穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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総督府の農学博士 ―加藤茂苞、朝鮮を観る―


 米の山形、山形の米。果てなく拡がる稲田の美こそ庄内平野の真骨頂。

 

 

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 古来より米で栄えたこの土地は、また米作りに画期的な進歩をもたらす人材をも育んだ。


 加藤茂苞しげもとがいい例だ。


 大正十年、日本最初の人工交配による品種、「陸羽132号」を創り出し、やがて「コシヒカリ」や「ササニシキ」へと派生してゆく壮大な系譜を拓いた人物。


 紛れもない東北農業の大功労者、わが国品種改良の父。そういう男が庄内藩士の長男として生まれたことは、あんまりにも順当過ぎて天の作為を感じたくなる。


 まあ、それはいい。


 今回重要となる情報は、この加藤茂苞農学博士の経歴中に朝鮮総督府の五文字が見出せることだ。


 昭和三年から同九年にかけて。農事試験場技師として、彼の半島に渡ったとある。

 

 

Kato Shigetomo

Wikipediaより、加藤茂苞)

 


 ふとしたことから当時の著述を発見し、興味深く読ませてもらった。


 東北農業改良の父の両眼に朝鮮農業、殊に稲作はどう映ったか?


「褒めるところがまったくない」の一語に尽きる。

 


 従来朝鮮の農家は、一般に施肥観念に乏しく、麦作には少量の肥料を施すが、堆肥などこれを有効に使用せず、人糞尿も多くは糞灰として、その効力を著しく失はしめ、稲作に対しては一部分の地方を除けば、殆ど無肥料状態にあった。(昭和五年『日本地理風俗体系 朝鮮(上)』274頁)

 

 水稲は夏季降雨の多少により豊凶に大差がある故、内地に比し年と場所とによりその豊凶の差が特に著しい。しかし最近三箇年または五箇年平均による時は一千五百万石を平均年作とすべく、これを内地の六千万石に比すれば約四分の一に過ぎぬ。また平均段当り収入は内地の約半分で、一石内外とする。これは朝鮮水稲の大部分が天水稲と称し、全く水利の便を欠き、降雨のみによって水稲を栽培するものが全水田面積の約四分の三を占めてゐるため、頻りに旱害を被り、稲作不安定であると共に、(中略)殆ど無肥料状態であるによる。(278頁)

 

 

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(朝鮮の農家)

 


 施肥もせず、灌漑もなく、給水は完全に天候まかせ、運まかせ。


 これはもう、苗に対する虐待だ。


 さながらムスタファ・ケマル台頭以前のトルコの如し。

 

 彼の国に於ける農業も「農作物の生育する土地に種子を蒔き一年中五、十月に降る降雨によって収穫を待つのみで、雑草を刈ることもなく灌漑工事を施すには余りに資力がなく採算がとれない。自然を征服するための方法は一切講じてなく、また及びもつかないことだから、雨量の少ない年は一溜りもなく不作に泣き、牛を売り羊を手放して生活する外はない」という、目も当てられないみすぼらしさであったのは、こちらの記事で既に一通り書かせてもらった。


 その原因が苛斂誅求を強いるばかりでまったく人民を導かなかったスルタンどもにあることも。


 奇しくも――と、言っていいのか、どうか。この構図は、そっくりそのまま朝鮮にも当て嵌まる。


 両班もまた、明けても暮れても何の生産性もない、不毛そのものな党争ばかりに齷齪し、現実の民を導く能を毛ほども持っていなかった。


 永きに亘って蓄積された膨大なツケ。その清算に、


 トルコに於いてはムスタファ・ケマルが、


 朝鮮に於いては総督府の日本人が、


 それぞれ取り組んだといっていい。

 

 

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朝鮮半島、田舎の景色)

 


「当事者」の言葉を再び引こう。

 


 従来朝鮮の水稲品種は雑駁な在来種のみであったのを、始政以来勧業模範場において選出育成した優良の内地品種に更新して奨励すると共に、乾燥、調整の指導と相まって、爾来産米は著しく収量を増加すると共に、その品質を向上するに至った。(278~280頁)

 


 ちょうど専門分野とも被る。


 加藤茂苞の主な仕事は、このあたりにあったのではなかろうか。


 実際問題、朝鮮に於ける在来種から優良品種――日本稲への入れ替えは極めて速やかに遂行された。大正四年の段階では全体の二割程度であったのが、昭和五年に入るともう七割を突破している。


 さても勤勉な働きだった。


 あともう一つ、総督府の巨大な悩みのタネとして、火田について触れておきたい。


火田」――すなわち焼畑農業によって生計を立てる人々である。

 

 

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火田民の住居)

 


 農法自体は珍しくない。


 かつてはこの日本でも、そこかしこでぽつぽつあったことである。


 北海道の開拓移民に至っては明治維新後も暫くの間やっていた。苛酷な冬が来る前に、圧倒的な自然力を急ぎ駆逐し、生活空間を確保するため、やむを得ない措置だった。


 だがしかし、朝鮮のそれは次元が違う。規模が違う。

 

 加藤茂苞の赴任当時、昭和の御代に至っても、未だ百二十万人もの人間がこの原始的な農法で暮らしを立てていたというから、仰天するほかないではないか。

 


 朝鮮殊に北朝鮮地方における農業状態において見逃すことを得ず、また朝鮮の農業に特有なものは火田民の存在である。火田民は北朝鮮一帯高峻な山岳の重畳起伏連亙せる一大地域に蟠居し、永年に亙る農林政の不振に乗じて生み出された帰結に他ならぬ。即ちかれ等の多数は随意に国有林に侵入してその樹木を焼き払ひ一時的の住家を建て、自由勝手に己が欲するままに開墾し、既墾者はその父子兄弟を呼びよせて次第に独占地域を広め行くのである。
 かくて焼き払った土地は全く無肥料で耕作し、土壌肥料分がつきれば、家族と共にまた新しい地域を探し求めて移動し、この方法を次から次へと繰りかへし、漂白から漂白への旅を続けるのを普通とする。(277頁)

 

 

Bald mountains in Korea

Wikipediaより、火田民らによって荒廃した朝鮮の禿山)

 


 半島を禿山ばかりの景色にしたのはこの連中の働きに与るところ大である。


 おかげで地盤は大いに緩み、洪水が頻発、財も命も何もかもを泥の下に埋めるという、惨憺たる様相が繰り返し繰り返し上映された。

 


 ――満洲は宜く放棄すべきものなり、満洲のみならず、朝鮮も亦宜く放棄すべきものなり、露国の更に来て満洲を取る可なり、更に来て朝鮮を取る更に可なり、英国はノルマンデーとブリタニーとを捨てて始めて海上に雄飛したり、露国にして鎮海湾に拠る、日本は始めて海国として自覚すべし。

 

 

 朝鮮について知れば知るほど、茅原華山のこの絶叫が説得力を増してくる。

 

 

 

 

 


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