そのころの竹柏会に椿一郎なる人がいた。
千葉県北部――茨城県と境を接する香取郡は米沢村の農家であって、最初の歌集『農人の歌』を出版したとき、すなわち昭和九年の段に於いては、親子五人と馬一頭、それから鶏二十四羽というのがおおよその家族構成であったという。
暮らしは、当たり前に貧しかった。
当時の農家の通弊というばかりではなく、祖父の代にてくだらぬ人間関係のしがらみから背負い込んだ借金が、一郎が成人してもなお相当以上に残されており、債鬼どもから返せ返せと追われまくった所為でもあった。
必死に働き、皆済を実現したのは三十路を幾里か過ぎてから。華の二十代は兵役と、ただひたすらな筋肉労働で埋め尽くされた。汗みずくの埃まみれで鍬など動かす彼の頭上を、青春はただ徒に通り越していったのだ。
世を呪い、生を憎み、人を怨んだとしても、誰も不審に思うまい。
冬菜
頬白の啼く山に来て雪折れの
松の木あさり薪造れり
ほろほろと山鳩の啼く静けさや
曇れるままに雨となるらし
ところが彼の織り成す詩作には、そうした負の情念がまるで反映されていない。生まれつきそういう感情に乏しいのか、よほど隠すのが巧いのか。
行く楽しさよ本を読みつつ
立ち止まり馬が糞するそのひまに
浮かびし歌を口ずさみつつ
夜おそくかへれば妻はただ一人
月の下びに稲
彼の織り成す
(Wikipediaより、神崎大橋)
私は生田春月の、
厭世家にも慰めはある。厭世それ自体が一つの快楽である場合も多い。静かな丘の上にひとり坐して、十分に人間を憎み得る時は、厭世家にとっていかに喜ばしい時であらう。人生の中から悲惨な事実をあとからあとからかき集めて来て、かりにも人生を楽しいものだなどと云ふ者があれば、これでもかこれでもかと突き附けてやる時はどんなにか胸がすくであらう。
との言葉に感銘を受け、感銘どころか天啓と信じ、人生の指針の一つとさえ仰ぐ者だが、それでもたまには宗旨を逸れて純朴な生の歓喜とやらに身を委ねてみたくなる。
今がまさにその最中。椿一郎は実によく、私を浄化してくれた。
甘き香ほのに流れくるかも
黒穂焚く煙夕べの麦畑に
淡く漂ひ月いでにけり
露冴えてほのに明るき暁の
納屋にころころ籾摺りにけり
あの空には今も変わらず、野焼きの煙が立ち昇っているのだろうか。