穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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酒、酒、酒、酒 ―このかけがえなき嗜好品―


 ドイツがまだワイマール共和国と呼ばれていたころの話だ。


 第十二代首相ブリューニングの名の下に、ビール税の大幅引き上げが決定されるや、たちどころに国内は、千の鼎がいっぺんに沸騰したかの如き大騒擾に包まれた。

 

 

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 もともと不満が鬱積している。


 政治家としてのブリューニングは典型的な緊縮財政の信徒であって、世界恐慌の狂瀾怒濤をひとえに政府支出の削減と増税によって凌ごうとした。


 彼の手によって引き上げられた関税たるや小麦・大麦・燕麦澱粉・鶏卵・牛乳に、シャンパン・葡萄酒・コンデンスミルク等々と、農産物に限っても列挙するのが面倒になるほどである。


 冷凍肉五万トンの無税輸入制度も廃止され、鮮肉の関税も五割増しの憂き目に遭った。


 これだけでも食料品の値上がりが予測されて憂鬱なのに、更に営業税・百貨店税の増税までもが降り落ちてきたから堪らない。食卓のみならず、日用品という日用品が一斉に騰貴するとあってはやり切れたものではないだろう。人々がブリューニングを「飢餓宰相」と罵ったのもむべなるかな。このあたり、我が国に於ける浜口雄幸にどこか似ている。

 

 

Bundesarchiv Bild 183-1989-0630-504, Heinrich Brüning

 (Wikipediaより、ブリューニング)

 


 圧縮熱は十分以上に高まっていたといっていい。


 それがビールという、格好の火種を得てついに一大爆発を起こしたカタチだ。特にバイエルン州の怒気ときたら物凄く、到底当たるべからざる勢いで、牧師までもが


「ビール税の引き上げは、人道に対する重大なる罪である」


 と絶叫してますます煽り立てるのだから堪らない。


 人々はほとんど発狂の態で市街を行進、すわ革命かと他国の記者を戦慄させたほどである。


 結局、ブリューニングは八割五分の原案を、五割へと修正するを余儀なくされた。

 

 

Muenchen vom Maximilianeum

 (Wikipediaより、1900年頃のバイエルン州ミュンヘン

 


 人というのは、まったく酒を愛好するいきものだ。


 どんな未開部族でも踊りと酒の作り方だけは心得ている。


 シベリアに抑留された日本兵にも、

 


 黒パンを小さくちぎって水の入った水筒の中に入れる。配給のわずかな砂糖も入れておく。毎日黒パンの三分の一ぐらいずつを一週間ぐらい入れ続け、しっかり栓をして数日間放っておくと中のパンはやがて発酵し始め、水が酒に変わっていく。原始的な製造である。作業から帰って、枕元にある酒の入った水筒を何度も撫で回す姿は荘厳でもあった。(『シベリア抑留体験記』268頁)

 


 このような涙ぐましい努力があった。


 以下はそのありがたき酒を醸す際、職人たちが口ずさんだ唄の歌詞。昭和十一年から十二年にかけて、料理研究家林春隆が灘の白鶴醸造に取材を願い、特に許され職人たちと起居を共にし、採録したものである。

 

 

秋洗ひ唄


うたふてお呉りゃれどなたも揃て、逢ふも出會ふも今ばかり。
逢ふて別れて松原行けば、松の露やら涙やら。
松の露なら頭から濡れる、涙なりゃこそ袖濡らす。
涙ながせば痴話ぢゃといふてや、痴話で涙がこぼされよか。
涙流して筆取りあげて、書くは暇の去り状書く。
いとまもらへば他人ぢゃけれど、人が悪る言や腹が立つ。
腹が立つ時やモンツ茶碗で酒を、飲んで暫く寝るがよい。
まだも立つ時やこの児を抱きゃれ、仲のよい時出来た子ぢゃ。

 

 

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(秋洗いの様子)

 


 全体的に七・七・七・五の都々逸調で成っている。


「秋洗ひ」とは、秋の刈り入れを終えた後、酒造りに取りかかる一番最初の工程で、諸道具一切を取り出しての洗浄・修繕工程を指す。


 入念に作業の行われること、いっそ偏執的なばかりであって、特に桶に対してその傾向が顕著であった。以下、その工程を抜粋すると、

 


…囲桶はその容量石数二割以上の熱湯を入れて蓋をして置く、これを「熱湯内籠」といひ、五六時間を経て後、湯の温度が五十度を降らないうちに湯を抜き去って、直ちに縦「シゴキ」を行ふ。例の先の揃った「サゝラ」を用ひ、充分に力を入れて、巧者なものは一種微妙な音をたてゝ洗ふのである。次に熱湯五六斗を用ひて湯当を行ひ、其後十日間位は毎日湯洗ひ及び釜当をした後、更に一日一回五六日間水洗ひを行ひ、洗ひ終りには三四斗の水で水当を行ふのである。それから桶を北面にして日光の直射を避けつゝ乾燥させて枯し湯に入れ、立てゝ蓋をして目張を施して置くのである。(昭和十七年発行、林春隆著『日本の酒』7~8頁)

 


 恰も日本刀の「折り返し」を連想させる反復作業。偏執的と書きたくなる、私の気持も分かるだろう。

 

 

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(ササラによる縦シゴキの真っ最中)

 

 

山卸唄
 

目出度めでたの若松さまよ、枝がさかえて葉も繁る。
枝が栄えてお庭がくらいよ、暗きゃ下しゃれ一の枝。
一の枝打ちゃ二の枝が招くよ、もちとこちよれ三の枝。
酒はよいもの気を勇まして、飲めばお顔の色を出す。
酒は飲まんせ一合や二合は、三合までなら買うて飲まそ。
酒と言ふ字はシ篇さんずいに、つくり清めの酉と書く。
酒は白鶴肴は小鯛、ことにお酌はしのび妻。

 


 山卸というのは、酒母を仕込んだ蒸米を、粥状になるまですりつぶす作業のこと。

 

 蕪櫂かぶらかいを携えた男たちが三人一組になって、一個の半切桶に巴状を成して集り、上の唄を高唱しながら調子を合わせ、丹念に撹拌して廻ったという。

 

 

Hakuturu-sake-museum

Wikipediaより、白鶴酒造資料館) 

 


 力が要るのはもちろんのこと、「櫂で潰すな麹で溶かせ」と言われたように、自然の作用を妨げず、あくまでそれを後押しするよう櫂を動かす、繊細さも求められる作業であった。

 

 

白鶴 上撰 [ 日本酒 兵庫県 1800ml ]

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  • メディア: 食品&飲料
 

 

 

 


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