なにゆえ人は、みずから命を絶ってはならぬのか?
この命題に、過去多くの民族が、
――自殺者の魂は、決して極楽に往けないからだ。
と回答してきた。
彼らに死後の安息なぞは訪れず、殺人犯や強姦魔――恥を知らない人面獣心の罪人どもと同様に、地獄の底で獄吏どもからむごたらしい業罰を受ける破目になるからだ、と。
恫喝であろう。
恐怖心を刺激して特定の行動を抑止するのは一般的で、それだけに効果的な方法だ。
あるいは自殺を呪いの一種と認定し、その亡魂は鬼となり、土地に災いを齎すと信じた手合いも少なくなかった。
アラバマ・インディアンなどもそのクチで、部族の中から自殺者が出るとその理由如何に拘らず、即座に死骸を河川に投げ込む古俗があった。
決して埋葬はしない。
死霊が自身の骸をよすがに、のこのこ地獄から這い出て来ては困るからだ。水の流れで穢れを雪ぎ、後難を避けようとするあたり、どこか神道にも通ずる発想で趣深い。
カンボジアの奥地に住まう先住民族の間でも、また似通った事情から、自殺者の屍は祖先の墓に入れることをよしとせず、ジャングルの奥深くに投げ棄てて、獣が喰うに任せたという。
なにもこうした風習は、世に云う「未開部族」の間でのみ通用してきた迷信ではない。
哲学者にして人類学者、フィンランドはヘルシンキの産、エドワード・ウェスターマークの調査によれば、ヨーロッパでもある時期までは遺憾なく行われてきたものだった。
スコットランドのエディンバラでは1598年まで入水自殺した女性の死体を――ぶくぶくに膨れ、ともすれば遺族の眼を以ってすら面影を発見し難いその物体を――市中引き回しにした上に、絞首台に晒すという酷烈無惨な
自殺を「国家に対する罪悪なり」と規定した、古代ギリシャの思潮を継承するものだろう。罪には報いがなければならない。次なる罪の発生を抑止するため、わかりやすくおそろしい報いが。
そこから北西、北大西洋に面した漁村群では、自殺者の霊が海と田畑に飢饉を呼び込むと信ぜられ、その遺体は何処か山奥、海も田畑も決して見えない展望の悪い場所に埋められたという。
また、やはりスコットランドの一地方では、首をくくるなり手首を切るなり、兎にも角にも家の中にて自殺した者が出た場合、そいつの死体を運び出すのに、ドアの使用を厳禁した区域もあった。
ドアという、
かといって死体をそのまま放置して、腐るに任せるなど論外の沙汰。
では、どうするのかというと――単純明快、壁に穴をぶち開ければよい。
搬出作業後、穴は手早く埋められる。後々になってよしんば死者が彷徨い出ても、こうしておけばその足取りは壁の前で止められて、家の中には入れないと、彼らは信じていたようだ。
祟りを避けるためだけに斯くも七面倒な手順を踏んで、少なからぬ工費を費やす。
人類進歩の軌跡とは一直線では有り得なく、足踏みしたり、右往左往の屈曲に満ち満ちていると、つくづく実感させられる。
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