穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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理想家の条件 ―尾崎行雄と新聞のジンクス―


 尾崎行雄にはジンクスがある。この男が筆を揮うと、その新聞社は潰れるか、少なくともその寸前まで行ってしまうというジンクスが。


 例外は、新潟新聞ぐらいのものであろうか。後は大抵、悲惨な目に遭っている。


 朝野新聞は完全に滅亡してしまったし、報知新聞もあわや倒産の瀬戸際まで追い込まれ、やがて懐事情が回復してから再び尾崎を雇い入れると、またもや経営状態がすこぶる悪化、頼むから出ていってくれと懇願せねばならなくなった。


 尾崎行雄が自分で興した「民報」紙に至っては、半年も保たずにぶっ潰れるというていたらく・・・・・


 後年尾崎はこの絢爛たる閲歴をして、


「政府が何処かの新聞を倒したいと思うのならば、私をその新聞社に入れて置くのが一番いい方法だ」


 と、開き直りにも似た皮肉の材に具している。

 

 

Chōya Journal 1879

 (Wikipediaより、朝野新聞)

 


 ――いや、ひょっとすると「似た」でなくして、本当に開き直っていたやもしれぬ。


 なんとなればこれをジンクスと呼ぶのは間違いで、経緯を詳細に眺めてゆけば「そりゃあそうもなるだろう」と頓悟できるものばかりであるからだ。尾崎自身、その作業をした。
 自分の所属した新聞社が何故ことごとく傾くかを分析し、


 ――営業を度外視し過ぎた所為だ。


 このように結論付けている。

 


 営業的力は新聞経営の極めて小さい分野に追込んでしまって、吾々は営業者のいふことはきかなかったのである。反対に営業者を逆襲して編輯者の命令を捧持せねばきかぬといふ考へをもって決して営業者の註文等を紙上に現はすことは許さぬといふ意気込みで、広告の載せ方でも余り品格の悪るい広告を載せると、かやうな穢れた広告を載せることは相成らぬ、それをきかぬと論説を書いてやらぬといったものである。その結果われわれの関係して居った新聞はみな成り立たぬ。(『尾崎行雄全集 第九巻』178頁)

 


 察するに、尾崎にとって新聞とは商売ではなく、信念発露の一手段であったのだろう。


 実際問題、この男が小金を稼ぐ目的で筆を動かしている姿など到底想像しようがないし、やった形跡も見当たらないのだ。


 ほとんど傲慢と変わらない気位の高さ。漫画家の岡本一平に、

 


尾崎行雄
 高い理想に眼を馳せ地上の実状は一向お構ひなしの性格よりして上空気球観測技師適任ならん。(『一平全集 第六巻』412頁)

 


 と諷されるのも納得である。

 

 

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(「気球観測技師」尾崎行雄

 


「遠くから見ている分には痛快だが、同じ職場に居て欲しいとは決して思わぬ」的な人物例の代表株に据えてよかろう。この男には妥協が出来ない。理想と現実が衝突しても、あくまで現実を蹴殺して、理想を全うさせようとする。だから同じ失敗を、何度も何度も懲りもせず、繰り返してしまう破目になるのだ。


 損得勘定でいったら話にならない。尾崎とて、理性の上ではそれを重々承知している。が、不羈奔放な魂が、どうしても肯んじようとしないのだ――いわゆる世間知的な、「賢い生き方」というやつを。

 

かくすればかくなるものと知りながら
已むに已まれぬ大和魂


 まさにこの句の体現だ。思えば吉田松陰も米国船への密航計画が失敗するや、迷わず幕府に自首するというどう考えても間尺に合わない行為を敢えてしている。

 

 己が信念に対する、愚かとも見られかねないまでの捨て身の献身。あるいはこれこそ、理想家としての第一条件なのやもしれぬ。

 

 

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 なお、せっかくなので付記しておくと、尾崎行雄と縁故の深い原敬犬養毅の両名にも岡本一平は言及し、前者を「いかだ師」、後者を「研ぎ師」になぞらえている。その文面をそれぞれ挙げると、

 


原敬
 押して突っ張る事、この人ぐらゐのは政界他に無し、このやり方で鳶口竿を操れば筏師が勤まる。

 

 

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(「いかだ師」原敬

 


犬養毅
 鋭くて冴えた頭。弁口の辛辣で皮肉な切れ味。百錬千錬のしぶとさ。さしづめ刃ものの研ぎ師といふところだ。

 

 

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(「研ぎ師」犬養毅

 


 洒脱ながらも、きっちりツボを押さえきった表現だろう。漫画の出来もまた然り。


 思えば高橋是清を「無我天真」と評したのもこの人だった。類稀なる人物眼に、それを活かす絵の技量。岡本は当代きっての作家である。

 

 

 

 

 


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