穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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野心の炎に焼け爛れ


 人は米寿を超えてなお、――老いさらばえて皮膚は枯れ、頭に霜を戴くどころか不毛の曠野を晒す破目になってなお、野心に狂えるものなのか?


 むろん、是である。


 是であることが証明された。姓は中本、名は栄作。数えで九十一歳になる、大じじいの手によって――。

 

 

フリーゲーム『妖刀伝』より)

 


 いやむしろ、「脚によって」と書く方がより実相に近いのか。


 北海道は函館市、大町に棲む栄作が、直線距離にて800㎞にも及ばんとする東京・大島警察署に収容保護されたのは、昭和九年も晩秋近く、木枯らしの吹く十一月十日前後のことだった。


 名目は単純、三原山投身自殺志願のかどにて。なんと驚くべきことに、栄作じいさん、北海道から態々万里を踏破し来たる目的は、昨年以降すっかり自殺の名所と化した三原山の火口へと、朽ちかけの身を踊らせて、昇天キメるためだったのだ。


 が、寸でのところで阻まれた。


 ――九十一歳にもなって。


 死に急ぐには遅すぎる、一世紀弱続いた「生」のお仕舞いがぜんたいそれで良いのかと、誰もが呆れることだろう。


 ところが動機に至っては、更に輪をかけてふざけきった代物だ。

 

 

函館市街)

 


 経済的な困窮ではない。


 老いらくの恋に身を焦がし、敗れた挙句の自暴自棄でも、やはりない。


 色、金、どちらも否ともなれば、残る可能性はいったい何だ。人の感情を最極端に導く誘導体として、どんな元素が他に残っているだろう――?


 答えは「名前」名誉欲。夥しい亡魂が既に火口に浮遊して、これから先も引きも切らずに続くであろう、三原山の投身自殺。蓋し陰気なその群れの、最高齢レコード保持者――最長老格として後世に語り継がれたい。


 たったそれだけ。


 誰にも抜けない記録を樹てると表現すればなるほど聞えはよかろうが、煎じ詰めれば益体もない、「突飛なことをやらかして世間をあっと言わせたい」。ただそれだけの子供じみた欲だけで、この老人は己が生命いのちを砕こうと、本気で考え、行動にした。


 悪魔も三舎を避けそうな虚栄心の発現である。

 

 

 


 精神鑑定はなんと正常。


 大島署員の行ったごく簡単な調べだが、受け答えはしっかりとして、急に激昂することもなく、終始一貫理路整然と、如何にも長者でございといった汪洋淡白なる態を、決して崩さなんだとか。


 そいつが逆に恐ろしい。


「老人が自殺する街はそのうち滅びる」とは云うが、この場合はどうなのだろう。


 噴煙は何も語らずに、ただ立ち昇るだけだった。

 

 

 

 

 


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