穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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東照宮の野球狂 ―スポーツに燃える日本人―

 

 その奇妙な日本人に遭遇したのは、権現様の鎮座まします、日光東照宮に於いてであった。


 富士山と並んで外国人観光客の間に膾炙されたこの聖地。米国の著述家、マーティン・ソマーズも御多分に漏れずここを訪れ、朱塗りの神橋や苔むした石燈籠に恍惚となり、夢に描いた幻想郷を心ゆくまで堪能していた。

 


 日光は今や永遠の平和に包まれてゐた。そして私達の心までが、その平和の雰囲気に支配されるやうな気がしてならなかった。それ所か、先程薬師堂の本堂まで一緒に行った、あの信心深い参拝者のやうな気持さへしたのであった。また参拝者の熱望してゐる霊的満足さへも体得することが出来たやうな気がした。(『外人の見た日本の横顔』718頁)

 

 

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(吉田博 「日光」)

 


 斯くの如き夢見心地は、しかし一人の日本人青年の出現によって、急速にやぶられる破目になる。


 頭上には麦藁帽子を頂いて、赤銅色に日焼けした、豊かな筋骨をカラー付きのシャツで隠し、蝶ネクタイまできちんと締めたその上に、何故か着物をいちまい羽織り、足に履くのは洋靴という、キメラめいたその格好。


 あんまりにもないでたち・・・・に声も忘れて見入っていると、その青年は静かに、且つ遠慮深そうな態度で近寄って来て、実に丁寧なお辞儀をすると、


「誠に失礼ですが、あなた方はアメリカからお出でになったのではありませんか」


 語調に少し変なところがある以外には、文法上から見ても非常に正確な英語で話しかけたからたまらない。


 いよいよもってソマーズは、白昼亡霊と出くわしたほど驚いてしまい、しばらく口が利けなくなった。


 やっとのことで如何にも自分はアメリカ人だと答えると、青年はそのあたりがにわかに明るくなったかと錯覚するほど陽気な笑顔を浮かべてみせて、ありがとうと礼を言い、


「しばらく話しませんか」


 と誘いをかけた。


 若干の躊躇が残留してはいたものの、青年の無邪気な喜びについ釣り込まれ、ソマーズはこれに頷いてしまう。アメリカのどちらからお越しでと訊かれ、ニューヨークと答えるや、青年の興奮はいよいよ狂わんばかりの域に達した。


 彼はニューヨーク・ヤンキースの野球選手、ベーブ・ルースの狂信的なファンだったのだ。

 

 

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ベーブ・ルース

 


「いやどうも有難度う御座いました。私は学校の野球の選手なんですよ。だから何時も、有名なホームラン打者ベーブ・ルースの記事を読んでゐます。多分あなたはお会ひになったことがあるでせうね。何かベーブ・ルースの話を聞かせてくれませんか。一体世界のどの選手よりも、五十呎も向ふにボールをカッ飛ばすと云ふのは本当なんですか」(719頁)

 


 愛好分野について語り合える相手を見付けた際の、オタクの饒舌ぶりというのは今も昔も変わらぬらしい。青年の口からは滝のように英単語が発射され続け、それが二時間経っても一向に止む気配がなかったというからなんとも凄まじいではないか。


 その一二〇分中に、マーティン・ソマーズの側にまでなにやら青年の熱狂ぶりが伝染し、ステッキをバットに見立ててベーブ・ルースのスイングを真似るという大盤振舞いまでやってのけたからたまらない。昭和八年の日本旅行で、特に印象深い記憶となった。

 

 

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ベーブ・ルース

 


 昭和初期とはスポーツの分野に於いても日本人が着々と、頭角を現しつつあった時期である。


 馬術に於いては言わずと知れた、バロン西こと西竹一が。
 三段跳では織田幹雄が。
 テニスでは原田武一が。
 ビリヤードでは山田浩二が。


 目も眩むほど優秀な成績をそれぞれ残し、日本人の宿痾たる欧米コンプレックスの解消にも多大な貢献を果たしてくれた。


 しかしながらそのような流れの中にあっても、これだけは未来永劫日本人は外国人に敵うまいと目されていた競技があった。


 フットボールのことである。


 如何に機敏な動きができても体格で大きく劣る以上、こればかりは勝利の見込みが存在しないと欧米人のみならず、当の日本人自身諦めきっている雰囲気があった。


 ところがこの「常識」に果敢に挑み、しかも一定以上の戦果を上げた集団がある。慶応大学ラグビーチームの面々こそが、すなわちそれだ。

 

 

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 これについては同校のOBであり、福澤諭吉の薫陶を受けた政治家にして実業家、波多野承五郎に於いて詳しい。常に水のような冷静さを保ち公平な視点を失わない承五郎が、この時ばかりはつい喜びを抑えかね、一文字一文字を踊るような調子で書き込んでいる。

 


 今春、慶応のラグビー選手が上海の英人選手と戦った時の成績を見ると、一長一短で相応の成績をあげて居る。上海の選手中には、本国名うての選手が四五人も交って居た。そして上海選手の身長は平均五尺八寸、慶応方は五尺四寸に過ぎない、殊に英国選手の一人なるゴールドマンは蹴球の技量に於ては世界的名声のある人で、その蹴るや必ず百発百中であるのだ。斯う言ふ人達を相手にして戦った慶応は、点数では負けたが、トライでは勝って居る。スクラムを組めば一押しに押倒される筈であるのに、慶応方が却って玉を出して居る。それは慶応システムと名づけられる新工夫の組方があるからだ。そして上海の英人チームは本国チームに較べて大に劣って居るのでもないに拘らず、慶応が之程の成績を得たのは頼母しい。(『梟の目』361~362頁)

 


 身体能力で劣る以上、技量に工夫を凝らして勝つ。


 実に人間的な営為のあらわれといっていい。波多野承五郎は続けて運動通の某君の、


「日本のラグビーは二三年の後、必ず世界的の名誉を博する時が来るに違ひない」


 という言葉を引用し、そんな日が一日でも早く来て貰いたいものだと期待に胸を膨らませている。

 

 

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 去んぬる2019年、我が国で開催されたラグビーワールドカップに於いて、日本代表選手団が如何に目覚ましく活躍したかは未だ記憶に新しい。彼らはかつてない躍進を遂げ、見事ベスト8に名を刻んだ。


 泉下の波多野も、さぞや満悦顔であることだろう。

 

 

碧い眼に映った日光 外国人の日光発見

碧い眼に映った日光 外国人の日光発見

  • 作者:井戸 桂子
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 


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世界の愛したゲイシャガール ―新しきもの、旧きもの―


 日本人が自国の上に描く理想と、外国人が期待するあらまほしき日本像とが、常に一致しているとは限らない。


 否、そうでないことの方が圧倒的に多かろう。新渡戸稲造博士が論文中で


 ――芸者は遠からず消えゆく種族。


 と発表すると、そんな、つれない、なんたることかと顔を覆って慨嘆し、どうにか保存策を図れぬものかと苦慮する声が海の向こうでむらがり湧いた。


 やがて博士の予言の通り、東京や横浜といった都市部から芸者の姿が消えはじめると、外国人旅行者たちは彼らが云うところの「生き人形」に接待してもらいたさに、態々悪路を踏んでまで古俗の残る田舎の旅館へ足を延ばして、欲求を満足させたという。


 とかく芸者の評判は、海外に於いて大だった。――日本人の想像を上回って遥かに余りあるほどに。

 

 

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 R・バレットという米国人は『外人の見た日本の横顔』の筆者中もっとも熱心な芸者愛好家に他ならず、彼女たちの魅力を表現するため、多大なインクを費やしている。彼の論はいの一番に、


「一般旅行者のあひだには、日本人の生活における、芸者の身分に関して悲しむべき誤解が介在してゐるやうだ」


 自国民の不勉強に対する糾弾から成る。

 


 彼女たちを想ふと、直ちに娼婦の蠢いてゐる暗の世界を連想するやうであるが、謬れるの甚だしいものである。彼女たちは堂々と、一般社会のうちに生活してゐるのだ。彼女たちの仕事といふのは、ウエイトレス、芸人、ナイト・クラブの女将をつきまぜたやうなものである。(301頁)

 


 芸者の仕事とは「宴席に華を添える」ことであり、賑々しいその雰囲気を終始保たせる点にあり、「芸は売っても体は売らぬ」が少なくとも建前として聳え立っている以上、娼妓とは一線を画して考えるべき職種であった。


 にも拘らず、「芸者遊び」と聞くと即座に淫猥な情景を連想するのは、昨今の日本人士の間にすら見受けられる、悲しむべき誤解である。


 吉原の花魁さながらに、一流の芸者というものは幼女の頃から時間をかけて丹念に丹念に錬成される。あまりに厳しいその躾を目の当たりにしたバレットは、


「いかなるトーダンスの踊り子でも、これほど過酷な修練は積まないだろう」


 と目を剥いて驚愕を露にしたほどだ。


 補足しておくと、トーダンスとはトウシューズを履いて爪先立ちで行われるバレエの一種。

 

 

Pointe shoes

 (Wikipediaより、トウシューズ

 


 しかしながらそんな厳しい訓練も、彼女たちの人間性を滅却しきることはできないと、実際にその接待を受けたバレットは語る。

 


 彼女たちは膝まづき、いと慇懃に頭を畳につける。しかしながら彼女たちはつよい好奇心に駆られて、こっそり客の方を見るのである。彼女たちはとてもいたづらっ子である。否、時には不作法だと思はれるほどである。少なくともニューヨークに住んでゐる尋常な婦人が主人役を勤めてゐるならば、きっと憤慨してしまふだらうと思ふ。自分もなんの因果か左利きなので、しょっちゅう彼女たちから笑はれてゐた。自分が箸を口へもってゆく時には、きまったやうに大きな袂で顔を隠くして、くすくすと笑ふのだ。また自分のもってゐた鍵が、よっぽどお気に召したとみえて盛んにいぢくってゐた。(302頁)

 


 これほど礼を無視した仕打ちを一身に浴びておきながら、しかしまったく腹が立たない自分自身の感情が、バレットは不思議でたまらなかった。


 それどころか子猫の甘噛みを受けた瞬間さながらに、むずかゆいような染み入るような快感がこみ上げてくるのはいったいどういうわけであろう。「東洋の神秘の国」という謳い文句にシンから納得する気になったのは、この瞬間ではなかったか。


 つまびかれる三味線の音はアルコールに浸された脳を心地よく揺らし、座敷を七色の彩雲に変え、いよいよ羽化登仙の法悦へと男を誘う。

 


 一旦芸者たちの手にかかってしまふと、大の男が完全にはめを外して、まるで子供みたいになってしまふから面白い。とにかく彼女たちを観察すると、何等の屈託もないやうな純真さがあるので、一挙一動愛らしく感ぜられる。とにかく芸者といふものが、がっちりした日本の社会にとっては、欠くべからざる部分をなしてゐるのは驚嘆に値すると思ふ。(304頁)

 


 これほど絶賛されたなら、芸者たちとてさぞや本望だったろう。

 

 

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 その一方でミセス・E・C・メイという、やはり米国籍の講演家は、芸者の舞に歓声を上げ拍手している旦那をよそに東京の「モガ」連と親交を結び、以下の話を聴取している。

 


「日本の女性が世界の人間を喜ばせる為に中世紀の着物を着て居なくちゃならないと云ふ事はないでせう。アメリカの婦人だって欧羅巴の方だってそんな事はしないでせう。だから日本の女だけがそんな事をする必要はないと思ひますわ。そりゃ着物は結構です。芸術的で伝統の美を持ってゐますもの。でも帯はちゃんと締めると胸をおして暑い時には不愉快ですしとても値段が高いんです。帯一本でパリの流行服が買へますわ。お嫁入り仕度には一身代傾けます。着物を着るには女中の手を借りなくちゃなりません。足袋(白い木綿の靴下)は真白でないとみっともないので、一日に六度も変へなくちゃなりませんもの、とてもやり切れませんわ」(542頁)

 


「モガ」とは「モダン・ガール」の略であり、平塚らいてう伊藤野枝に代表される「新しい女」の同族であり、思い切って断髪をしてこざっぱりした洋服を身につけ、深窓から飛び出してテニスやバスケ等のスポーツに興じた人々である。


 高田義一郎の『らく我記』によれば、ちょっと信じ難いほどのことだが、男装して吉原繰り込み同性の娼妓を招いてたわむれた者までいたそうな。

 

 

Kagayama mogas

 (Wikipediaより、モダン・ガール)

 


 何につけてもこの時期の日本は、旧きものと新しきものとが、奇妙に錯綜している国だった。


 境界線すらときに朧に、モザイク状に入り組みきったその有り様こそ外国人には謎であり、魅力的な深淵でもあり、旅行者を呼び込む引力を発生させもしていたのだろう。

 

 

自警録 (講談社学術文庫)

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併合後の朝鮮半島 ―ベルギーとアメリカの視点から―

 

 お得意様といっていい。


 日本にとって、ピエール・ダイイという記者は、である。


 ベルギーの仏語系新聞Le Soirル・ソワール所属のこの人物は、ユーラシア大陸を隔てたヨーロッパから極東の海上に浮かぶ我が島国へ、足繁く訪問してくれた。


 神戸、大阪、京都、奈良、名古屋、横浜、そして東京。およそ日本で「大都市」と形容されるべき街には、ことごとく足跡を残している。


 神戸を「アジア的な巨大なリヴィエラ、大阪を「工場、船渠、鉄橋、煙突……東方は幻影の様に消え失せる、之は私が入り込んだマンチェスターである」としているあたり、詩的素養もどうやら豊かだったようだ。

 

 

Kobe havour

 (Wikipediaより、明治時代の神戸湾)

 


 東京では、講演まで行った。


 演題は、コンゴに関することだったという。


 排日移民法で合衆国から締め出しを喰らった都合上、それに代わる新たな人口の捌け口を模索するのが当時の日本の急務であった。この公演も、あるいはそうした需要に応じたものではなかったか。

 


 斯くの如く、日本と親密な繋がりを結んだピエールである。

 


 その爪先が、日本の一部となって久しい朝鮮に向けられるのは必然だった。


 玄界灘いちまいを隔てて横たわるこの半島に上陸し、植民地行政の実際を確かめぬことには彼の日本研究は完成しない。彼は往き、そして、存分に見た。

 

 

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「小国の悲哀」という言葉は、ベルギー人にとってより痛切な意味を持つ。「ヨーロッパの十字路」という渾名は伊達ではないのだ。両二度の世界大戦に於いてこの国は、ドイツがフランスを殴りつけるための「道」として踏まれてゆく運命を見た。


 その背景を持つゆえに、大国に挟まれた小国に対して自分がことさら同情的になることを、ピエールははっきり認めている。「我々特に圧服を知ったベルギー人は自分の自由を失ひ外国の統治の下に生活する国民に対し憐憫の情を表する」と。


 なるほどその言葉に違わず、彼は玉座を失い伝統的名誉を葬られ、「李公」と化した旧王族のために歯ぎしりし、首府の名を併合後に改称された京城ではなく敢えて「ソウル」と書いたりしている。日本・ロシア・中国という三大強国に囲まれたこの弱小国家へ、どれほどの情意を傾けていたか、よく推し量れる心配りであるだろう。


 しかし。


 が、しかし、である。


 それほどまでに朝鮮に同情的だったピエールでさえ、訪問の後、次のことを認めぬわけにはいかなくなった。

 


 独立に値するには一国民が右の自由を擁護し且自身にて進歩せしめ得ることを要する。朝鮮の場合は斯くあらざることが確である。全く公平に見て自身のみにて進むことのできない此国民を再興せしめる為の日本の非常に麗しい努力は認めなければならない。(『外人の見た日本の横顔』45頁)

 


 思えば最終的に「道」として踏まれる破目になったとはいえ、第一次、第二次両大戦ともに、ベルギーは戦った上でそう・・なっている。

 

 

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 1914年8月2日、ドイツから領内の自由通過を要求されるや、


「ベルギーは国だ、道ではない!」


 と一喝し、猛然と立ち上がった国王アルベール一世の雄姿は伝説的なまでである。


 戦えば100パーセント敗北すると承知しながら、それでも噛みつくその様は、かつて三方ヶ原で武田信玄に挑みかかった徳川家康の姿を彷彿として快い。


 きっとそのあたりが、独立に値するか、否かの線引きなのだろう。結果としてさんざんな敗北に終わったものの、ベルギー、家康両者にとってその敗北は、後々計り知れないほどの重みを有する無形の財産と化していった。

 

 

Albert I of Belgium 1910

 (Wikipediaより、アルベール一世)

 


 朝鮮人はいったいに無気力で、己あって国家なく、ピエールの見るところ併合前のソウルとは、「捨てられた広大な村」に過ぎなかった。

 


 李朝の頃から此国は不幸の中に沈淪してゐた、而して其住民は専制にして頽廃的な朝廷自身の利益の為に圧服されてゐた。今此憐れな人々に対する圧服は僅少ではないが、少くとも彼等は其理由を知り又それから大なる利益を受けるのである。彼等は道路、鉄道、学校、病院…を所有することの幸福を味ひ始めた。(46頁)

 


 繰り言になるが、これがベルギー人の口から発せられたという事実はとてつもなく重い。


 ついでながら記しておくと、例のコロンビア大学教授、S・M・リンゼーも後に朝鮮を訪れて、その雑感を記録している。彼の文面は一貫して奔放な陽気さに彩られており、

 


 日韓併合以来二十年間に、朝鮮において日本人の完成したる事業は、到底簡単に述べることは不可能なくらゐであるが、朝鮮人はまだ認めてゐないやうである。またこの大事業は、もう三四十年はかかるであらうが、とにかく日本人の功績は偉大である。わかい、聡明な朝鮮人は、日を逐うて殖えてゆく。しかも朝鮮の将来は、次第次第にこれらの人々の双肩にかかってゆく。かれらは、朝鮮が独立してゐた時代よりも、もっともっと住みよいところとなし、日本帝国の一部として、恥かしからぬものとなすために、協力を惜しまないのである。(178頁)

 


 1910年の併合を、朝鮮人にとっての一大慶事であると看做して欠片も疑う余地がない。


 むしろ独立世代の頑迷不霊を責めるような向きすらある。


 ベルギー人とアメリカ人、両者の意識の対照としてこれは好個の材料となろう。白人と一口に括ってみてもその中には、実に多くの個性があるのだ。

 

 

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 ピエール・ダイイはかつての王居たる昌徳宮「陰鬱な気分で」視察したあと、「心地よい日本列車」に乗り込んで、奉天に向けて去っている。


 ここから更に北京に向かい、騒擾中の支那をとっくりと取材したようだ。ジャーナリストとして、実に勤勉な男であった。

 

 

 

 

 


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日本は「アジアの盟主」たりうるか ―20世紀からの声―


『外人の見た日本の横顔』を読んでいると、ほとんどの書き手が近い将来、日本がアジアの主導的地位を占めることを疑っていない。


 国力、気概、諸々の要素を勘案して、それが一番順当であると無造作に受け入れている雰囲気がある。


 コロンビア大学の法学教授、S・M・リンゼーなどはその展望を最も明け透けに語った一人であって、彼の言葉をそのまま借りると、

 


 なんといっても支那といふ国は、日本の助けを借りなければ、経済的にも政治的にも、安定を計ることはできないであらう。なんといっても、これは大事業である。もちろん支那は、古い国だけに、他の国には見られないやうな、大きな特典を有してゐる。だから、極東における指導者としての日本を認めることは、支那のプライドを傷けるものであるかも知れない。しかし新しい世界の動きを、正確に見てゐる優れた支那の人は、日本の地位を認めざるを得ないであらう。東西両洋の文明を打って一丸となし、しかも両洋の最も優れた、現代生活に適応することによってはじめて日本の位置の確立を見たからである。(170頁)

 


 どれほど気に喰わなくともそれが現実なのだから、理性ある人間である以上、アジアの覇権が支那から日本にとうに移っていることを、いずれ支那人自身も受け容れざるを得なくなろう。
 その新機構を受け容れて、新たな盟主の懇切丁寧な指導を仰ぐことにより、漸く支那も健全な発展を遂げるに違いない――と、至って楽天的に書いている。

 

 が、この観測。


 甘いとしかいいようがない。


 リンゼー教授は明らかに、中華思想の根深さを侮っていた。

 

 

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コロンビア大学

 


 中華が、支那が、漢民族が、日本の二番手に服することなど天地が逆転しても有り得るものか。彼らにとって日本人とは未来永劫「倭」であって、人と獣の中間であり、文明人たる「華」を悩ませる「東夷」以外のなにものでもない。


 日本が支那に優越するなど、それだけでもう華夷秩序への叛逆であり、天人倶に許さざる大悪事であるだろう。日支親善なぞ、所詮は絵に描いた餅であるのだ。


 そこをいくとベルギーの記者、ピエール・ダイイ氏の方がより強固な現実認識の基盤の上に立っていた。


 ――どうも日本は、日本以外のアジアの国から。


 あまり好かれていないのではなかろうか、ということが、実際に彼の地を巡歴したピエールの出した結論だった。


 その理由に関しては、

 


 之は日本が大成功をするので嫉妬から来るのは疑の無い所である。(41頁)

 


 無惨なまでに直截な表現といっていい。


 が、間違いなく真理の一面は穿っていよう。ORCA旅団の副団長、メルツェルが喝破した如く、小人の妬心ほどおそるべきものは世にないのだから。

 

 

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(ベルギー国旗) 

 


 むろん、ピエール記者の分析はただこれのみに終わらない。

 


 特に日本を批難する点は其領土上又は其他の欲望、其野心、印度及支那の国民が嫌忌する西洋との馴合である。亜細亜人は日本人を恰も白色帝国主義其ものの権化の様に考へてゐる。(同上)

 


 こうした感情のささくれ立ちが、如何に抜き差しならない領域にまで至っていたかは、排日移民法の制定を機にこれ以上ないほど浮き彫りになった。


 1924年アメリカに於いてこの法案が制定されるや、大日本帝国は朝野を挙げて総発狂の態を示した。


 人々は悲憤し慷慨し、黄禍論が如何に一方的なこじつけで迫害の悪意に満ちているかを口々にののしり、ついには米国大使館の門前で自殺する輩まで出現するという始末。なお、この自殺をピエール記者は、「最も古い日本式名誉の法則に従ひ、国民的抗議の象徴として」なされた行為と説明している。


 一貫して正確さを失わないこと、彼の見立てはいっそおそろしいばかりである。

 

 

Seppuku

Wikipediaより、切腹

 


 が、しかし、灰神楽の立つような騒ぎを演ずる日本に比べ、他の黄色人種の反応は冷ややかだった。
 それどころかピエール・ダイイは、旅の道すがら遭遇したベトナム人が、


「我々の地方に『白禍』を突然誘い入れた日本人が、いまさら『黄禍』を語り出すのはあまりに大胆じゃあないか」


 そう言って口の端を歪める様を、確かに目撃してしまっている。


 べつに日本人が呼び込まずとも白人は白人自身の意志でアジアに殺到して来ていたし、その貪婪な食欲にまかせて方々の土地を切り取っていた。


 むしろそういう、周辺諸国が軒並み白人の侵略に遭い、植民地化され生血を啜られ半身不随に陥っているような惨状をまざまざと見せつけられたればこそ、ああはなってなるものかと激烈に危機感情を刺激され、攘夷熱という維新回天の大業を遂げるエネルギーが湧きもしたのではないか。


 が、嫉妬に基く「日本憎し」が先にある彼らにとって、そのような因果関係はどうでもいい。

 当たり前に無視された。

 

 

Kenpohapu-chikanobu

 (Wikipediaより、憲法発布略図)

 


 ――斯くの如く。


 悪感情の矢がハリネズミのように全身に突き刺さってしまっている日本が、アジアの指導的地位を占めるなど、いったい有り得る筋であろうか?


 賢明なピエール・ダイイはそのあたりの結論を敢えてぼかして、亜細亜欧羅巴との接触を有せざりし時代に於て一層幸福ではなかったか?」と抽象的な観念論をかつぎ出し、読者を巧みに煙に巻く。


 日本に長逗留しただけあって、察せよ・・・行間を読め・・・・・というこの国古来よりの伝統が、すっかり馴染んだようではないか。

 

 

 

 

 


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ベルギー人の明治維新評 ―昭和二年の日本にて―


 この時代、「デモクラティック」という単語が日本人の口癖のようになっていた。


 護憲運動華やかなりし、大正末から昭和初頭にかけてのあの頃。猫も杓子もデモクラシーを熱唱し、それさえ実現したならば不況の暗雲は一掃されて、給料も上がり、うまいものがたらふく喰えて、病魔という病魔はきれいさっぱり駆逐され、平均寿命は飛躍的に上昇し、女にももて行く先々でちやほやされて、いやもう世の中はバラ色、夢色、順風満帆有頂天――そんなふうに印象されていたあの時代・・・・


 海外へ流出した日本人の多くがそのノリを、向こう側でも利かせまくった。


 知識人と際会する機会に恵まれるたび、


「某氏の如き、あんなにデモクラティックな方で」


 とか、


「この制度……こんなにもデモクラティックである」


 とか妙な世辞を口にして、自分が如何にデモクラシーの敬虔な信徒であるかをアピールし、ときには頬を染めてまで陶酔を露にする有り様が、ベルギーの仏語系新聞Le Soirル・ソワールの特派員、ピエール・ダイイ氏によって克明に記録されてしまっている。

 

 

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 日本という民主主義的には未開な地からやってきたという負い目上、先進国の人々に侮られたくないという心理が働いての背伸びだろうが、悲しいかな、こうした態度は却ってあさましいと受け取られ、嘲笑を買うばかりであった。


 一部の親日家たちは、日本人が憑かれたようにデモクラシーを希求する、その態度自体を高らかに嘆いた。前述のピエール・ダイイ氏に至っては、日本に本来の意味でのデモクラシーが行われたことなどただの一度もなかったことをまず認め、それだからこそこれまでの成功と繁栄は有り得たのだとあざやかな反駁を行っている。

 


 日本は驚くべき速度で封建制から近代制に通過したが、其の近代制度は真のデモクラシーたる事なく国民の希望と帝国の強固な伝統的基礎の維持とを調和せしめるに足るだけの外観を有して居る。
 或る例により我々は独裁政治から一層進歩せる制度に急激に変遷することが如何なる危険を国家に呈するかを知って居る。支那に就て見るも此点に関し明瞭な教訓を見出すのである。(昭和十年刊行『外人の見た日本の横顔』21頁)

 


「独裁政治から一層進歩せる制度に急激に変遷することが如何なる危険を国家に呈するか」は、カダフィ亡き後のリビアや、ムバラク失脚後のエジプトを見ればたちどころに瞭然たろう。

 

 

Vladimir Putin with Muammar Gaddafi-2

 (Wikipediaより、プーチンカダフィ

 


 民主主義を絶対化し、犯すことの許されざる天上の法理か何かのように取り扱いたがる手合いというのはいつの時代にも存在するが、冷静に考えてそんな都合のいい代物がある筈がない。


 所詮、人のつくったものだ。


 人間が、人間の集団をより効果的に取り纏めるための便法に過ぎない。長所もあれば欠点もある。体質によっては、強烈なアレルギー反応を示すこととてあるだろう。


「主義」に必ず付きまとう劇薬性を、ピエール記者は説いている。そして大日本帝国ほど、その毒性をうまく中和し、薬効のみを取り出してのけた国家というのは、少なくともアジアに於いて及ぶ者がないのだとも。

 


 現制度は実際に於て西洋スタイルの中に全面を掩はれた古い東洋思想の上に築かれて居る。帝国の現在の繁栄、アジア的混沌の真中に於ける安定、其発達は斯かる実行方法より賢なるものなきことを示すのである。(同上)

 


 要するにせっかく日本の風土に最適化された流儀があるのに、なにゆえ態々それを棄て、今更西洋の不細工な模倣に走ろうとするのか、理解しがたいと首を振っているわけである。


 日本はデモクラシーの歴史を持たないことを恥ずべきでなく、それどころか「日本が既に真にデモクラティックであったならば、軌条上を全速力で走る機関手の居ない非常に有力な機関車の如く世界に対する危険を醸すであらう」から、むしろ胸を張るべきであると。


 慧眼、隼の如しといっていい。

 

 

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(ベルギー、ブルッヘの旧市街)

 


 このベルギー人ほど明治維新の本質を鋭く見抜ききっていたのは、ひょっとすると日本人でも稀ではないか。特権階級たる武士が、みずから槌を振り上げて、その特権をこなごなに叩き潰すという、これまで世界で行われた如何なる革命とも趣を異にするあの大政変を、彼は次のように評したのである。

 


 外部からの攻撃を防ぐ為或蟲が自分の居る葉又は皮と同様な保護色をとる如く日本は其防禦の為欧州デモクラシーから借りた或存在方法にて飾られてゐる。(中略)日本は自己擁護の為に文明の一形式から他の形式に移らなければならなかった。而して此変化を為すに異変なくして達せられたのであるが、之は確に其の伝統的制度の遺物に近代的の加味をなすことができたが故である。亜細亜に於て此力技に成功したのは只日本のみである。(23~24頁)

 


 これが93年前の文章という事実には、いくら驚愕してもし足りない。

 

 

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 引用元たる『外人の見た日本の横顔』は過去『ツーリスト』――ジャパン・ツーリスト・ビューローの機関誌――に掲載された日本評の採録であって、本自体の出版年こそ昭和十年1935となっているが、各エッセイの間にはけっこうな年の開きがある。「亜細亜の旅」と銘打たれたピエール・ダイイのこの小稿は、昭和二年1927のものだった。

 

 


 ここ暫く、東恩納寛惇という一日本人の目を通して二十世紀の南溟を探る試みが続いた。


 今度は趣向をちょっと入れ替え、同じ時代、当の大日本帝国は外国人からどんな印象を持たれていたか、本書を手掛かりに解き明かしてみたいと考えている。

 

 

「ベルギーの最も美しい村」全踏破の旅

「ベルギーの最も美しい村」全踏破の旅

  • 作者:吉村 和敏
  • 発売日: 2016/05/24
  • メディア: 単行本
 

 

 

 


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排日盛んなりし支那 ―東恩納の見た福建―

 

 温泉の効能を一番最初に教えたのは、猿や鹿などの物言わぬ野生動物であったとされている。


 傷ついた鳥獣が湯気立ち昇るその中に凝然と身を浸すうち、だんだん元気を回復し、ついには元の活発さを取り戻す――一連の経過を目の当たりにして、人間もこれに倣いはじめた。斯くの如き伝承は、それこそ枚挙に暇がない。

 

 

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 そんな土壌へ、仏教が更なる改良を加えた。


 経典には古代インドで通用していた入浴法が事細かに記されている。かてて加えて留学帰りの高僧どもは、高度に整えられた入浴設備が人をしてどれほどの歓楽境に誘い込み、また健康機能を増進させるか、唐土にて身を以って味っている。


 布教・伝道の手段としてその利用を目論むのは、当然すぎるほど当然だった。


 光明皇后の千人施浴などは、その最大例といっていい。なんのことはない、ありようは後年のキリスト教と同様だ。宣教師どもがまず西洋の「進んだ」文物――ワインや地球儀、火薬など――で現地人の度肝を抜き、その衝撃から発生した心理の隙間に神の言葉を流し込んでいったが如く、文明の裏付けあってこそ、布教というのは上手くいく。


 奈良朝から平安朝にかけて、あるいは山間の湯を開き、あるいは海辺の塩風呂をすすめ、その効能書にさりげなく「御仏の加護」を盛り込むことで、仏教は飛躍的にその勢力を伸ばしていった。


 同時に原始神道「禊ぎ」の風習とも和合して、浴場はますます発達してゆく。

 

 

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 前置きがだいぶ長くなったが、こうして培われた「風呂好き」の日本人の性癖を、東恩納寛惇もまた濃厚に受け継ぐ一人であった。


 現に彼は昭和八年の旅の終盤、タイ、ビルマ、インドを経てインドネシアの島々をめぐり、漸くのこと福建省まで帰ってきた際、旅館に着くなり「何はともあれ一風呂」ということで、さっそく湯を求めている。


 宿の名前が「大和館」で、日本人街の只中にあったことから内地式の浴場を期待したとみていいだろう。


 ところが浴場に下りるなり、希望にふくれた東恩納の胸は急速にしぼまざるを得なかった。

 

 

China Fujian

 (Wikipediaより、赤い部分が福建省

 


 湯に、一種の臭気がある。


 東京のどぶ川を思わせる臭いだ。


 それもそのはず、この旅館の水事情はその悉くを閩江に仰いでいるというのである。

 


 閩江には福州特有の水上生活者が無数に群居してゐて、盛に汚物を放流する。その水を汲んで市民は茶飯の用に供してゐるのである。(『泰 ビルマ 印度』316頁)

 


 湯の中に、どれほどの大腸菌がうごめいていたのか。考えるだにおぞましい。


 洗面器の意匠も、大いに東恩納を辟易させた。まず、中央に交叉した銃剣がある。


 その周囲に「倭奴未滅、何以家為、共赴国難、枕戈待暁」だの「抵抗日貨 永矢勿忘」だのとかいった、まことに激しい文句が並ぶ。


 更に外周を取り巻くように、突撃姿勢の兵士たちが描かれているときては何をかいわんやだ。湯から上がるや、たまりかねて主人に苦情を申し立ててみたものの、反応はあまり芳しくない。

 


 毎日是で洗面させるのはひどいと思って主人にかけあって見ると、この外に洗面器はないと云ってゐた。(同上)

 

 

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(閩江)

 


 この昭和八年という時期は、上海事変満州事変といった支那の天地を轟かす大変動が立て続けに起きたばかりの時節であって、反日熱が限界を超えて煮えたぎっていた、まさに激動のときである。


 日本人野郎に思い知らせろという絶叫が、巷に氾濫していたといっていい。


 大和館の壁をよくよく見れば、


「打倒日本」
「打倒帝国主義


 の落書きが。
 バス停を覗けば


「勿忘国恥」
「天理何存倭」


 の墨痕が生々しく翻る。


 当時の支那は何処へ行ってもこんな具合で、「同文同種」などという日本からの呼び掛けが、その実何らの効果も示さない、うそ寒いだけの空虚なまやかしに過ぎなかったことを十分に証拠立てするものだろう。

 

 

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(福州市馬尾区)

 


 大洪水に対する支援の手すらはねのけた中国国民党の一連の態度を東恩納寛惇は、「老獪なる欧米の外交工作に操られて、その鉾先を手近な日本に差向け」てしまった結果であり、この大誤算から早急に醒めよと警告するが、あまりにも甘い見立てと言わねばならない。

 


 中国人が反日精神から脱却するなど、永遠に断じて有り得ない。

 


 市川正憲兵大尉が死と引き換えに悟ったように、日支間にはただ血の対立あるのみである。


 そうとも知らず、あくまでこれと提携する夢を棄てきれなかったことが、大日本帝国の不覚であった。


 この過ちから深甚なる教訓を引き出すことこそ、後世に生きる我々にとっての義務であろう。

 

 

日中戦争は中国の侵略で始まった

日中戦争は中国の侵略で始まった

  • 作者:阿羅健一
  • 発売日: 2016/02/26
  • メディア: 新書
 

 

 

 


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ジャワの名物、首と大砲 ―Ex me ipsa renata sum―

 

 昭和八年をほとんどまるごと費やして南溟の国々を行脚した、一連の旅を東恩納寛惇は、以下の如く総括している。

 


 私の一年に亙る旅行の目的は、日本を中心とする東亜諸民族の過去の足跡を辿る事にあった。然るに、それ等の足跡は、最近二三百年の間に、欧米人の大きな靴の跡に悉く踏みにじられて了って、今ではそのおもかげを偲ぶよすがもないことに痛歎させられたものである。(『泰 ビルマ 印度』403頁)

 


 彼がジャワで目撃した光景は、まさにそうした「白人による蹂躙」の代表たるべきものだったろう。

 

 

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 スマトラとバリ島の間に東西に長く横たわり、現在ではインドネシアの首都が置かれてもいるこの大島。


 ユーラシアプレートにインド・オーストラリアプレートが潜り込むスンダ海溝を南にひかえ、その都合上地震が多発し火山も多いこの地には、他に類を見ない一種異様なシンボルがある。


じゃがたら首」と称される、生首のセメント固めがすなわちそれ・・だ。より正確に述べるなら、石壁を切り出した碑の上に顎から頭頂まで槍によって串刺された人間の頭蓋が飾られている。

 

 

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 この首の本来の持ち主は、ピーター・エルベルフェルトなる男。現地の女とドイツ系の男の間に生を享けた混血で、1722年4月7日、オランダ植民地政府の転覆を企てた廉で断罪された。


 その処刑は酸鼻を窮め、彼と彼の同志19名は生きながらにして地獄の責め苦を背負わされ、死への道程をむごたらしく歩かされたと伝わっている。


 心臓の停止は、彼らにとってむしろ救いですらあったろう。


 にも拘らず、オランダ人達はなおも腹の虫がおさまらなかったものと見え、ついには死体の凌辱というあからさまな禁忌にまで手を出した。
 白人が有色人種をヒトと看做していなかった歴史を、よく象徴した事件であろう。


 ピーターの首が据え付けられた石碑には銅板が嵌め込まれており、態々オランダ語とジャワ語とで同一文が刻まれている。その文章を、東恩納は以下の如く和訳した。

 

 

反逆者ピーター・エルベルフェルトの呪はれた記念の為に、此の土地には人も棲むこと勿れ、樹も育つこと勿れ、永遠に荒れてあれ。

一七二二年四月十四日

 

 

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 ジャワ島にはもう一つ、東恩納の脳裏にあざやかに印象されたものがある。


 バタビアの街の入口に転がっていた、旧い一門の大砲だ。


 由来については、誰も知らない。よほど古くから放置されているものらしく、砲身は半ば地面に埋もれ、砲尾だけが控えめに半分露出している。


 いつからか、現地民がピーター・エルベルフェルトを偲ぶ際には、この大砲に香華を手向けるのがならわしとなった。

 

 

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 物語まで生まれた。古老の語ったところによれば、この大砲は元々雌雄対として存在していたものであったが、あるとき不幸が襲って以来、その絆は引き裂かれ、二門は離れ離れになってしまった。


 あるべきところにあるべきものがない。実にこれこそ、ジャワの不幸の源である。


 しかし心配は要らない、いつか星が正しく巡れば、この大砲にも再びつがいと寄り添える日がやってくる。而して実にその日こそ、永きに亘ったオランダの覊絆が断ち切られ、自由と幸福が齎されるときである――と、要約すればこんなところか。


 鰯の頭もなんとやら、南半球まで場所を移せば妙なモノが信仰対象になるものである。

 


 夢のやうな望みに繋がれて、不思議な古砲の前には、今も香花の絶えた事がない。(401頁)

 


 東恩納の文章からは、若干の痛ましさが伝わってくる。

 

 

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 砲尾にラテン語「Ex me ipsa renata sum」――「私自身から、私は生まれた」と刻印されたこの大砲は、その後地中から掘り起こされて、ジャカルタ歴史博物館に展示される運びとなった。

 


 2020年現在も、彼はつがいと再会できないままである。

 


 一方、ピーター・エルベルフェルトの首はと言うと、1942年、この地からオランダを追っ払い、新たに進駐して来た大日本帝国の働きによって、一度は地上から姿を消した。


 同年4月28日付で厳粛な撤去式が営まれたと記録にある。東恩納がジャワ島に足を踏み入れてから、わずか9年後の出来事だった。


 が、大日本帝国の敗戦後。この地の再植民地化を目論み、舞い戻ってきたオランダの手でピーターの頭蓋は再び引っ張り出される破目となる。


「交通の妨げとなる」という理由から場所こそ移されはしたものの、「じゃがたら首」は今も槍に貫かれたまま、むなしく宙を睨んでいるのだ。

 

 

インドネシア紀行―親日の炎の中へ

インドネシア紀行―親日の炎の中へ

  • 発売日: 2001/03/01
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