最初の世界大戦で、日本は「勝ち組」に身を置いていた。
戦後行われるパイの切り分け作業にも、当然参加する資格を有す。各国の思惑交錯し、智略謀略張り巡らされ、次の大戦への種子がまんべんなく振り撒かれたヴェルサイユ会議が終結したとき。極東の島国の領土には、カロリン、マーシャル、マリアナあたりの島々が、新たに編入されていた。
一般に南洋諸島と通称される領域である。
引き継ぎ作業をなるたけ穏やかに完遂すべく、政府は機敏に手を打った。
日本組合キリスト教会に接触し、宣教師の派遣を要請したのもその一環といっていい。
戦前までの統治国――帝政ドイツの手によってかなり布教が進んでいると、既にわかっていたからだ。
文明から取り残された未開社会を啓蒙すべく、善意と使命に血を熱くした宣教師どもが、結構な数、入り込んでいたらしい。
彼らはまた、単に神の愛を説き、死者の霊を慰めるのみに飽き足らず、原住民の知育促進にも意を割いた。
あくまで日曜学校式の、簡易簡便なカリキュラムだが。
それでも四半世紀と続ければ一定の成果は出るらしく。日本軍が上陸した際に於いては、「土語をもローマ綴りに表はすまでに進み、島民も四十歳以上のものはともかくそれ以下にありては独英の何れかを話す者各島に散在してゐた」ことを、当時現場で折衝の任に従事していた通訳官が述べている。
(ポナペ・カトリック教会堂)
彼の名前は島田昌三。肩書きに詳細を期すならば、南洋群島防備隊民政部通訳官。大正十一年、南洋庁が設立されると今度はそこの嘱託として、幾久しく同領域の統治・発展に腕を揮い続けた男。
まあ、先のことはひとまず措いて。話を大正八年の、過渡期に引き戻させて貰いたい。
このとし、群島内に身を置いていた独墺人の、総引き揚げが行われている。
作業自体は特に目立った騒ぎもなしに、つつがなく終了しはしたが。その結果として群島内の教会もまた、一つ残らず空き家となった。宣教師もまた例外なく独墺人であったため、この結果は順当としかいいようがない。
よってもちろん、空白の補填方法も立案済みだ。上に掲げた日本組合キリスト教会への働きかけが
この接触を、教会は歓迎したという。
(Wikipediaより、組合教会の三元老)
神の恩寵を絶やさぬため、動揺しがちな民心を鎮めるために、さしあたり七人の邦人牧師が選定されて、送り込まれる運びとなった。
実際に彼らが入島したのは大正八年八月というから、現地住民が宗教的空白を感じる隙は、ほとんど無かったに違いない。
なかなかどうして、
当時の日本政府には人物が揃っていたようだ。その証拠には、現地人への教育事業を、ドイツ人が嘗てしたより何十倍の規模のもと、実行しだしたことである。
現今ではサイパン、パラオ、トラック、ヤップ及びポナペに内地小学校に相当する尋常小学校を、かつサイパンとパラオとには修業年限二年の高等小学校を併置し、島民児童のための公学校は群島内主要島嶼に多きは数校を設け、その総数二十一校に達し(外に私立一校あり)、その科目等も修身、国語、算術、地理、理科、図画、体操、手工、農事及び、女子には特に家事をも設けてある。またパラオ島内コロール公学校には、島民に家屋建築の技術をも授ける目的で、大正十五年以降木工徒弟養成所を併置してゐる。(中略)生徒数現在は大体ながら各尋常並に高等小学校にて一千百余人、公学校にて二千五百余人を有し、公学校卒業生は初期以来六千人に近く、補習科のみにても一千六百人を超えてゐる。(昭和六年『日本地理風俗体系 関東総論』338~339頁)
嘱託としてかなり自由に南洋庁の書類を閲覧できる、島田昌三の報告である。
まず、信用して構うまい。
(南洋庁前大通り)
ところがまだ終わらない。本土が南洋に示した厚意は、まだまだこんな域でないのだ。
再び島田昌三に、そのあたりを窺おう。
大正十三年一月二十六日、天皇陛下御成婚の佳辰に当り畏くも内閣総理大臣に賜りたる御沙汰の趣旨を奉戴し、同年二月二十九日児童の教育学芸を奨励する目的で恩賜財団奨励会を設置し、南洋庁長官を会長とし恩賜金二千円をその基金とし、その利子及び年々南洋庁より受くる補助金を以て優良児童の表彰、児童文庫の設置、留学生の(内地へ)学資給与、公学校卒業生に配付すべき奨学雑誌の刊行等に力を注ぎ、目下基本金額一万五百円に達してゐる。(中略)
この外特筆すべきものに、昭和二年二月七日大正天皇御大喪の儀を行はせらるゝ当時慈恵救済の資に充てしめらるゝ聖旨にて、御下賜相成りたる御内帑金一千円を基金として、その年五月二十七日に設置された恩賜財団慈恵会なるものがある。(339頁)
この「恩賜財団慈恵会」の活動内容をまとめると、
一、窮民の保護、支援。
二、罹災者の救護。
三、出所者の社会復帰支援。
四、行旅病者の保護。
大別してこの四つ。
(パラオの舞踏)
「誠意とは言葉でなく金額」。
某野球選手の名言である。
その論法に則るならば、当時の南洋一帯は、日本の「誠意」で溢れかえらんばかりであった。
いや本当に、度重なる恐慌で日本経済も少なからず疲弊しているはずだのに、よくまあこれだけの費用を捻出できたものである。
我々の先人は統治者として、なんと真面目な方々だったか。
まことに遼遠な感に打たれる。つくづく以って、ようやるわ。
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