穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

※当ブログの記事には広告・プロモーションが含まれます

烈火の大地


 熱帯夜の所為だろう。ここ数日来、眠りが浅い。疲れがとれない質が甚だ悪いのだ。

 

 

フリーゲーム『××』より)

 


 昭和七年も暑かったらしい。


 午前十時の段階で31.5℃を観測しただとか。


 池水が煮えたようになり、養殖中の鯉や鰻がほとんど全滅、損害莫大なりだとか。


 その種の悲鳴は珍しくない。まったく異常な暑さだと、汗を拭うのも忘れ去り、途方に暮れる古人の姿が多くの記録に見て取れる。


 ところが今やどうだろう。たかが31℃やそこら、十時はおろか七時八時の段階で、容易く突破するではないか。

 

 

 


 これでは毎日焙烙上で炒られているも同然だ。古人をここに在らしめたなら、すわ灼熱地獄の接近かと狼狽超えて恐慌へと至るのが実に容易く目に浮かぶ。実際問題、これはもう、人間の生きる環境と呼べなくなってきてないか?


 正気を苛む暑さといっても過言ではない。脳味噌がオカラにでもったみたいに注意力が散漫である。逆説的に睡眠が保健衛生上如何に大事か痛感せずにはいられない。本を開けても視線がページを上滑る。嫌な感覚だ、非常に嫌な感覚だ。


 こういう場合は、うたがいい。

 

 

(viprpg『あつい』より)

 


「詩と芸術は決して贅沢品ではない、国民の生命であり国家の基礎であると信じます、この分野に於いて人間の最も奥深い魂が形造られ高められてそして子孫に伝へられるからです」――クルト・ジンガーの忠言通り、日本人は実によく詩を詠んだものだった。


 べつに歌集にあらずとも、随筆や社説欄にさえソレが盛り込まれていたりする。


 古書を渉猟するうちに、自然と手元に集まった詩。久方ぶりに放出してみたいと思う。

 


春の祖谷渓花見にごんせ
うかれ鶯来てをどる。


夏の祖谷渓涼みにおじゃれ
妻呼ぶ河鹿が恋歌なく。


秋の祖谷渓十里の峰は
錦かざって君を待つ。


冬の祖谷渓水晶のお宮
つらゝつらぬる七つ瀧。

 


 徳島県の神秘郷、祖谷川のつくる幽谷が世人の興味を惹いたのは、『大阪毎日新聞』及び『東京日日新聞』主催の日本百景選定にあずかって以後であるという。

 

 

Iya Valley seen from the Iya Valley Observatory 001

Wikipediaより、祖谷渓

 


 好機逸すべからずと宣伝事業に力瘤を入れたのは、みんな大好き鉄道省だ。人々を観光に駈り立ててじゃんじゃか金を使わせようと、「百景」の良さをいよいよ刷り込むフレーズないし歌の類を紡ぎ出す。


 上はそうした労苦の成果、その秀逸な一つといっていいだろう。

 


あなたハイヤー
ちょいと隠れませう
祖谷の平家の隠家に

 


 これもまた、成立過程は同様だ。


 祖谷渓は平家落武者伝説の色濃く根付く土地だった。

 

 

Nizyukazurabasi20220528 1

Wikipediaより、奥祖谷二重かずら橋)

 


歌をよむ 女房などは もたぬもの
亭主を尻に 敷島の道

 


「明治第一の高僧」とも聞こえの高い、福田行誡上人作の狂歌なり。


 特に深い理由はないが、以前浦賀で撮ったところの、與謝野夫妻歌碑の写真を再度載せたい気分になった。

 

 

 


人の謗りや世の憚りに、
隔てらるゝはそりゃ気が弱い、
こがるゝ船は山へも登る、
あれ見やしゃんせ近江のや、
その浅妻も加茂川へ、
逢瀬をちぎる水の縁、
ほれて通らぬ恋はない。

 


 こちらの詠み手も明治人、小出つばらなる男。


 明治二十三年の琵琶湖疎水開通式に祝賀として作詞して、芸者どもに覚えさせ舞の手つけて歌わせたという品である。

 

 場の雰囲気に相応しい、蓋し軽妙な調子であった。

 

 

琵琶湖疏水

 

 

雲湧き起こるシベリヤの
密林深く分け入りて
切り出す松や楢樅ならもみ
あがる凱歌は六百の
健児我等の意気と熱
ああ溌溂の葛根隊


炎熱灼くる山間の
荒地に鍬をいただきて
根株掘りのけ開墾に
尊き汗は血と流れ
広野に響く建設譜
ああ明朗の葛根隊


月は冴ゆれど戦友の
綱引く声はこだまして
造材の山たちまちに
くずして貨車へ積上げる
男気合のたのもしさ
ああ感激の葛根隊


晴れて帰還の暁は
練って鍛えたこの腕で
新日本の建設に
いばらの道を切開き
大和男児の意気見せん
ああ栄光の葛根隊

 


「クズネ隊のうた」である。


 シベリア奥地、クズネチーハのラーゲリに叩き込まれた嘗ての日本兵たちが、無慈悲なノルマ、とぼしい食事、過酷どころの騒ぎではない環境下にあってなお、祖国に帰還かえれる「いつか」を夢見、互いに励まし合うために常々歌ったものだった。

 

 

 


 ――このクズネ隊の隊員に、かなり意外な人物が、しかし実際、名を連ねている。


 石橋信夫、その人である。


 住宅総合メーカー大手、大和ハウス工業の「創業の雄」に相違ない。


 彼の青春の相当は、戎衣と共にあったのだ。


 本稿の趣旨とは若干ズレるが、せっかくなので敗戦の日石橋信夫の有り様を、他ならぬ御当人の著述からちょっと拾い上げておく。

 


 本部からの、軍人向け終戦詔書の内容を入手。各隊に緊急命令を通信紙に書いて回した。
 私の頭に、自決の二文字が閃いた。現に詔書の内容を知った直後、五人が自決した。自決を防がねばならぬと判断。私はみんなに五分間の黙祷をさせ、そしてこう言った。
「今次大戦で、二百五十万人の同胞が戦死した。今日まで我々もまた、タコツボが墓場と心得、陣地を死守せよとして来た。
 しかし戦は終わったのだ、今から皆は、一家の大黒柱とならねばならん。国破れて山河あり、故国には家族もある。死んではならん。死ぬことはやさしい。生きることはむずかしかろう。しかし生きて祖国に帰ろうではないか

 

 

 


 八月十五日は近い。

 

 きっと今年も、暑い一日になるだろう。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ