穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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黄河にて


 日本に於いて黄砂が観測されるのは、三月から五月にかけてが通常であり、わけてもだいたい四月を目処にピークがやってくるという。


 が、それはあくまで海を隔てた、この島国に限った常識はなし


 黄砂の供給源である大陸本土に至っては、だいぶ事情を異にする。

 

 

China dust storms

Wikipediaより、黄砂にかすむ京都市街)

 


 早や一月から黄塵万丈、濛々として視界を塞ぎ、その状態がおよそ半年、七月まで持続するから大変だ。日本式の気構えで悠長に臨もうものならば、たちまち白眼を剥かされる。


「昭和十三年度のおれたちが、つまりはそれ・・の生き証人よ」


 と、満鉄社員金子茂は紙面を通じて物語る。


 この人もまた日高明義と同様に、日中戦争の勃発に伴い山海関を南に征ったひとりであった。


 以降、専ら、黄河に勤務する。


 そういう彼の日記帳を捲ってみると、

 


一月二十五日
 夜明前よりの大風で宿営車の戸ががたがたする。明るくなって見ると誰の頭も蒲団もなにもかも、内も外も砂だらけで仕事もへちまもあったものでない。手拭で口をむし塵除眼鏡をかけて暫く座ったが、息苦しくて仕様がなく外に出た。三四四粁の大黄河へ行って見たが、兵隊さんは豪い。砂の涙を流しつゝやっぱり仕事をしてゐる。午後は風が止んだが、内の掃除が大変なものであった。

 


 あの微粒子に虐め抜かれている様が素朴な筆で簡潔に、だがなればこそ、これ以上ない生々しさを伴って書かれているのにぶっつかる。


 翌日もやはり、黄砂が舞った。

 

 

 


 その翌日も、翌々日も――十日ばかりもこの環境に置かれると、

 


二月六日
 今日も風があって砂が埃る。あんまり目を擦ったので目が悪くなり衛生兵に薬を貰う。

 


 粘膜がまず、変調を来さずにいられない。


 花粉症の苦しみに若干似るのではないか。きっと彼の眼球も、充血して兎みたいに真っ赤になっていただろう。


 慰問袋に目薬でも突っ込めば、存外歓迎されたか知らん。――この内地からの心尽くしの贈答品の分配に、満鉄社員も与っていたのは別の手記から明らかだ。


 とまれかくまれ、金子の日記を、もう少しばかり見てみよう。

 


二月十日
 今日も風がある。明日は木橋の開通で忙がしい。砂埃が立ったが皆元気なものであった。あんまり砂を吸込んだのか晩方胸が痛かった。

 


木橋について一言したい。

 

 もともとこの付近には黄河を跨ぐ鉄橋が、「東洋一」とも称される立派な橋が架けられて、此岸と彼岸を接続し、交通の便を図るのに年来重きをなしていた。

 

 

滔滔黄河 - Surging Stream of the Yellow River - 2012.07 - panoramio

Wikipediaより、滔々たる黄河の流れ)

 


 が、昭和十二年十一月中旬、国民党軍は撤退がてら、この大建築を爆破して日本軍の追撃を僅かなりとも遅らせようと試みた。


 珍しいことではない。インフラの破壊は、戦争となれば何処の国でも行使する焦土戦術の一環である。


 この作戦は、確かに一定の功を奏した。十トンを超す爆薬により橋は瓦礫と化し去って、どう見ても取り返しがつかぬ状態。日本軍は新たな橋を架けるべく、大工事を余儀なくされる。


 その計画に満鉄もまた駆り出され、一方ならぬ貢献をした。


 彼らの努力は幸にして実を結び、昭和十三年二月十一日、スケジュール通り仮設橋たる「木橋」の開通式となっている。


 金子も胸を撫で下したろう。


 しかし当日、彼の心臓は安堵どころの騒ぎではない、予想だにせぬ展開に早鐘を打つ破目になる。

 


二月十一日
 天の与か風はなく上天気である。軍鉄合同で紀元節の式を終り引続き開通式をやる。午後宴会が始まる。久しく見たことがなかったが今日は済南から来た日本人の女にお酌してもらふ。皆相当メートルがあがったやうであったが自分もたしかにその方であった。宴のなかばに大連の僕の四男の勲キトクスグカヘレとの電報が無電にきて渡された。兵隊さんにどうするかと尋ねられたが、今の場合死んでも仕方ないと思ひ、キンムノツゴウカヘレヌと無電により変電した。

 

 

Dairen Oohiroba

Wikipediaより、大連大広場)

 


 断腸の思いだったに違いない。


 極端な論法を用いれば、職務遂行の大義の為に金子茂は我が子を見捨てた。七つまでは神のうち」と、そういう言葉で夭折を諦観せねばならぬほど子供の命が失くなりやすい時代背景を勘案しても、易々と下せる判断ではない。


 奥歯を軋らせ、眼窩は窪み、熱病の如く黒ずんでいたことだろう。


 だが、紛れもなく、彼は選んだ。円は閉じた。


 ところが二日後、事態は更に四次元的な、嘘のような転回をする。


「金子君、帰れ」


 べつに何の申請もしていないにも拘らず、会社の方から「子供に会いに行ってやれ」と許可を送り付けてきたのだ。

 


二月十三日
 大連元所属より天津鉄道事務所へ電報が来たであろう。鉄道事務所より子供のキトクで一時帰還してよいと無電を通じて言ってきたので夕方の貨物列車に乗り込んだ。

 

 

Mantetsu Honsha

Wikipediaより、大連の南満洲鉄道本社)

 


 以降、暫く記述は途絶える。


 そしておよそ一週間後、

 


二月二十日
 午前〇時十五分大連病院にて四男勲死す

 


 持ち直すことはなかったようだ。


 しかしそれでも、最後まで側に居てやれた。


 金子茂が黄河駅に復帰するのはこれより更に半月後、三月四日のことである。


 その日の日記帳に曰く、

 


 天津にて京山線より津浦線に乗換へる。なんと客の多いこと、南満で見たことのないほど客車を連結してゐるのに身動きができない。徳県でだいぶん客が降りて楽になった。停車中工務区へ走り南満帰りの遅かったあいさつをして来た。禹城のホームに十修理班の中村君がゐた。内地の同じ土佐から来てゐて五年も会ったことがなく、あれやこれやの話が停車中に出来るものでないから明日、黄河へ来てもらふことを約して別れた。黄河に着いた時は日が暮れてゐた。宿営車の者は大半留守中に済南や徳県に引き上げて保線専用になってゐて楽であった。夜中、死んだ子供のことが浮かんできて仕様がない。

 


 聲が聴こえる。


 心の奥底、ずっとずっと暗い場所、人間性の深淵で、煮詰まる業の低吟が。

 

 

 


 どうは本より虚無なり、終も無く、始も無し。陰陽気構へて尤霊起る。起るをば生となづけ、帰るをば死と称す。――


 浮世はときに、一個の劇であるらしい。

 

 

 

 

 


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