穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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植民地時代のジャワの習俗 ―出産・育児篇―

 

 和田民治という男がいた。


 明治十九年生まれというから、ちょうどノルマントン号事件が勃発した年である。


 三十路を越えてほどもなく、蘭印――オランダ領東インドに渡った。


 以後、およそ二十年もの長きに亘り、彼の地で開墾・農園経営に携わり続けた人物である。

 

 

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(和田民治氏)

 


 千古斧鉞を加えざる原生林を切り拓き、東ジャワ州ブリタール市南方に彼が築いた農園は、名をニャミル椰子園と称し、その外郭を概説すると、


 2100ヘクタールの面積――東京ドーム450個分に相当――を有し、
 2000人近くのジャワ人を労働者として定住せしめ、
 600頭の牛を耕耘用に飼育しており、
 主要作物は椰子とカポック綿であり、前者だけでもその樹の数は、ゆうに十万本を超える等、


 どこから見ても堂々たる大農場の構えであった。


 そんな彼のによる本が、ありきたりな旅行記と一線を画す仕上がりなのは全く以って当然だろう。昭和十六年発行、『蘭印生活二十年』は、実にジャワ島の生活事情を内側から腑分けした名著である。

 

 

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(椰子園の景色)

 


 これまで聞いたこともなかった現地ジャワ人の迷信奇習も数多く織り込まれたものであり、私の知識欲を満足させてくれるところ大だった。


 中でもとりわけ驚異の眼を見張らざるを得なかったのは、やはり出産に関することどもだろう。おそるべきことにジャワ人は、後産が済むと今度は産婦を腹這いにさせ、その腰車を産婆役が、情け容赦なく体重を掛けぐんぐん踏みつけまくるのである。


 ――こうすることで悪血を出し切ってしまうのだ。


 とは言うものの、その光景の無惨さときたらどうであろう。


 悪血どころか魂まで抜けてしまいそうな空恐ろしさが付き纏う。


 想像するだに下腹部に鈍痛を覚えるが、しかし未だ終わりではない。「充分に悪血を出し切った」と判断されると、今度は産婦を庭先に引き出し、腰布一枚というあられもないその姿めがけて、あらかじめ用意しておいたバケツの水を、何杯も何杯もぶっかけるのだ。

 


 沢山な血液を失った上、頭から冷水を浴せられてはたまったものではあるまい。
 顔は真っ蒼になり、唇は紫色に変じ、歯の根も合はぬばかりに、がたがた慄へて居る。
 その後は、毎日、朝、昼、晩と三度宛、この冷水浴をやる。私の家内はジャワ人のお産が余りに荒療治なのに、すっかり胆をつぶし、わたし達なら今頃はお葬式です、大丈夫でせうか、産褥熱なぞ起しはすまいか、と迚も心配する。(94頁)

 

 

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(収穫されたヤシの実)

 


 一方、誕生した子供の方も、そう時を措かず母に劣らぬ過酷な試練に晒される。


 生後一ヶ月といえば、まだまだ母乳の世話になるのがごく自然な段階だろう。離乳食すら遥かに遠い。それが生物的な正しさだ。


 ところがジャワ人は、いったい何をとち狂ったか、このあたりからもう早速、米とバナナを練り合わせた物体を赤子の口に押し込むのである。

 


 御飯を素焼きの皿の中に入れ、これを小さな擂粉木で擂り潰し、バナナを加へて練り、そのドロドロになったものを、子供の口一杯に押し込むのである。口からはみ出せば指で押し込む。呑み込めばまた詰め込む。
 子供は目を白黒させ、今にも死ぬかと思ふばかりである。時々コクリコクリと音を立てゝ苦しんだり、両手を動かし、力一杯足を跳ね、真赤な顔をして、息を吐かうと悶繰く様は、可愛想で見て居られない。少し口の物が減ると泣き叫ぶが、そこへ又押し込まれるから咽び苦しむ。(96頁)

 


(なんということだ)


 こうなるともう、育児なのか虐待なのか見分けがつかなくなってくる。


 郷に入っては郷に従えの格言通り、生活習慣に関しては極力口を挟むのを避けた和田民治も、流石にこればっかりはたまりかね、苦言を呈さずにはいられなかった。なにもこんな小さな赤子に一日三度、死ぬか生きるかの地獄の一丁目を味わわせずとも、お乳さえ与えておけばよいではないか――。


 ところが当のジャワ人ときたら、


「しかし旦那、こうして育てないと強くならないもンで」


 との一点張りで、てんで聞く耳を持たないのである。

 

 

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(ヤシの実の収穫)

 


 彼ら自身、そのようにして育てられ、アメーバ赤痢マラリア原虫のうようよする環境下でも今日まで無事に生きて来られたのはそのお蔭だと信じ切っているために、これはちょっと為す術がない。


 これに比すれば、奇妙といってもせいぜいが父親に臼を担がせ家の周囲を廻らせる程度の日本人の性質は、なんと柔和なことだろう。国外に出てこそ祖国の姿がよく分かるとは、こういう感覚ではなかろうか。

 

 

 

 

 


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続・文明堂と帝国海軍 ―軍縮をきっかけとして東京へ―

 

 宮崎甚左衛門が人に使われる立場から、人を使う立場に移行したのは、大正五年十月二十五日のことである。


 この日、彼は佐世保の街に文明堂の支店を開いた。


 一国一城の主になったのである。男としての本懐であろう。それはいい。ここで疑問とするべきは、


 ――何故、佐世保を選んだか。


 ということだ。


 実のところこの判断の背後にも、海軍が大きく関係している。

 

 

Port of Sasebo viewed from Mount Yumihari

 (Wikipediaより、佐世保湾

 


 半年前のことだった。春爛漫たる佐世保の港に連合艦隊が入港すると小耳に挟んだ甚左衛門は、すわ商機ぞと一念発起、担げるだけの品を担ぎ、現地に向かって急行したのだ。


 むろん、紹介も何もあったものではない。


 ただもうひたすら当たって砕けろ討ち死に上等の精神で、サンパンと呼ばれるはしけ・・・を操り、碇泊中の軍艦に片っ端から乗りつけるのである。その動きを上空から俯瞰すれば、まるでこまねずみのように忙しなかったことだろう。


 ところが奇蹟が起きてしまった。


 文明堂のカステラは文字通り飛ぶような売れ行きを示し、初日だけで二百数十斤を売り捌くという大戦果を挙げたのである。


 従来の最高記録レコードを倍以上も塗り替える快挙であった。


 むろん、甚左衛門の得意ときたら尋常ではない。


 彼はまったく有頂天になってしまった。雀躍りして喜びながら、


 ――ここだ。


 と、叫び上げたくなるほどの力強さで思ったらしい。

 


 私は、いつかは独立して店を持ちたいと、その機会をうかがい、また適当な土地を探していたのだが、この外売の好成績によって、すぐさま意を決した。佐世保だ! ここに店を持とう。ここなら見込みがある――(『商道五十年』59頁)

 

 

Naval Ensign of Japan

Wikipediaより、軍艦旗

 


 前回の末尾で触れたような蜜月関係を海軍との間に構築するのも、至って自然な流れであろう。甚左衛門はそのうちに、各地の水交社にも出入りして商品を納めるようにもなった。


 水交社とは、海軍士官・将校のために設立された社団法人のことであり、その主たる目的は懇親・研究・共済にあったというから、まあ一種のサロンとでも考えておけば差し支えはない。


 たくましい海の男たちが文明堂のカステラに舌鼓を打ちながら、天下国家を論ずる光景を想像すると、気分はそう悪くない。文明堂発展の基礎には、間違いなく彼ら海軍軍人の愛顧があった。


 そしてそれは、甚左衛門の東京進も同様である。


 彼が中央に打って出ようと意を決した直接的なきっかけは、まこと驚くべきことに、ワシントン海軍軍縮条約にこそ見出せるのだ。

 

 

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 米・英・日の主力艦保有比率を5:5:3に制限するこの条約の締結で、甚左衛門は佐世保の街の衰退を感じた。佐世保の人口は当時十二万人、そしてこの十二万人悉くが、何らかの形で海軍の恩恵を受けて生活している。佐世保は実に、鎮守府を中核とした街なのである。


 それだけに海軍勢力の消長は、街の盛衰にもろ・・に反映されざるを得ない。


(このままここで頑張っていても、徐々に先細ってゆくだけだ)


 危機感に苛まれざるを得なかった。


 もっとも甚左衛門の危惧というのはからりとしていて、じめじめと暗がりに沈湎するような向きには行かない。彼はみずからが直面したこの危機を、


 ――神仏のお手引きであろう。


 と、割り切って考えることにした。いよいよ中央に乗り出して、カステラ専門でゆく決心をつけよと、試練を設置することで態々示してくれたのだ。……


 このあたり、父の教育は成功したといっていい。

 

 

Sasebo Naval District Headquarters

 (Wikipediaより、佐世保鎮守府庁舎)

 


 ところが、である。


 ここにひとつの滑稽がある。軍縮条約の締結と、それが佐世保の街に及ぼす影響の甚大さというものを、甚左衛門ほどの深刻さで測れた者が他に誰もいなかったのだ。


 特に妻の眼を通して視れば、夫は天の落下にひもねす怯える中国古代杞の人となんら変わるところがない。


 果然、大反対して憚らなかった。


 このとき両者が交わしたやり取りが、なんともふるっていて面白いのだ。

 


「いままで、この土地で苦労して、やっとこれまでなったのに、――田舎ものが東京に出てもとてもむこうの人と太刀打ちはできませんでしょう」
「なにを言う。十年近くも添っていて、おれの手腕がわからんのか――」
「あなたの手腕はようわかっています。わかっていますが、東京に出て成功したとしても、なにも金の飯をたべるわけじゃなかろうし、やっぱり一升五十銭の米しか食べないのでしょう。ここで、今までどおりやってゆけば、食べて、飲んで、着て、いくらかづつでも残ってゆくじゃありませんか」
「それだけじゃ済まされんのが男の気持だ。ここじゃ一生やったって知れてるじゃないか」
「それなら、あんただけで行きなさい。私ゃここで、この店をやります」
「まあおれの腕を信用して、ついてこい」(75~76頁)

 


 なんとまあ気持ちのいいきっぷの利かせ方であろうか。


 この短い会話の中に、男女の考え方の違いというのが凝縮して詰め込まれている。まこと、男と女というのは同じ人間でありながら、全然別のいきものだろう。それぞれ持っている世界が違う。


 ――だから男は、女と付き合わなくちゃあ駄目だ。


 でなけりゃ世界が広がらん、と。


 そう説教してくれたのは、他ならぬ筆者の祖母だった。


 若気の至りで「生涯未婚」を口にした私に、


 ――何を言っとるだ。


 と、年季の入った甲州弁で思い切り雷を落としたのである。既に八十を越えた身体でありながら、その語気の烈しさときたら物凄く、私は粗相した犬のように粛然としてお叱りを受けるしか仕様がなかった。

 

 

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 それがどれほどの卓見か漸く理解が追いついたとき、惜しいかな、既に祖母はこの世の人ではなくなっていた。


 まあ、それはともかく――。


「あんただけで行きなさい」と突っぱねた甚左衛門の奥方も、最終的には承知して、大正十一年二月四日、共に上京の途に就いている。


 そして翌年九月一日発生した大震災で、夫婦仲よく焼け出された。


 このとき甚左衛門が必死に担いで逃げたのが、月賦で買ったナショナル・キャッシュ・レジスタに他ならなかった。1650円の月130円払いで購入したものであり、完済もまだ先だったという。

 

 

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文明堂と帝国海軍 ―長官室にフリーパスのカステラ屋―


 地下鉄三越前駅から文明堂東京日本橋本店に行く場合、A5出口を使うのが、経験上いちばん手っ取り早く思われる。

 

 

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 ここを出たら、後は右手側に直進するだけでいいのだ。

 

 

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 二分もせずにこの看板が発見できることだろう。


 先日カステラを買った際には、おまけとして「黄金三笠山がついてきた。

 

 

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 この「おまけ」の伝統を作ったのも宮崎甚左衛門その人で、如何にも彼らしい哲学性が底にある。

 


『まける』ということは、お客さまにとってはこの上ない魅力である。商人が負けるのであるから、お客さまは勝つのである。勝って気持のよくない人はいない。ところが、百円の値段を八十円にまけて、二十円が財布に残ったというのでは、まだ魅力の度が薄い。また、あとあとまで尾を引く生命が短かく、展開力も少ない。その点、品物によるおまけは、はるかに効力が大きいのである。婦人雑誌や少年雑誌につく附録が、どんなに購買欲をそそっているかが端的な好例だが、カステラのような特殊な菓子になると、現物のおまけはますます大きな威力を発揮する。(『商道五十年』95~96頁)

 


 人情の機微を理解し抜いていなければ、とてもこの下りは書き得ない。


 創業以来の伝統が継承されていることに、保守派の私は大なる満足を味わった。

 

 

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 ――ときに、文明堂のこのカステラ。


 最大のお得意様が大日本帝国海軍だった時期があるといったなら、あるいは意外な感がするであろうか。


 宮崎甚左衛門が六人兄弟の五男だったということは、前回触れた。


 兄たちの消息にそれぞれ触れると、


 長兄は父の仕事を継いで、長崎で大工をするようになり、
 次男は分家し、他所に一家を構えるに至り、
 三男もやはり長崎に出て商売を始め、
 四男は、その三男の後を追い、彼の店の手伝いをした。


 この「三男の店」というのが菓子屋文明堂であり、今日まで続く文明堂総本店の源流を成す。

 

 

Nagasaki BunmeidoubTotal headquarters 2011

 (Wikipediaより、文明堂総本店

 


 阿漕な営業ぶりに嫌気がさして、ものの二日で酒屋を辞めた甚左衛門は、その後自転車屋や雑貨店に雇用されたり、ときには水夫となって船に乗り込んだりしたが、いずれもどうも面白くなく、長続きせず辞めてしまった。


 こうした職業遍歴を経た後に、漸く文明堂に拾ってもらうわけである。兄の胸には、「見るに見かねて」という気分が少なからずあったのではなかろうか。


 長崎には文明堂以外にも菓子屋が多い。南陽堂、松翁軒福砂屋といった名うての老舗が軒を連ねて、新参者を圧迫していた。


 この包囲下で商勢拡張を図るのは、言うまでもなく並大抵のことでない。


 現に文明堂もなかなかの苦戦を強いられていて、その情景は甚左衛門の義侠心を刺激するのに十分であり、彼はまったくシャカリキになって働いた。

 

 

Nagasaki tram

 (Wikipediaより、松翁軒の描かれた絵葉書)

 


 甚左衛門に割り振られた仕事というのは、要するに出張販売員めいた内容だった。


 菓子の見本を満載した箱を担いで市中のお得意様を訪問してゆく。で、集めた注文を店に届けて、今度は本物を持ってゆく。


 が、ほどなくして甚左衛門は疑念を抱いた。


(迂遠ではないか)


 と思うのである。


(美味そうな見本を見せられる。口の中につばき・・・が湧いて、つい欲しくなりひとつおくれと声が出る。ところが実際に菓子が届けられるのは、何時間もしてからだ。これではどうにも気が抜けてしまう)


 畢竟、喰いたいと思うや否や間髪入れず食卓に載せられるような仕組みが最上ではなかろうか――。


 想到するや、彼の行動は早かった。


「速戦速決でやらせてください」


 常に商品を持ち歩いて外回りをやりたい、と言ったのである。


 弟からの申し入れに、兄は鷹揚に頷いた。

 


 長崎は坂と石段の多い町なので、重い荷をかついでの上り下りは、実に骨が折れた。労力からいったら、見本で注文をとって、それだけを届けにゆく方が、足は二回運ぶにしても、楽であった。しかし、大切な『時間』というものは、労力などとは代えられない。微妙な『商機』というものは、肩の痛さとひきかえにはできない。私は毎日毎日、長崎市内のほとんど半分をまわり、それから渡し舟に乗って対岸の稲佐や向島までも行った。(56頁)

 

 

Nagasaki City view from Hamahira01s3

 (Wikipediaより、長崎の夜景)

 


 このころ、彼の座右の銘は、

 

町々の時計となれよ小商人こあきんど


 の十七文字だったそうである。


 決まったコースを、決まった時間に、毎日欠かさず巡回する。それこそ雨が降ろうが槍が降ろうが必ず、である。そうするうちに人々は、


 ――ああ、あの人が来たから今は何時何分だろう。


 と、時計要らずで現在時刻を知るようになる。そういう商人は親しまれ、繁盛するぞという意味らしい。


 事実、文明堂はそうなった。「次第にお得意さんも殖え、売上げも上昇してきた」とのことだ。


 そんなとき、甚左衛門は気になる風聞を聞きつける。


 日月堂なるライバル店が軍艦に注文を取りに行き、巨利を博したとの噂であった。


(あっ)


 その手があったか――と、膝を打たずにはいられなかった。


 前述した通り、甚左衛門の神経は実に伝導率がいい。打てば響くというべきか、とにかく行動を逡巡しないつくりをしている。

 


 早速そのとき長崎の港にはいっていた『千歳』という少尉候補生の練習艦に行ってみた。すると、たしか十円ぐらいの商売があった。
 すっかり味を占めて、それから長崎に軍艦が来るたびに行った。(57頁)

 

 

Japanese cruiser Chitose

 (Wikipediaより、防護巡洋艦「千歳」)

 


 接触を重ねるうち、段々要領が呑み込めてくると、比例して行動も大胆になる。


 やがて宮崎甚左衛門は、長崎以外の港にも、軍艦目当てにカステラ担いで出没するようになってゆく。この点、彼は実におそれ知らずな男であった。


 結論から先に述べれば、海軍と文明堂の仲というのは年を経るごとにいよいよ濃密なものとなり、ほとんど蜜のような有り様で、ついには呉鎮守府司令長官村上格一中将から直々に注文を受けるまでにさえ至る。

 


 佐世保でもそうであった。司令長官や艦長に直接注文をとりにゆくのである。普通だと、当番の水兵が取次いでくれない。それを、長官にお気に入られてしまったので、注文があってもなくても、とにかく長官室にドシドシ入って行くようになった。水兵が直立不動の姿勢で敬礼してくれるのである。(71~72頁)

 

 

Murakami Kakuichi

 (Wikipediaより、村上格一)

 


 このとき結んだ縁というのが、よほど長く生きていたのか。


 大東亜戦争中、甚左衛門は山本英輔大将を品川御殿山の屋敷に訪ね――二・二六事件以降、山本は予備役となっていた――時局について親しく意見を交換している。


 このようなカステラ屋が他にあったとは思えない。


 まさしく文明堂ならではであったろう。

 

 

 

 

  


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「今に見てろ」という言葉 ―踏まれても根強く保て福寿草―

 

 宮崎甚左衛門の『商道五十年』を読んでいると、「今に見ていろ」等逆襲を誓う意味の言葉が散見されて面白い。


 前回の記事からおおよそ察しがつく通り、この東京文明堂創業者は極めて律義な性格で、しかしながらそれゆえに、劫を経た古狐のように悪賢い世間師どもの手練手管にやり込められて、煮え湯を呑まされることが多かった。


 甚左衛門は偽善者ではない。


 そういう場合、しっかり憤りを催している。

 


 情なさと、口惜しさで、腹の中は煮え返るようであった――あのおやじは、おれをひどい目に会わせているが、人を苦しめるお前さんが出世するか、苦しめられるおれが出世するか、今に見ていろ――と、私はひそかに歯噛みしたのであった。(79頁)


 こうして、表面だけは円満な手切れであったが、私の腹の虫はなかなかおさまらなかった。復讐などということではないが、今に見ていろ! ……といった気持はにえかえった。(114頁)

 


 最終的にその感情は粘っこく怨恨化したりせず、教訓として昇華されるといえど、怒ることは怒るのだ。


 そしてその都度、

 

踏まれても根強く保て福寿草
やがて花咲く春に会わなん


 とか、

 

踏まれても尚美しき萩の花


 とか、

 

折れても咲けよ百合の花


 とかいった句を口ずさんで己を奮い立たせたという。

 

 

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福寿草

 


 歌の正しい活用だろう。いや実に、甚左衛門は漢であった。人として男として生まれたからには、是非ともこういう弾性豊かな心を宿さねばならぬ。

 


 ――宮崎甚左衛門が呱々の声をあげたのは、明治二十三年二月十五日、長崎県南高来郡土黒村という、島原半島の一寒村に於いてであった。

 


 家は貧しい。


 にも拘らず子供は多い。


 甚左衛門が生まれたとき、既に兄が四人いて、更にそのあと弟が一人できたというから、ぜんぶで六人兄弟ということになる。


 典型的な「貧乏人の子沢山」の姿であった。


 父は村の大工をやって、母は小作農として地面を掻いて、どうにかこうにか一家の食い扶持を賄った。


 斯くの如き環境下では、子供も立派な労働力と看做される。

 


 私が物心ついてからの明け暮れは、三里も離れた山へ薪をとりにいったり、馬に食べさせる草を刈りにいったり――しかも飯は芋飯か粟飯で、魚といえば、海岸から半里しか離れていない村でありながら、月に一、二回しか食べられなかった。(36頁)

 


 赤貧洗うが如しとは、こういうものではなかろうか。


 が、ふしぎと精神の格調は高かった。

 

 

Shimabara Peninsula Japan SRTM

 (Wikipediaより、島原半島

 


 甚左衛門の父親は厚く仏に帰依した人で、その教えを体現すること尋常ではなく、同様の敬虔さを子供たちにも要求して憚らなかった。このため彼の躾というのは、ときに鞭打つような厳格さを伴い行われたそうである。


 盗みをするな、殺生をするな、賭けごとをするな、太陽おてんとうさまを尊べ。――


 以上の如き道徳律の数々が、幼く柔い甚左衛門の精神にどういう影響を齎したかは、想像するに難くない。「武士は食わねど高楊枝」「鷹は死すとも穂を食まず」「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」――杭打機の猛烈さで打ち込まれた数多の俚諺が、結局は彼の人生を強く支配することとなる。


 具体例を挙げるなら、齢18歳の折、故郷を巣立って長崎の街で初めて就いた酒屋の仕事。これをたった二日で辞めてしまった一件が、まず相応しいと言えるであろう。


 そこの主人が、酒に色付きの水を混ぜて不当な利益をせしめている光景を目の当たりにしたからだ。

 


 当時はいまのような瓶詰ではなく、すべて樽からの計り売りだったが、一樽だけは水に色をつけたやつを用意しておくのである。そして、かりに一番安い酒が一円だとすれば、別に一円五十銭くらいの値段書きをつけておくのである。
 そこでお客さんが、一円二十銭の酒を五合ください――と買いにくれば、ヘーイというので、一円二十銭の樽から四合ぐらい入れ、「おまけしときますよ」といって、一円五十銭の樽から色つきの水をチューッと注いで五合にし、ヘーイ、まいどありがとうございます――というわけである。
 お客さんは、水を割られているとはつゆ知らず、あの酒屋さんはなかなか勉強してくれるよ――と喜ぶ仕掛である。まことに悪辣なことをしたものだった。(49頁)

 


「二日」というハイスピードが、甚左衛門の催した嫌悪感の強烈さを物語る。


 ほとんど生理的の域に達していたと看做してよかろう。幼少教育の重要性が、自ずと悟られるではないか。

 

 

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 芋飯や粟飯ばかり喰っているのに嫌気がさして、商売人になろう、広い世間で大きく身を立て、憧れの銀シャリ生活を叶えようと一歩踏み出した甚左衛門。


 が、人界はしょせん濁世であり、慾が何より優先される修羅道だった。


 その只中に飛び込んで、なお廉潔で在り続けようとするならば、よほどの困難を覚悟しなければならないだろう。


 実際問題、宮崎甚左衛門の生涯とは、試練に次ぐ試練の連続で休む間もなかったような観方も成り立つ。


 が、本人がそれを苦にしていたとは限らない。彼のように太い神経の持ち主は、得てして困難相手の取っ組み合い――「闘争」それ自体の中に、生き甲斐を見出したりするものだ。

 


 世渡りするには、呑まねばならぬものが二つある。それは、人と煮え湯である。人を呑む気概、これがなければ、世の上に立つことはできぬ。人に煮え湯を呑まされて、苦い経験を経なければ、ほんとうに世の中のことはわからないのである。(203頁)

 


 これこそまさに、彼の人生を象徴した金言という感がある。

 

 

 

 

  


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焼け野原での墓参り ―宮崎甚左衛門の孝心―

 

 ――カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂。


「有名」などという言葉では、慎まし過ぎてとても現実に即さない。


 あまりにも人口に膾炙されきったキャッチフレーズ。それを発想した男、東京文明堂創業者・宮崎甚左衛門

 

 

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 現在私の知る限りの範囲に於いて、この男より孝心豊かな人物というのは存在しない。


 日本どころか全世界を見渡しても、彼が最上ではないかと思う。


 なにしろ親の戒名を、常に懐に忍ばせていた人物だ。


 順を追って説明しよう。――甚左衛門の財布には、紙片がいちまい、何時々々いついつだとて収まっていた。


 三つ折りにされたそれを開くと、何よりもまず真っ先に、中心線にぴたりと合った南無阿弥陀仏の六文字が網膜に飛び込んで来るだろう。


 雄渾なる筆致から、ふと視線を逸らしてみると今度はその両脇に、戒名がそれぞれ一人ぶんづつ配置されていることに気が付く筈だ。


 言うまでもなく、それが甚左衛門の両親の、仏としての名であった。


 彼はこうすることにより、常に両親の霊を帯同――否、お供が・・・できる・・・と心の底から信じていた節がある。だから例えば、芝居など見に行った場合でも、


「父上、母上、どうぞこの芝居を楽しくごらんになってください」


 幕が上がるや、心の中でそう呼びかけるのを忘れなかった。

 

 

Kokuritsu gekijo - kabuki curtain - june 16 2017

 (Wikipediaより、国立劇場の定式幕)

 


「鉄鋼王」アンドリュー・カーネギーも母親を大事にしたことで有名で、最初の著書の冒頭に、


「私の愛するヒロイン、母に捧げる」


 こんな献辞を挟んだり、更に転じて肖像画には、


「ああ神聖なる母親、我が生命の源、我が教師、我が守護女神!」


 感激も露わに書き添えたらしいが、そのカーネギーを以ってさえ、宮崎甚左衛門には一歩譲らざるを得ぬであろう。


 なにせこの人、月の命日の墓参りを、数十年間、ただの一度も欠かしていない。


 それこそ台風に見舞われようが、B29の編隊に街を焼け野原にされようが必ず、である。


 墓参りを一足飛びにとび越して、彼自身が黄泉の人になってしまいそうな勢いだが、どういうわけか甚左衛門には強烈な生命いのち運が憑いていた。


 関東大震災で焼け出され、どうにかこうにか立て直したと思ったら、今度は戦争という未曾有の災禍に巻き込まれ、またもや無一物に逆戻りしたにも拘らず、五体ばかりはふしぎと大した傷もなく、ついに昭和四十九年まで永らえて、八十四歳の長寿を保ったのである。


 孝行の功徳と言われれば、つい信じてしまいそうな実績だ。

 

 

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 とまれかくまれ、十八日と三十日である。


 毎月この両日になると、甚左衛門は遺伝子にそう刻まれているかの如き忠実さを発揮して、父母の墓前へ馳せ向かう。


 おまけに慰霊の作法というのも通り一辺倒なおざなり式のものでなく、差し当たり一時間ほど費やして、墓石とその周辺を綺麗に掃除するという念の入りようなのだから、もはやどう反応すればいいのか感情を持て余しそうになる。それから漸く、香華を手向け、瞑目してお経を上げるならい・・・ であった。


 常識外れの手厚さとしかいいようがない。


 が、甚左衛門に言わせれば、これは世間の方が間違っている。


 本来墓参りとはこうあるべきで、自分の仕様にいちいち瞠目しているようでは、まだまだ本質がつかめていないと窘めるのだ。

 


 先祖は自分の元木である。墓石に水をかけるのは、元木が枯れぬよう、その生命がいつまでも生き生きと、子々孫々に伝わるようにとの願いである。それなのに、一年に一回か二回しか水をあげぬのでは、元木は枯れしおれてしまうではないか。
 それに、墓参りをするのは、先祖に自分の身体を見せにゆくのである。――おかげでこんなに成長しました、このように無事息災に暮しています――と、自分の姿を見せて、地下の霊に喜んでもらうためである。
 だから、困難なときにこそ、ますます墓参を欠かしてはならない。戦争の末期、ロクロク食うものもなくなり、B29の編隊が日夜爆弾や焼夷弾の雨を降らしたあのようなときこそ、ほんとうに私はお墓参りの意義を深く感じた。(昭和三十五年発行『商道五十年』46頁)

 

 

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 一見もっともらしく道徳的に聞こえるが、奥に隠し切れない狂気がある。


 してみると宮崎甚左衛門とは、ある時期の日本人が理想とした人格を、まさにそのまま己の内に誕生させた傑士だったのではあるまいか。


 文明堂のカステラが、ますます美味くなりそうだ。

 

 

カーネギー自伝 (中公文庫BIBLIO)

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夢路紀行抄 ―間違い電話―


 夢を見た。


 埒のあかない夢である。


 直前まで何をしていたかは憶えていない。鮮明なのは、携帯がけたたましく鳴り響いてからである。


 着信を知らせる音色であった。


 私は特に発信元の番号を確かめもせず、半ば反射でそれに出る。後から思えば迂闊としか言いようがない。悪徳業者のトラップだったら何とするのか。

 

 

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 果たしてスピーカーから聴こえて来たのは、


「――さん?」


 しわがれて、変に間延びのした、知らぬ老婆の声だった。


 むろん、私の苗字ではない。


(間違い電話か)


 今の時代珍しいなと思いつつ、差し当たり穏当な対応を心がけることにする。


 が、よほどお年を召されているのか。違います、どちら様ですか、と繰り返し答えてやっても一向に頓着する様子がない。通話の相手はただひたすらに、自分の用件のみを述べ立ててくる。


 どこだかの予約が取れたから、十時半ごろに車廻して迎えに来てくれ――要約すればこんなところだ。


(俺にそんなこと言われても)


 ほとんど途方に暮れる感がした。


 いっそ、ここまで話が通じないのであるならば、問答無用で通話を切ってしまえばいい。


 後は発信元の番号を着信拒否にでも処してしまえば、遠からず相手も己の過ちに気付くであろう。


 しかしそこが夢中の沙汰で、当時の私はなんとかして相手の誤解を正さなければとそのことばかりに気を取られ、大汗をかき、他の発想など塵ほどにも浮上せず、豆腐を石畳に叩きつけるような愚挙ばかりを敢えて続けた。


 そうして得られた成果というのが、


「――さん、風邪でもひいたか」


 の一言だというのだから馬鹿げている。


 なんだって夢の中でまで、徒労に苦しまなければならないのだろう。

 

 

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 それ以外にも純狐――『東方紺珠伝』の登場人物――が足利義輝を篭絡しようとしたり、社運を賭けてお化け屋敷に挑んだりと、奇天烈な展開があった筈だが、既に朧になってしまった。


 ただ、あの不吉な声だけが、どういうわけか今も鼓膜にひっついている。

 

 

 

 

 


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酒、酒、酒、酒 ―このかけがえなき嗜好品―


 ドイツがまだワイマール共和国と呼ばれていたころの話だ。


 第十二代首相ブリューニングの名の下に、ビール税の大幅引き上げが決定されるや、たちどころに国内は、千の鼎がいっぺんに沸騰したかの如き大騒擾に包まれた。

 

 

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 もともと不満が鬱積している。


 政治家としてのブリューニングは典型的な緊縮財政の信徒であって、世界恐慌の狂瀾怒濤をひとえに政府支出の削減と増税によって凌ごうとした。


 彼の手によって引き上げられた関税たるや小麦・大麦・燕麦澱粉・鶏卵・牛乳に、シャンパン・葡萄酒・コンデンスミルク等々と、農産物に限っても列挙するのが面倒になるほどである。


 冷凍肉五万トンの無税輸入制度も廃止され、鮮肉の関税も五割増しの憂き目に遭った。


 これだけでも食料品の値上がりが予測されて憂鬱なのに、更に営業税・百貨店税の増税までもが降り落ちてきたから堪らない。食卓のみならず、日用品という日用品が一斉に騰貴するとあってはやり切れたものではないだろう。人々がブリューニングを「飢餓宰相」と罵ったのもむべなるかな。このあたり、我が国に於ける浜口雄幸にどこか似ている。

 

 

Bundesarchiv Bild 183-1989-0630-504, Heinrich Brüning

 (Wikipediaより、ブリューニング)

 


 圧縮熱は十分以上に高まっていたといっていい。


 それがビールという、格好の火種を得てついに一大爆発を起こしたカタチだ。特にバイエルン州の怒気ときたら物凄く、到底当たるべからざる勢いで、牧師までもが


「ビール税の引き上げは、人道に対する重大なる罪である」


 と絶叫してますます煽り立てるのだから堪らない。


 人々はほとんど発狂の態で市街を行進、すわ革命かと他国の記者を戦慄させたほどである。


 結局、ブリューニングは八割五分の原案を、五割へと修正するを余儀なくされた。

 

 

Muenchen vom Maximilianeum

 (Wikipediaより、1900年頃のバイエルン州ミュンヘン

 


 人というのは、まったく酒を愛好するいきものだ。


 どんな未開部族でも踊りと酒の作り方だけは心得ている。


 シベリアに抑留された日本兵にも、

 


 黒パンを小さくちぎって水の入った水筒の中に入れる。配給のわずかな砂糖も入れておく。毎日黒パンの三分の一ぐらいずつを一週間ぐらい入れ続け、しっかり栓をして数日間放っておくと中のパンはやがて発酵し始め、水が酒に変わっていく。原始的な製造である。作業から帰って、枕元にある酒の入った水筒を何度も撫で回す姿は荘厳でもあった。(『シベリア抑留体験記』268頁)

 


 このような涙ぐましい努力があった。


 以下はそのありがたき酒を醸す際、職人たちが口ずさんだ唄の歌詞。昭和十一年から十二年にかけて、料理研究家林春隆が灘の白鶴醸造に取材を願い、特に許され職人たちと起居を共にし、採録したものである。

 

 

秋洗ひ唄


うたふてお呉りゃれどなたも揃て、逢ふも出會ふも今ばかり。
逢ふて別れて松原行けば、松の露やら涙やら。
松の露なら頭から濡れる、涙なりゃこそ袖濡らす。
涙ながせば痴話ぢゃといふてや、痴話で涙がこぼされよか。
涙流して筆取りあげて、書くは暇の去り状書く。
いとまもらへば他人ぢゃけれど、人が悪る言や腹が立つ。
腹が立つ時やモンツ茶碗で酒を、飲んで暫く寝るがよい。
まだも立つ時やこの児を抱きゃれ、仲のよい時出来た子ぢゃ。

 

 

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(秋洗いの様子)

 


 全体的に七・七・七・五の都々逸調で成っている。


「秋洗ひ」とは、秋の刈り入れを終えた後、酒造りに取りかかる一番最初の工程で、諸道具一切を取り出しての洗浄・修繕工程を指す。


 入念に作業の行われること、いっそ偏執的なばかりであって、特に桶に対してその傾向が顕著であった。以下、その工程を抜粋すると、

 


…囲桶はその容量石数二割以上の熱湯を入れて蓋をして置く、これを「熱湯内籠」といひ、五六時間を経て後、湯の温度が五十度を降らないうちに湯を抜き去って、直ちに縦「シゴキ」を行ふ。例の先の揃った「サゝラ」を用ひ、充分に力を入れて、巧者なものは一種微妙な音をたてゝ洗ふのである。次に熱湯五六斗を用ひて湯当を行ひ、其後十日間位は毎日湯洗ひ及び釜当をした後、更に一日一回五六日間水洗ひを行ひ、洗ひ終りには三四斗の水で水当を行ふのである。それから桶を北面にして日光の直射を避けつゝ乾燥させて枯し湯に入れ、立てゝ蓋をして目張を施して置くのである。(昭和十七年発行、林春隆著『日本の酒』7~8頁)

 


 恰も日本刀の「折り返し」を連想させる反復作業。偏執的と書きたくなる、私の気持も分かるだろう。

 

 

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(ササラによる縦シゴキの真っ最中)

 

 

山卸唄
 

目出度めでたの若松さまよ、枝がさかえて葉も繁る。
枝が栄えてお庭がくらいよ、暗きゃ下しゃれ一の枝。
一の枝打ちゃ二の枝が招くよ、もちとこちよれ三の枝。
酒はよいもの気を勇まして、飲めばお顔の色を出す。
酒は飲まんせ一合や二合は、三合までなら買うて飲まそ。
酒と言ふ字はシ篇さんずいに、つくり清めの酉と書く。
酒は白鶴肴は小鯛、ことにお酌はしのび妻。

 


 山卸というのは、酒母を仕込んだ蒸米を、粥状になるまですりつぶす作業のこと。

 

 蕪櫂かぶらかいを携えた男たちが三人一組になって、一個の半切桶に巴状を成して集り、上の唄を高唱しながら調子を合わせ、丹念に撹拌して廻ったという。

 

 

Hakuturu-sake-museum

Wikipediaより、白鶴酒造資料館) 

 


 力が要るのはもちろんのこと、「櫂で潰すな麹で溶かせ」と言われたように、自然の作用を妨げず、あくまでそれを後押しするよう櫂を動かす、繊細さも求められる作業であった。

 

 

白鶴 上撰 [ 日本酒 兵庫県 1800ml ]

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  • メディア: 食品&飲料
 

 

 

 


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