明治の終わりも近いころ。東京高等師範学校附属小学校尋常科にて、とある教師が生徒の知識を試すべく、こんな問いを投げかけた。
曰く、
「地球上で一番大きな魚は何か、諸君は答えられるかね」
たちまち挙手するやつがいる。
指名されるなり黄色い声を張り上げて、自信たっぷりに少年は言った、
「はい先生、クジラです」
と。
「それで宜しい」
教師は鷹揚に頷いた。正解を得て、少年は鼻高々だ。円満な空気が教室に満ちた。
「先生、間違っておられます」
ところがその円満に、横槍がぶすりと入れられる。
同調圧力を跳ね除けて、自己の信じる「正しい知識」を呈しにいった、うら若き一人の勇者によって――。
「クジラは哺乳類であり、魚とは別な種族です」
勇者の名は、石川欣一。
当代屈指の動物学者、「ジラフ」を「キリン」と名付けた男、石川千代松の長男である。
(Wikipediaより、石川千代松)
そういうことは、むろん教師も知っている。反射的に、
(しまった)
と思った。
おそらく千代松直々に、家庭で薫陶を受けたのだろう。クジラが魚類にあらずというのは、きっと正しいに違いない。
(が、迂闊に認め、頷けば)
失うものが多過ぎる。自己の権威は当然として、なにより先に挙手し答えた少年の不名誉たるやどうだろう。赤っ恥もいいところであるまいか。下手に感情が転がれば、
――おのれ余計な差し出口。
と、欣一に対し意趣を抱いて、その挙句、喧嘩口論に発展せぬとも限らない。
(つまりは面倒事になる)
冗談じゃない、ならせて堪るか、
摘み取るため、事態を丸く収めるために、教師は咄嗟に頓智を出した。咄嗟であろう。幼い欣一の眼には、教師が裏で爪繰った算盤珠のすべてが視えず、
「そうだ石川の言う通り、クジラは
一拍置いて語りはじめた教師の言に、黙って首をかしげることしか叶わなかった。
「つまりは同じサカナでも、表す文字が違うのだ。メの下に有と書く方の
屁理屈としか言いようのない、こんな言葉遊びでも、人の師たるの威厳を以って壇上から堂々と、歯切れよく説き聞かせられてしまった場合、真実以上の真実として立派に生徒を納得させるものらしい。
欣一はまんまと煙に巻かれた。
「あの頃は俺も無邪気でね」
巻かれたと自覚した時は、既に欣一、少年ではない。
いっぱしのジャーナリストとして浮世の辛酸、表裏をさんざん味わった、苦労人の面魂になっていた。
「要するに学術的な知識では俺の方が勝っていた。しかしながらそれ以外、世間知の部分の働きで、俺は先生に圧倒された。教師も生徒も、個性が躍如としていたよ、あの頃の学校って場所にはね――」
世間の事情、人情の機微をからりと諷す、毒を含めど嫌味ではない石川欣一の筆鋒は、そのような環境に育まれ、研磨されたものだった。
「迂遠に似たれども風俗を移易するは学校の教に如くものなし、美なるものを長ぜしむれば悪なるもの自ら消ゆべし」。庄内藩士・白井重行が嘗て上申した如く。教育は蓋し国の大事で、教師の役目は頗る重い。
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