穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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鎖と笞の土地 ―シベリア鉄道建設哀史―

 

 シベリア鉄道着工当初。――


 ユーラシア大陸を東西にぶちぬくと言っても過言ではない、この人類史的大事業を遂げるにあたってロシア政府は、囚人の使用を最低限にとどめるべく努力した。それよりも、なるたけヨーロッパロシアひしめいている労働者を動員して仕遂げたいと念願していた。


 ところが、どんなに緻密な計画も実行に移した瞬間から崩れ出すという格言通りに。


 この目論見は、のっけからして躓いた。

 

 

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 どうも当節、欧露に在った労働者組合の多くには、革命志向の赤色分子がかなりの率で紛れ込んでいたらしく、しきりに周囲を煽動し、ストを起こして国家の疲弊に余念がない。


 この鉄道が祖国にとって如何に重大な意味を持つかを説いたところで、現体制をぶっ潰したくて足ずりしている連中のこと、だから・・・こそ・・となおさら妨害工作に精を出すから始末に負えない。


 こんな連中を頼みにしては、それこそ百年かけても大陸を繋ぐことなど出来ないだろう。


 政府は方針転換を余儀なくされた。もはや一般労働者は念頭に置かず、全然別の社会から必要とされる人的資源を確保せんと試みた。


 すなわち、軍人、囚人、そして支那人苦力である。

 

 

Russian prisoners at work at the Amur Railway

 (Wikipediaより、アムール鉄道工事に従事する囚人たち)

 


 かつて間宮林蔵が探検した樺太からも、多くの囚人とそれから獄吏が、ウスリー線敷設のため間宮海峡の向こう側へ呼び寄せられたものだった。


 彼らの待遇について、ソヴィエト文化研究の第一人者、尾瀬敬止は次のように書いている。この人物はシベリア出兵当時、調査員として日本政府から派遣され、オムスク政府の最高執政、アレクサンドル・コルチャークとも直に面談した経歴を持つ、斯かる道の権威であった。

 


 いよいよ線路工事が始まって見ると、特に割りの悪い仕事に方へ廻されてゐるのは、やはり囚人工夫たちであった。彼等は、石の多い山地や、悪臭を放つ沼沢地や、密林の中へ追っ立てられた。また、見上げるやうに大きな岩を取りのけろと、いかめしく命令されたばかりではない。さらに、寒い冬でも、遠いインペラトール湾の沿岸まで、線路用枕木を探しに行かねばならなかった。(昭和十九年『シベリアの自然と文化』54頁)

 


 どうもこれを見る限り、死ぬことを前提に使われていた観すらある。


 事実として、彼らはバタバタと凍土の上に屍を晒した。密雲よりも濃厚に絶望が四囲を取り巻く生き地獄。このような窮境に置かれた場合、人間が次に起こす行動など決まり切っているだろう。


 案の定、囚人たちは蜂起した。


「反抗――然らずんば死を」


 の合言葉を熱唱し、ウラジオ目指して暴動を起こした。

 

 

View of Vladivostok from Space

 (Wikipediaより、ウラジオストク衛星写真

 


 こう書くと、なにやらCall of Duty: Black Opsを彷彿とさせる情景である。ヴォルクタ強制収容所からの脱出を目論み盟友ヴィクトル・レズノフと、獄吏どもを血祭りにあげるあの局面。没入感と爽快感に満ち満ちた、たまらぬ展開の連続だった。


 が、現実はゲームのように甘くない。


 いくら熱意が盛んだろうと、メインウエポンがツルハシではいかんせん。そう時をかけず、暴動は鎮圧される運びとなった。


 結局のところ彼らの意気は、大量の血と肉片をぶちまけただけのことで終わった。


 凍りついた大地の上ではなかなかこれが滲み込まず、乾いたものが風に吹かれて静かに散っていったという。

 


 かかる大悲劇の中で、真に数万の囚人たちが血と涙を絞って完成したものが――実に、このウスリー鉄道なのである。
 断はるまでもなく、シベリア横断鉄道は、単にウスリー線のみによって代表されるものでは決してない。しかるに、前述したごとく、その一支線であるに過ぎないウスリー線の線路工事が、かかる大悲劇をさへ生んだとすれば、他は推して知るべしであらう。約言すると、同横断鉄道の建設は、この画期的な事業にたづさはる者以外には絶対に想像を許されないほどに、多くの犠牲が払はれたことを知るべきである。(54~55頁)

 

 

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 シベリアという語感には、いつの時代も拭いきれない悲劇の色が付き纏う。


 その昔、とある政治犯がこの地を指して「鎖とむちの土地」と呼んだそうだが、日本人とてこの形容から無関係ではいられまい。戦後不当にも抑留された人々の悲劇は、断じて忘れていいものではないのだから。

 

 

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近江商人とユダヤ人

 

 どことなく、近江商人に似ているように思われた。


 遡ること一世紀半前、夢を抱いてアメリカに渡ったユダヤたちの姿が、である。

 

 

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 新大陸にたどり着いたこの人々がいの一番にやることは、およそ相場が決まっていた。
 先着の同民族からわずかばかりの資本を借りて、ストリート・カートと古着を仕入れて来るのである。


 ここで言うストリート・カートとは、秋葉原をぶらついていると時たま出くわす、マリオのコスプレをした外国人が喜色満面で乗り回している、F1カーのミニチュアみたような例の四輪車のことでない。人力で容易に曳き動かせるよう、把手と車輪が取り付けられた、ワゴン店の亜種とでも考えて欲しい。


 これならば家賃を払わずとても商売ができる。さしたる資本もとでも持たず、ただ情熱のみをよすが・・・として海を渡ったユダヤ人には、格好の形態というわけだ。そういうわけで、当時のブルックリンからマンハッタンの一帯には何百というストリート・カートが居並んで、古着を筆頭に様々な小物を格安で売っていたとのことである。


 後にクーン・ローブ商会を率いるジェイコブ・シフも、若い時分はこれをやった。

 

 

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Wikipediaより、ジェイコブ・シフ)

 


 1847年にドイツのフランクフルトに生まれ、19歳でアメリカへと渡ったシフは、実に一介の露天商からの叩き上げに他ならなかった。ダルマさんこと高橋是清と握手して、日露戦争の戦費の大半を引き受けてくれたあの・・ユダヤと書いた方が、あるいは理解が早いだろうか。


 一方、近江商人の生態である。


 これについては私が喋々するよりも、滋賀県草津村の出身で、医学博士にして文筆家、高田義一郎の口吻をそのまま引いた方がいい。

 


 年頃になれば、天秤棒一つと草鞋銭位を持たして、何処でも勝手に行けと云って親の家から逐ひ出してしまふ。それが何とかして自分の力で一人前の店の主人となれば、改めて分家の待遇もすれば、親の跡も相続させるが、独立する事が出来なければ逐ひ出された日限り、永久無限の勘当で、誰一人親類のつき合ひもしてくれない。此の背水の陣を構へた商法が功を奏して、近くは京阪地方から遠くは北海道の果までも、近江屋の屋号の古風な店はかなり沢山ある筈で、結局「近江泥棒」といふ悪口までも叩かれて居るのは、此の反證として考へることが出来る。(『らく我記』472頁)

 

 

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滋賀県甲賀市

 


 ジェイコブ・シフも卑しからぬ家系のすえで、銀行員の父を持ち、どう見ても貧しさとは無縁な環境に置かれていたにも拘らず、いざアメリカに渡ったとき、その懐は無一文に等しい状態だったそうである。


 どうだろう、「天秤棒一つと草鞋銭」だけを手に叩き出される近江商人の伝統と、どこか重なって見えないだろうか。まるで交渉のない別大陸の民族がある種の相似的習性を描き出す。その数奇さに、なにか湧き立つものがある。

 


 なお、折角なので触れておくと、第一次世界大戦勃発当時、ジェイコブ・シフは高橋是清を通じて日本政府に警告した。

 


 決してドイツに宣戦布告しないよう、旧恩を持ち出してまでなりふり構わず警告した。


 クーン・ローブ商会は、創設者のソロモン・ローブからしてドイツ系ユダヤ人の出身であり、必然としてドイツ側との紐帯がすこぶる強い。かつて展開した鉄道敷設事業をみても、その資本の大部分はドイツ方面から引っ張って来られたものだった。


 斯様な背景を負うシフが、日本の連合側での参戦を喜ぶ道理もないであろう。ところが秋の日本政府――第二次大隈内閣は一連の呼びかけを黙殺し、日英同盟を梃子として、シフの望まぬ宣戦布告を行った。


 果たしてシフは激怒した。彼は日本の忘恩を責め、日本人会を去り、日本の勲章を放棄した。

 

 

Star of the order of the rising sun

Wikipediaより、勲一等旭日大綬章

 


 欧州大戦こそは、実にモルガンとクーン・ローブの運命の岐路とされている。それまで商売敵として鎬を削り続けてきた両者中、前者は浮かび、後者は沈んだ。ドイツ色の濃いクーン・ローブよりも、アングロサクソンのモルガンこそを連合国は信用し、金融及び物資の供給源として盛んに用いたからだと一説に云う。


 やや簡略に過ぎる構図だが、それなりの説得力はあるだろう。現実として、クーン・ローブ商会は後にリーマン・ブラザーズに合併され、名を失い、そのリーマン・ブラザーズとても近年経営破綻を迎えたに対し、モルガンは今なお金融業界の宙天に羽翼を伸ばし続けているのだから。

 

 

 

 

 


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続・銀座久兵衛と鮎川義介 ―米内光政、空襲下でも寿司を喰う―

 

 

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 この写真が撮られたのは、昭和十九年十月十五日、鮎川義介の屋敷に於いて。


 絶対防衛圏と定めたマリアナ諸島が、しかしながらアメリカ軍の猛攻に次々破られ、日本の敗色、もはや覆うべくもなくなった、戦争末期の一コマである。

 


 僕は当時内閣の顧問をしていたから、政府の高官連中の苦悩の程は察するに余りあった。そこで、一夕連中を当時紀尾井町の拙宅(現在玉川に移築保存)に招いて、日ごろの労をねぎらう意味でご馳走したことがある。(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』176頁)

 


 その「ご馳走」の席に招かれた面々というわけだ。


 左端から順々に名を挙げてゆくと、

 

 

 の計十三名。

 
 錚々たる顔ぶれといっていい。


 現役の内閣総理大臣外務大臣海相宮内大臣と、日本を動かす男ども、その大半がずらりと並ぶ。

 

 

Koiso cabinet photo op

 (Wikipediaより、小磯内閣)

 


 この「豪華メンバー」をもてなすべく腕をふるうは、もちろん初代銀座久兵衛今田寿治その人である。


 彼の力量を遺憾なく発揮させるため、鮎川も骨折りを厭わなかった。日水社員を総動員し、北は函館東は勿来、西は松江に南は別府に至るまで、算盤勘定を度外視して良質なタネを掻き集めさせたものという。

 


 そんな苦労が効を奏して一同大いに飲みかつ食った。
 顔触れから見ると、毎日毎日敗け戦さの対策に力尽きて青いき吐いきの姿だったが、この時ばかりは喰道楽に終始して、敗戦の苦悩から解放された一駒であったのを忘れる事ができない。(178頁)

 

 

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鮎川義介作、ひらめ)

 


 十月十五日以外にも、戦時中の鮎川邸には政財界の要人が集い、様々な悲喜劇を演じていった。


「爆弾の降りそそぐ空襲下でも、米内光政が平然と寿司を喰っていた」というかの有名なエピソードも、どうやらこの屋根の下で生まれたらしい。


 鮎川自身、その瞬間に居合わせた。

 


 宴たけなわになって主客陶然としていた折柄突然空襲警報が鳴った。一同箸を投げ先を争って防空壕に飛び込んだ。然るに海相の米内光政が独り頑張り「どうせ何時かは死ぬんだ。うまいものは今の内だからノオ」といって且つ飲み且つ喰い、尽くるところを知らない。
 久兵衛、引込みがつかず、差しでお相手をしておると「お前は見所があるぞ」と讃められたには恐れ入ったという。(181~182頁)

 


 普通人なら恐怖で舌が綿に化したようになり、味の判別など到底不可能に追い込まれように、落ち着き払ったこの気色、尋常一様の神経ではない。


 客の手前とは言い条、逃げ出さない久兵衛もまた久兵衛だ。きっと彼のこういうところが、「生粋の江戸っ子」と誤認された基であろう。


 もっとも流石にこの時ばかりはよほど精神をすり減らしたものと見え、


「ただもう夢中で、何を握ったかも覚えていません」


 と、鮎川相手に述懐している。

 

 

Mitsumasa yonai

Wikipediaより、米内光政) 

 


 ついでながら触れておくと、冒頭に掲げた面子のうち、戦後戦犯容疑を受けたのは、

 


 の計八人と、実に半数を超えている。


 巣鴨プリズンで合うたびごとに寿司の味を懐かしがったという噺にも、おのずから信憑性が増してくるというものだ。

 

 

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銀座久兵衛と鮎川義介

 

 戦時中、鮎川義介が面倒を見ていた呑ん兵衛は、実のところ伊藤文吉のみでない。


 今田寿治ひさじという寿司職人も、銘酒「白鹿」の恩恵にあずかっていた一人であった。


 そう、日本きっての高級寿司店「銀座久兵衛の創業者たる彼である。

 


 久兵衛は酒が好きで、コップ酒を側に置いて隙を見てはコイツを後向きでグイとやる、飲む程に酔う程に益々調子が乗って来る。時節柄客には最高二合の割当しかできなかったが、彼には制限しなかったので偶には越境したりした。だが佳境に入るほど腕は冴え、弁舌もさわやかに彼一流の迫真の諷刺を繰り出して客を驚かす。これは、彼を無言の座長にして、僕が知り合いの政財界のトップレベルに、盛んにフリー・トーキングをやらせたのが、いつの間にか彼を門前の小僧にした次第である。(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』181頁)

 

 

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 今田寿治が秋田県から遥々東京へと上ってきたのは、昭和初年の出来事という。


 以来、寿司一筋に生きてきた。


 木挽町「美寿司」という店で十年修業し、その後独立。独立までこれだけの日時を要したのは日本の職人社会にありがちな非効率性ゆえでなく、主に寿治が酒好きで、


「宵越しの銭は持たねえ主義だ」


 そう吹いて、いなせに肩で風を切り、毎晩のように呑み歩いていたことに因る。


 江戸気質かたぎの見本といって差し支えない。


 実際問題、寿治をして「玉川の水で産湯を使った」クチであると信じ込んでいた手合いというのは数多く、この点鮎川義介に於いても、

 


 その挙措とか手際とか、客のあしらい方などをみていると、久兵衛こと今田寿治は、生ッ粋の江戸ッ子として誰も怪しまない。ところが実は秋田県の産なのである。(179頁)

 


 と、さも意外気に書いている。

 

 

TamagawaJosui byGolfCource

 (Wikipediaより、玉川上水

 


 今田寿治と鮎川義介


 初代銀座久兵衛日産コンツェルンの創業者。


 この両雄の初邂逅は、久兵衛が独立してまだ間もない、昭和十二年のことだったという。


 当時、麹町三番町に居を構えていた鮎川義介。その邸宅にて園遊会を主催した際、招いた客に西園寺公一――「最後の元老」西園寺公望の孫に相当――が居たのだが、この西園寺が、久兵衛パトロンに他ならなかった。


 名を売らせてやろうとの親切心ゆえだろう。特に薦めて、園遊会久兵衛を呼ばせた西園寺。果たして彼の目論見通り、鮎川はこの寿司職人にいたく惚れ込むことになる。


 やがてゾルゲ事件が勃発し、少なからぬ情報をソ連に流していたことがバレてしまった西園寺。禁固一年六ヶ月、執行猶予二年の判決を下された挙句、爵位継承権すら剥奪された彼にはもはや、久兵衛パトロンたるの余力などない。


 今田寿治は宙に放り出されたような格好になった。

 

 

Bundesarchiv Bild 183-1985-1003-020, Richard Sorge

 (Wikipediaより、リヒャルト・ゾルゲ

 


 庇護を失ったばかりではない。逮捕される直前、西園寺は海軍の推薦で南方の司令官職が既に半ば内定しており、いざ赴任の暁には寿治を同行させる所存であった。


 ――そのための準備をしておいてくれ。


 こう言われては、嫌と言えようはずもない。


 既に店も他人に譲り、用意は万事整えた。一声かかれば、即座に出立可能な態勢にある。


 にも拘らず、なんということであろう、彼にそうせよ・・・・と依頼した西園寺公一ご自身が、アカのスパイに関与した廉でしょっぴかれてしまうとは――。


 この時ばかりは、さしもの寿治も途方に暮れた。


 が、捨てる神あれば拾う神あり。どん詰まりの窮状を、鮎川義介がぶち破る。

 


 当時彼は兵役に関係はなかったが、マゴマゴしていると徴用になり、あの手を汚すのは勿体ないと思って、北村洋二の主宰していた日産輸送飛行機会社の嘱託名義にして僕の紀尾井町の屋敷に住み込ませることにした。(180頁)

 


 以来、寿治は敗戦までの数年間、この屋敷で政財界人を相手取り、得意の腕前をふるい続けた。


 タネは鮎川が日水系列より引っ張ってこられるから問題ない。困ったのは、むしろシャリの方である。寿治は妥協を許さぬ男で、


「庄内産でなければ、握るわけにはいきませぬ」


 と頑固に主張し、ついにはみずから現地に赴き、米を掻き集めることまでやった。

 

 

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 むろん、闇米以外のなにものでもない。


 帰路の途中で手入れを食らい、ひどい目に遭わされたのも一度や二度でないという。


 しかし彼はへこたれなかった。


 懲りずに庄内米にこだわり続け、満を持して握った寿司は、確かに絶品としかいいようがない出来だった。後に巣鴨プリズンにぶち込まれたA級戦犯のほとんど全部がこの味を堪能済みであり、運動などで顔を合わせるたびごとに、


「あの味を思い出すと、なんともたまらんのう」


 懐かしがってやまなかったとのことだ。

 

 

寄せ書きに
残れる寿司の
香りかな

 


 鮎川自身、このような歌をつくって追憶に耽った形跡がある。

 

 

Sugamo Prison

Wikipediaより、巣鴨プリズン) 

 

 

 鮎川といい寿治といい、なかなか並の人生を送っていない。波乱万丈、名状し難いものがある。


 そうした苦難を人の縁と持ち前の骨太とで乗り切ってゆくところに、この漢たちの魅力はあり、翻っては一代にして己が牙城を築き上げた由縁もまた存するのだろう。

 

 

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アフガニスタンの酒事情 ―イタリア人の挑戦―

 

 アフガニスタン回教徒イスラームの国である。


 ハラールの定めに従って、その国民は豚はもちろん酒も呑めない。


 しかしながら外国人にまでそれを強要してしまうほど、彼らは狭量でなかったようだ。少なくとも、近藤正造滞在時にはそう・・だった。

 


 アフガン人は、回教徒として酒を用ひないが、カーブルにゐる外国人は、一年間の飲み料だけ政府に申請して許可を受け、税関を通じて配給して貰ふことになってゐた。普通、百本を標準としてあるから、大いにやる人にはこれでは足りないので、特別の許可を申請しなければならない。日本人の中にはこの許可を受けなければならぬ程の人はなかったが、少量ならば特に許可を受けなくても、理由があればその都度税関が分けてくれることになってをり、地方ではそんなにやかましくないと聞いた。(『アフガン記』57~58頁)

 

 

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(カーブル)

 


「特別の許可」が必要とされたのは、主にイタリア人であったろう。


 彼らはいちいち税関を通さねばならぬまだるっこしさを忌み嫌い、ついに国内でワイン醸造をおっぱじめ、自給の道を歩み出す。荒涼とした風の吹きすさぶ、単調な砂と岩の世界というイメージの強いアフガンであるが、実はこの国、農業がことのほか盛んであった。


 1200kmに亘って延々と連なり、7000メートル峰すら幾つも抱える、ヒンドゥークシュ山脈――意味は「インド人殺し」――からの雪解け水がそれを支える。


 特に葡萄づくりは伝統的かつ大規模で、夏には常食とするほどであり、味の方もすこぶるよろしい。世界に流通する干しぶどうの大半を、アフガン産が担った時期すらあるという。


 ことほど左様に好条件に恵まれながら、ワイン造りに及ばぬなどと、イタリア人にしてみれば、もはや犯罪的ですらあったろう。彼らはその事業に熱中し、やがて素晴らしい成果を挙げた。賞味する機会を得た近藤曰く、


「新酒はひどく悪酔ひをするが、二年目からは和やかな味が出て来て、舌触りがよく、皆が飲みすごしては苦しんだことがあった」


 とのことだ。

 

 

Mountains of Afghanistan

 (Wikipediaより、ヒンドゥークシュ山脈

 


 アフガニスタンではつい先日もタリバンによるテロルが発生、兵士・民間人あわせて32名が殺害された。


 泉下の近藤正造も、さだめし嘆息していることだろう。この人はアフガニスタンを後にする際、通過した国境検問所に於いて、以下の如き会話を交わした。

 


 若いアフガン人の役人はパス・ポートを見て
「もうアフガニスタンには来ないのですか」
 と尋ねる。
「いやまた必ずやって来る。いろいろお世話になった。若し君に出来ることならば、七月三十一日に国境を越えた日本人がアフガニスタンの発展を心から祈りながら行ったといふことを、カーブルの人たちにお伝へ願いたい。私がアフガニスタンで最後にお世話になる君もどうぞ元気で国家に尽されるように祈る」
 といふと、彼は非常に喜んで私の手を握り、
「国境はまだしまらないからお茶でも喫んで行って下さい」
 といひ、傍の椅子をすすめて歓待してくれたばかりか、兵に命じて車に水を補給し真白になった埃をきれいに払はせてくれた。思ひがけないところでおいしいお茶を御馳走になって渇いた喉をうるほし、暇を告げて車に乗ると、彼も兵たちも車の側に立ち並んで恙なかれといひ、手を振って別れをおしむので、私も思はずほろりとなってしまった。(429~430頁)

 

 

Section of Kabul in October 2011

 (Wikipediaより、2011年のカーブル)

 


 時の砂に埋もれた無数の情景、その一つといっていい。


 この兵士たちの何人が、その後天寿を全うし得たことであろうか。「文明の十字路」は今なお新たな血を求め、戦乱の坩堝であり続けている。

 

 

 

 

  


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アフガニスタンの日本人 ―建築技師、近藤正造―

 

 近藤正造アフガニスタンに旅立ったのは、昭和十一年二月二十六日、降り積もる雪を踏んでであった。


 奇しくもこの日、帝都では、陸軍青年将校が暴発斎藤実高橋是清をはじめとした数多の要人を殺傷し、政府関係機関を占拠する空前の不祥事――二・二六事件が進行している。


「君が再び帰るころ、この日本は、よほど変わっているに違いない」


 見送りのため、東京駅まで同行した井坂富士夫の言である。


「君の前途も荒れるかもしれないが、まあ、しっかり仕事をしてきたまえ」


 そう励ましてくれたという。


 仕事――


 そうだ、近藤正造は仕事のためにアフガンへ征く。


 事の起こりは昨年九月、東京帝国大学工学部教授、内田祥三のもとにアフガニスタンの軍務省から


「建築技師招聘」


 の通信が届けられたことによる。

 

 

Uchida Yoshikazu Portrait

 (Wikipediaより、内田祥三)

 


 明治の黎明、大日本帝国も盛んに用いた「お雇い外国人」と畢竟同じ性質だ。国を近代化させるため、高い報酬で斯道の権威を差し招く。ほんの半世紀前までは「招く」一方であった日本人が「招かれる」側に廻ったことに、内田の胸にも少なからぬ感慨が萌したらしい。


 ――これは是非とも、相応しい人材を見繕わねば。


 共に安田講堂を設計した岸田日出刀とも協議し合い、結果白羽の矢を立てたのが、かつての教え子・近藤正造だったというわけである。近藤には学生の時分から型破りなところがあって、卒業後就職した某建築請負の大会社もあるとき未練気なくやめてしまった。


 が、それ以後にも天の岩戸村の堰堤工事に携わるなど精力的に活動しており、建築自体に対する熱意は、どうやら衰えた気配がない。


 破天荒な情熱家で、かつ身軽。この仕事にはぴったりの逸材と看做してよかろう。本人にかけあってみたところ、やはりと言うか快諾された。かくしてとんとん拍子に話は進み、冒頭の情景へと至るというわけである。

 

 

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 混迷の祖国に背を向けて、上海、香港、昭南、コロンボと、近藤の旅は順調に続く。


 やがてムンバイからインド亜大陸に上陸すると、ここから先は陸路で以って、ついに目的のアフガニスタンへ入国を果たす。遠く、アレキサンダー大王にすら


「進軍は容易だが制圧は難しい」


 と、ある意味に於いての弱音を吐かせ、現に彼の支配を撥ね返してのけた西アジアきっての「難治の国」は、しかし近藤正造を歓迎した。


 彼の仕事はまず手始めに、軍務省の広間の天井を改造することから出発し、新たなる兵営の設置等々、順次広範に及んでいった。


 便利使いされた、と言い換えることも可能だろう。


 だが、能力のある人間にとって、技量を見込まれさんざんに酷使されることほど幸せな境遇もないのかもしれない。言語不通の不便にも屈さず、近藤はシャカリキになって働いた。

 


 私はこの外に、内閣や宮内省の直轄工事をも担当してゐたから、初一年の間に百五十数件の設計を取纏め、若干の工事に手を染めてゐたのであった。私の仕事は次第に多岐に渉るやうになったから、或は地方に旅行し、或は現地を見ないで設計することもあったが、建設面においては、資材や技術者の関係が日本とは多少事情を異にし、工事について各省と軍務省との間を斡旋してくれる人が稀有であったから、役所の車が競ふて迎えに来るといった都合になりがちで、一つの仕事を纏めるのも仲々骨の折れることであった。(昭和十八年刊行『アフガン記』8~9頁)

 

 

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 四囲の情勢の悪化から、近藤のアフガニスタン駐留期間はわずか二年半に過ぎなかったが、それでもかなりの仕事を成し遂げたことが窺える。


 その後の度重なる紛争で彼の親しんだ王政も終わり、無数の建物が瓦礫と化して砂に還った。しかしそれでも隈なく探せば一つや二つ、近藤正造の手になる建築物が、未だ何処かに残されている可能性とて、まんざら無きにしも非ずであろう。


 彼の回顧録的な『アフガン記』を読みながら、私はむしろそれを祈りたい気分になった。

 

 

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英国精神小話四撰

 

 

 贋金造りで逮捕されたその男性は、審理の席で自分が如何にみじめな境遇に置かれていたかを泣くような声でアピールし、以って衆の同情を誘い、情状酌量の余地を一寸でも拡大すべく努力した。


「――このようなわけで、私は家賃の調達すらままならず、人並みの生活を送れませんでした。今回の罪も良心の呵責に苦しみながら、家賃を拵え、一ヶ所に落ち着き、真っ当な人生をはじめたいあまりやむにやまれず犯したもので、それ以外の目的は一切なかったわけですから、この窮状を憐察して、どうか寛大な御処置をば」


 陳述を受け、判事は鷹揚に頷いた。
 口元にはまるで菩薩を思わせる、柔かな微笑が浮いている。


「なるほど、家賃のためにやった仕事か。よろしい、その労苦に対して、満五ヶ年の住宅を提供しよう」

 

 

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 天才にありがちな欠失といってしまえばそれまでであるが。――


 経済学の祖、アダム・スミスはその幼き時分から、脈絡もなく突然放心状態に落ちたり、かと思いきや誰もいない虚空めがけてぶつぶつと、ひっきりなしに独り言を垂れ流すという妙な癖を持っていた。


 ひとたび何かを考え出すと、周囲の状況を全然忘れ、ひたすら自己の内側へと埋没してゆく――度外れた集中力の発露の結果といっていい。


 しかしながらこれあるがため、周囲は奇異の視線を注ぎ、「実務に関しては無能力」の烙印を押されることとて珍しくはなかったという。

 

 

AdamSmith

 (Wikipediaより、アダム・スミス

 


 オックスフォード在学中の彼の逸話に、次のようなものがある。


 友人たちと朝食を楽しんでいたアダム・スミスは、突如脳髄を貫いた天啓的発想に夢中になって、例の如く絶句した。


 瞼は開かれているものの、彼の視界はここではない、どこか異なる超次元の高みまで完全にすっとんでしまっており、自分の手が何をやっているかも気付けない。


 どういうわけか彼の手は、バターの塗られたパンを乱暴に丸めて団子にしており、友人たちが唖然として見守るさなか、今度はそれを茶瓶に詰め込み、上からお湯を注ぎ入れ、その出し汁をコップに移して口に運んだ。


 で、呟いて曰く、


「こんな不味い茶を飲んだのは初めてだ」


 日曜日の朝、庭前を寝間着のまま散歩中、空想に嵌り込むあまり、いつしか15マイル(およそ24km)先の街まで行ってしまったこともある。


 教会の鐘の音を耳にして、初めて我に返ったそうだ。なるほど社会の歯車とするには不適当、規格外の人物としかいいようがない。

 

 

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(オックスフォード大学)

 

 

 

 ジェームズ・ハリントンは激怒した。


 丹精込めて仕上げた政治小説『オセアナ』が政府の検閲に遭い、没収されてしまったからだ。


 護国卿クロムウェルの指導体制を「共和主義の皮を被った君主制とこき下ろし、


「おれが本当の共和主義を見せてやる」


 と息巻いて架空国家「オセアナ」を舞台にその実現模様を描ききった珠玉の傑作。この印刷を差し止めるなど、英国どころか人類にとっての損失であろう。

 

 

James Harrington from NPG

 (Wikipediaより、ジェームズ・ハリントン)

 


 ハリントンは活路を求め、クロムウェルの娘に当たるクレイポール夫人のもとを訪れた。


 客間に通され、夫人を待っているあいだ、三つになる彼女の娘と戯れ過ごす。ハリントンは少女の旺盛なる好奇心を満足させるべく励み、一定の成果を挙げたという。


 ところがこれはなんたることか。やがて夫人が入室するや、ハリントンは自分の膝に座らせていた少女の身をひしと抱き締め、


「貴女の父上は私の愛児を攫っていった。私は今、その復讐にこの可憐なお嬢さんを攫って行こうとしている処だ」


 このように言ってのけたのだからたまらない。


 当時のオリバー・クロムウェルは、誰疑うことなき独裁者。その権力を発動させれば、ハリントン如き一寸刻みに殺すこととて容易だったはずである。


 しかし、彼はそうしなかった。


 どころではない、却ってハリントンの機智を讃え、「愛児」をその手に返してやったというのだから、クロムウェルもやはり英国人たるを失っていなかったということだろう。


『オセアナ』はクロムウェル指導時代の1656年、無事出版され日の目をみている。

 

 

Cooper, Oliver Cromwell

Wikipediaより、クロムウェル) 

 

 

 

 窃盗の常習犯が逮捕された。


 この男、既に前科六犯を背負わされているだけあって、監獄を視ることあたかも別荘の如くして、少しも恐れ入る風がない。


 不遜な態度に業を煮やした判事、厳然として曰く、


「お前は到底改悛の見込みのない奴だ。お前のような危険人物には、法定の最長期の刑罰を科さねばならない」


「最長期ですって? なるほど私は度々お手数をかけました、まったく、私は法の常得意です。しかし、常得意には割引をするのが、世間一般の通り相場ですがねえ」

 

 

 

 

 


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