――カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂。
「有名」などという言葉では、慎まし過ぎてとても現実に即さない。
あまりにも人口に膾炙されきったキャッチフレーズ。それを発想した男、東京文明堂創業者・宮崎甚左衛門。
現在私の知る限りの範囲に於いて、この男より孝心豊かな人物というのは存在しない。
日本どころか全世界を見渡しても、彼が最上ではないかと思う。
なにしろ親の戒名を、常に懐に忍ばせていた人物だ。
順を追って説明しよう。――甚左衛門の財布には、紙片がいちまい、
三つ折りにされたそれを開くと、何よりもまず真っ先に、中心線にぴたりと合った「南無阿弥陀仏」の六文字が網膜に飛び込んで来るだろう。
雄渾なる筆致から、ふと視線を逸らしてみると今度はその両脇に、戒名がそれぞれ一人ぶんづつ配置されていることに気が付く筈だ。
言うまでもなく、それが甚左衛門の両親の、仏としての名であった。
彼はこうすることにより、常に両親の霊を帯同――否、
「父上、母上、どうぞこの芝居を楽しくごらんになってください」
幕が上がるや、心の中でそう呼びかけるのを忘れなかった。
「鉄鋼王」アンドリュー・カーネギーも母親を大事にしたことで有名で、最初の著書の冒頭に、
「私の愛するヒロイン、母に捧げる」
こんな献辞を挟んだり、更に転じて肖像画には、
「ああ神聖なる母親、我が生命の源、我が教師、我が守護女神!」
感激も露わに書き添えたらしいが、そのカーネギーを以ってさえ、宮崎甚左衛門には一歩譲らざるを得ぬであろう。
なにせこの人、月の命日の墓参りを、数十年間、ただの一度も欠かしていない。
それこそ台風に見舞われようが、B29の編隊に街を焼け野原にされようが必ず、である。
墓参りを一足飛びにとび越して、彼自身が黄泉の人になってしまいそうな勢いだが、どういうわけか甚左衛門には強烈な
関東大震災で焼け出され、どうにかこうにか立て直したと思ったら、今度は戦争という未曾有の災禍に巻き込まれ、またもや無一物に逆戻りしたにも拘らず、五体ばかりはふしぎと大した傷もなく、ついに昭和四十九年まで永らえて、八十四歳の長寿を保ったのである。
孝行の功徳と言われれば、つい信じてしまいそうな実績だ。
とまれかくまれ、十八日と三十日である。
毎月この両日になると、甚左衛門は遺伝子にそう刻まれているかの如き忠実さを発揮して、父母の墓前へ馳せ向かう。
おまけに慰霊の作法というのも通り一辺倒なおざなり式のものでなく、差し当たり一時間ほど費やして、墓石とその周辺を綺麗に掃除するという念の入りようなのだから、もはやどう反応すればいいのか感情を持て余しそうになる。それから漸く、香華を手向け、瞑目してお経を上げる
常識外れの手厚さとしかいいようがない。
が、甚左衛門に言わせれば、これは世間の方が間違っている。
本来墓参りとはこうあるべきで、自分の仕様にいちいち瞠目しているようでは、まだまだ本質がつかめていないと窘めるのだ。
先祖は自分の元木である。墓石に水をかけるのは、元木が枯れぬよう、その生命がいつまでも生き生きと、子々孫々に伝わるようにとの願いである。それなのに、一年に一回か二回しか水をあげぬのでは、元木は枯れしおれてしまうではないか。
それに、墓参りをするのは、先祖に自分の身体を見せにゆくのである。――おかげでこんなに成長しました、このように無事息災に暮しています――と、自分の姿を見せて、地下の霊に喜んでもらうためである。
だから、困難なときにこそ、ますます墓参を欠かしてはならない。戦争の末期、ロクロク食うものもなくなり、B29の編隊が日夜爆弾や焼夷弾の雨を降らしたあのようなときこそ、ほんとうに私はお墓参りの意義を深く感じた。(昭和三十五年発行『商道五十年』46頁)
一見もっともらしく道徳的に聞こえるが、奥に隠し切れない狂気がある。
してみると宮崎甚左衛門とは、ある時期の日本人が理想とした人格を、まさにそのまま己の内に誕生させた傑士だったのではあるまいか。
文明堂のカステラが、ますます美味くなりそうだ。
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