべし」(5頁)
と、まことに壮たる意気である。
が、世の中のことはそう都合よく、とんとん拍子に進まない。
一旗揚げ得る土地を求めてマカオに香港、マニラにスマトラ、シンガポールに至るまで――南洋を一通り廻ってみたが、どうにも腰を下ろしたくなる場所がない。「これぞといって強く私の心を打つものがなかった」のだ。
やきもきする間に、いたずらに時間ばかりが流れ、気付けば二度の年明けを迎えてしまった。
すなわち明治三十七年、日本にとっての運命の年。日露戦争の勃発が、
(池田牛歩「遼陽占領」)
実はこのとき、山田はほとんど南洋に見切りをつける寸前だった。
これは駄目だ、南洋には見込がない。いっそヨーロッパを経てアメリカに渡らう。そこにこそ私を待つ事業があり、私の運命を決する天地があるに相違ないと考へた。(6頁)
どうにも行き当たりばったりの感が強いが、なにぶんインターネットなぞ影も形もない時代、現地の事情に通暁したくば直接懐に飛び込んでゆくより他になく、賢しらぶって責めるべきではないのだろう。
引用を続ける。
別に急がねばならぬ旅でもない。ゆるゆる
すると、ラングーン在住の日本人で雑貨商を営んでゐた神戸の人が私にいった。
「この戦争の最中にアメリカへ行ったところで仕方があるまい。しばらくこゝに滞在して様子を見たらどうか」(6~7頁)
この一言が、山田の運命を動かした。
(なるほど、それもそうか)
もともと何か確信あって、アメリカを目指していたわけでない。
漠然とした期待だけが根拠であるから、修正するのも容易であった。
数日間、あてどもなくラングーンをぶらぶらするうち、山田は次第にこの街にこそ望みを託したくなった。ある光景が、彼の意欲を激しくそそった。
それは毎日夕暮になると、三々五々、インド人の汚い茶店に集まってくる英国の兵隊である。兵士の数はおよそ三個連隊位であったらう。インド人の店でさへこの通りの繁盛である、設備を整頓して小ざっぱりした店を開いたら、彼等を誘引することは雑作もない仕事に相違ないと私は考へた。(12頁)
軍を太い客にして弾みをつけようとするあたり、私の眼にはどうしても、宮崎甚左衛門と姿が被る。そういえばあの文明堂創業者がカステラを売りに行った大日本帝国海軍は、何かにつけて英国海軍を手本と仰いだものだった。
とまれかくまれ、やっと掴んだこの着想に、山田秀蔵は文字通り、みずからを賭けてみる気になった。この段階ではヤングーンの街中に、電気もガスもろくろく普及していない。夜は全く、深山のような暗さと寂しさに満たされる。
闇の中では、人も勢い蟲の習性を得るらしい。灯りのもとへ誘引されずにはいられなくなる。山田は金に糸目をつけず、米国製のガス灯を買い入れ、この痛点を刺激した。
あかあかと照明された看板には、「ロイヤル・リフレッシュメント・ルーム」と銘打たれていたそうである。
私はできるだけ店を明るくし、気持ちよくする設備に工夫を凝らした。(中略)すると来るわ来るわ、開店当日から兵隊さんが続々入来して街の人気をさらってしまった。私の計画は美事図星に当って予期以上の好成績を収めることができたのである。(12~13頁)
日英同盟の締結間もなく、
――日本人に親しんでおけ。
今はそっちの方が得だという雰囲気が、イギリス社会全体に澎湃として満ちていたのも大きいだろう。せいぜいおだてて、いい気持ちにさせ、自分の代わりに自分の敵と戦って死んでもらおうではないか、と。――
(中島六郎「日英同盟」)
日露戦争の進展――皇軍が満洲の曠野を破竹の勢いで進むにつれて、ビルマ人の来店も増えた。
白人に勝利した黄色人種ということで、親日気分が青天井の盛り上がりを見せたのだ。彼らは日本人というだけで、山田に対して肩でも抱かんばかりの親しみを発揮し、いつか、いつの日か俺達もと虹のような気焔を上げた。
時勢に乗るとはこういうことだ。もはやアメリカに行くまでもない。「ビルマに根をおろして日本商品を紹介し、日本人の意気を見せ、日本の発展を図ることが私の使命」と、今度こそ完全に頓悟した。
以来、三十八年間。山田がこの地で勢力を培い続けたことは、冒頭に於いて既に述べた通りである。
異国の巷に散々揉まれ、酸いも甘いも味わい尽くした。
彼はビルマ人の国民性に「どうにもならない博奕好き」が含まれていると分析し、当時ラングーンに存在していた東洋一の大競馬場について触れ、そのにぎわいが如何に空前のものかを描き、ついには
老若男女の別なく、ビルマ人の大好物は賭博である。南洋各地の民は押しなべて賭博好きであるが、ビルマ人も御多分に洩れない。何かといへば金をかけて輸贏を争ふ、他人の真剣勝負も彼等は平気で賭博の材料にする。こんどの大東亜戦争も、彼等にとっては絶好の材料となるかも知れない。(121頁)
このようなことまで書いている。
時代背景を考慮に入れれば、よほど大胆な記述であろう。
(ヤンゴンの街並み)
ちょっと前、パチスロにのめり込むあまり、パイロットの仕事を辞めてしまった在日ミャンマー人の姿が、ネットの一部で話題になった。
山田秀蔵がこれを知ったら、果たして何と言ったろう。案外動じず、諦観まじりの苦笑を浮かべ、
――さもあろう。
そうこぼすのみではなかろうか。
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