穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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埋もれし過去

 

 皇居の地面を掘り返したら、意想外のモノが出た。


 大判小判がザックザク――だったらどれほど良かっただろう。だが現実には、それよりずっと生っぽい、命の最後の残骸的な、有り体に言えば人骨が、もうゴロゴロと出現あらわれたから堪らない。

 

 

 


 至尊のまします浄域にあってはならない穢れだが、よくよく思えば無理もない。あそこは元来、武士の、幕府の、徳川の、総本山なのだから。侍という、殺したり殺されたりすることが専売特許な連中が、何百年もの永きに亙り所有してきた物件である。


 そりゃあ埋まっているだろう、死体の十や二十ぽっちは、必然に。


 こういう事件は何度もあった。


 最初は大正十四年、大震災にて崩れたところの二重櫓を修復中に。


 そして二度目は昭和九年、坂下門の内側にガソリンタンクを新設すべく基礎工事をしていた際に、またしても。かわいそうな人夫らがしゃれこうべとコンニチハ、おどろおどろしい対面を遂げてしまったわけだった。

 

 

Tokyo Imperial Palace

Wikipediaより、坂下門)

 


 前者については割と有名な事件であって、怪奇譚めいた脚色とてもされがちだから、ここでは触れない。


 それより後者に焦点を絞る。


 正確な日付は昭和九年九月二十五日であった。


 発掘された人骨は全部で五体、それに土器の破片二つと永楽銭四枚が。いずれも地下十尺か、その前後に眠っていたと云うハナシ。


 そのとき調査に駆り出されたのは、帝室博物館勤務、後藤守一鑑査官。やがて明治大学名誉教授にまで上る、考古学界の雄である。 


 翌日『東日』新聞に掲載された後藤の見解左の如し。

 


白骨は何れも中年の男と推定した、歯や一束の頭の毛などから想像してです、時代は銭によって太田道灌時代のものらしい、砂地の下のじめじめした場所の点から昔の沼地か濠底だらうと思ふ、人骨は頭を揃へてゐない、中にはうつむきのものもあって埋葬のときほうり込んだのではないかと思はれる」

 

 

(皇居内観)

 


 二重櫓のソレに比較くらべて坂下門の人骨がイマイチ影が薄いのは、二度目でみんな慣れたのか、前者の半分以下という数の不利によるものか、もしくはほんの数日前に日本列島を蹂躙し去った室戸台風の衝撃が、あまりに、あまりに強すぎて、国民の興味の大半がそちらに吸われていた故か。


 現代人の生命を三千以上も奪い去り、家屋をはじめ夥しい財産を倒壊せしめた災禍を前に、言っちゃあ悪いが何百年も昔の死体五つぽっちにかかずらってはいられなかったのであろう。

 

 

 

 

 


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