穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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「黄金の国」いまいずこ ―なにゆえ国を鎖したか―

 

 三代家光の治世に於いて、徳川幕府は国を鎖した。


 南蛮船の入港を禁じ、海外居留の日本人にも帰国を許さず、ただ長崎のみをわずかに開けて、オランダ・支那との通商を、か細いながらも確保した。


 動機は専ら、キリスト教の浸潤を防遏するため。幕府の求める治国平天下に伴天連の教義は必要ない。否、無用どころか毒煙以上に有害である。その事実は、島原の乱で十分以上に証明された。


 悪疫を持ち込むことがわかっているのに、門戸を開く馬鹿もない。


 国内を静謐に保つ便法として、それは確かに有効だった。

 

 

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(きりしたんころびの図)

 


 以上はただし、初期に限った分析だ。水が岩を磨するが如く、時代の流れに従って、鎖国の意義も変化している。


 具体的には、政治的・宗教的理由から経済的理由へと。国内宝貨の流出防止の側面が、段々と比重を増してくるのだ。


 このことは、前述したオランダ・支那との貿易額を一瞥すればよくわかる。幕府はこれにも、きちんと上限をつけていた。敢えて今風な言い方をすれば、自由貿易にあらずして、非関税障壁による保護貿易に他ならなかった。


 貞享二年(西暦1685年)にオランダ方三千貫目、支那方六千貫目と総取引額を定め置き、


 正徳五年(西暦1715年)には来航船舶数をオランダ方二艘、支那方三十艘までと限局、


 文化十年(西暦1813年)に至っては、これらを更に引き締めて、オランダ方二艘七百貫目、支那方十艘三千五百貫目まで削ってのけた。


 世論もおおよそ、幕府の施策を支持したものだ。


 江戸陽明学の魁にして数少ない貿易推進論者であった三輪執斎にしてさえも、

 


 問、銅鉄金銀を異国へ渡申候事は、捨申同然に候。いかが候はんや。曰、吾国のうちにて、東国のものを西国へつかはし候も、天より見れば同じ事に候。大やうに御覧可被成候。去ながら無用の異国のものを、日本へ買入申事、とかくいらざる事に候。況大切の金銀を、他へ遣し申候をや。(『執斎先生雑記』)

 


 と、この件に関しては灰色がかった、ひどく慎重な書き方をしている。

 

 

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(平戸オランダ商館)

 


 無理もない。日本列島の鉱業事情は、既に開府当初のそれではないのだ。汲めども尽きない無限の泉はもはや遥かな夢物語。金も銀も産出量は年を追うごとに先細り、このため幕府は度重なる貨幣改鋳を余儀なくされたものである。そしてその都度、望ましからぬ景気変動が発生し、要路を大いに悩ませた。


 ゆえに新井白石の如きなぞ、ほとんど貿易を罪悪視して憚らず、

 


 我有用の財を用ひて、彼無用の物に易む事、我国萬世の長策にあらず。古より此から我国いまだ外国の資を借らず。さらば薬材の外は、他に求むべき物もなし。海舶来らざらむ事、古の如くなりとも、我求むべき所を得べき事、其道なきにしもあらず。もしやむ事を得ざらむ所もあらむには、先王の制に、量入為出ともいふ事あれば、我国の宝貨、当世世に行ふほどをも、また毎年諸国より産し出すほどをも、其数をはかりくらべて、周山並西南外洋の国々、朝鮮、琉球に渡さるべき歳額を、酌み定めらるべき事なり。たとひ我国中にて買取所の物の価は、増し倍さむも、我国萬世の貨を傾竭して、外国に渡さむよりは、其憂は猶少しきにこそあれ。(『折たく柴の記』)

 


 怨念すら滲ませた、こんな文章を書いている。

 

 

Arai Hakuseki - Japanischer Gelehrter

 (Wikipediaより、新井白石

 


 しかしそれもやむを得ない。白石こそは、開府以来の金銀海外流出量の本格調査を敢行した幕閣だった。その結果、金だけでも130トン、銀に至っては2800トンというとんでもない数値が浮かび上がった。


 佐渡金山が四百年――江戸から平成まで――かけて吐き出した総量でさえ、金78トン、銀2330トンに過ぎないというのに、この消費量はどうであろう。


(なんということだ)


 どれほどの戦慄が、この生真面目な能吏を襲ったことか。


(このままでは、日本の富が枯渇する)


 持ち前の謹直さで信じ込んだのも無理はない。以後、白石の悲観は滔々として受け継がれ、鎖国制度の骨子にさえなってゆく。たとえば幕末、水戸の烈公斉昭が献じた『海防愚存』を覗いても、

 


…我金銀銅鉄等有用之品を以て、彼が羅紗硝子等無用之物に換候儀、大害有之小益無之候、和蘭陀之交易さへ御停止にても可然時勢に候…

 


 明らかに痕跡が見て取れるだろう。


 兎にも角にも、鎖国を単に禁教問題として捉えると、大きく実態を読み違う。このあたりの消息に逸早く気付いた外国人は、案の定と言うべきか、英国人に他ならなかった。


 初代駐日総領事、ラザフォード・オールコックその人である。

 

 

Alcock

 (Wikipediaより、ラザフォード・オールコック

 


 三年に及ぶ滞日記録を取り纏めたる『大君の都』。名著の呼び声未だに高いその中で、彼はこう述べたものだった。

 


…外国人が営業する金の大輸出は、日本政府に於て掠奪の所業となし憤懣せしのみならず、全く一国を貧弱に沈淪せしむるものとなし大いにこれを恐れたり、これ実に往時ポルトガル及びスペイン人等と交通せる時、その手に触るる所の金を輸出し当時の政府を怒らしめたると同一なりとす、当時鎖港の日本に行はれたるは、金の輸出その一因たるに相違なし、今や吾輩もまた同事件に由り同一の困難に際会せんとす、…

 


 イギリス人の観察力が如何にとびぬけた代物か、この一文からでも十分以上に窺い知れる。


 彼らはものごとの本質をよく見抜き、堅牢な現実認識の上にあらゆる事業を展開してゆく。華には欠けても、泰山を仰ぐが如き重厚さが常にある。


 たとえこの先、世界情勢に如何なる地殻変動が起き、

 

 中国が亡ぼうが、


 ドイツが亡ぼうが、


 フランスが亡ぼうが、


 将又アメリカが亡ぼうが、


 イギリスだけは相も変わらずイギリスのまま、千年先まで命脈を保っていそうな予感がして仕方ない。

 

 

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(バッキンガム宮殿)

 

 

文明此世に顕はれて、
西の大関英吉利ならば、
東は名にあふ日の本と、
いはれて見たいが精一ぱい、
なんと皆様得心ありて、
勉強せうではありますまいか。

 


 明治時代の漢詩人、石井南橋がその門下生に与えた薫陶。


 蛇足を承知で付け加えておきたくなった。


 ただそれだけのことである。

 

 

大君の都 上―幕末日本滞在記 (岩波文庫 青 424-1)
 

 

 

 


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