穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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先住民のオーロラ信仰 ―百年前のアラスカで―


「おお、光の神よ!」


 三分前まで正気に見えた。


 母を手伝い家事にいそしむ、純朴な少女に見えたのだ。


 それが今やどうであろう、印象は完全に一変している。


(狂女であったか、この娘――)


 頓狂な叫びを上げるなり、


 引き千切るような慌ただしさで服を脱ぎだし、


 一糸まとわぬ姿になると、


「おお、光の神よ!」


 再び叫んで、脇目もふらさず戸外へ駆け出す、


 そんな所業を目の当たりにした以上、客人としては頭脳の調子を疑いたくもなるだろう。


 ましてやここは腰蓑一丁だろうと過ごせる、熱帯の如き場所でない。むしろその逆、正反対といっていい。


 極北である。


 寒風身を切るアラスカである。


 インディアンが居住する、簡素なつくりの丸太小屋の中である。

 

 

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 外には雪が層を為し、ただ犬橇の跡だけが、のっぺりとした白銀に微かな影をつけている。


(なんということだ)


 大日本帝国からの旅人、原始美術の探究者、宮武辰夫は愕然とした。あんな状態で、こんなところをうろついて、無事でいられるわけがない。「凍死」の二文字が、厭でも脳裡を乱舞する。勢い込むこと、ほとんど弾機仕掛けのようにして、一家の長を顧みた。


「慌てることはない」


 古木と見紛う皮膚の老爺は、どっしり腰を落ち着けたまま口を開いた。


「娘は祈りに行ったのだ――今、出始めたオーロラにね。あれは向こうの小屋の若者に想いを寄せておるでのう」

 

 

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 星空にゆらめくオーロラの下、素っ裸で真摯に祈りを捧げれば、あらゆる願いは成就する。


 そういう信仰が、アラスカ・インディアンの一部部族の間では、宮武の歩いたこの当時――二十世紀前半に於いても根強く保たれていたらしい。

 


…私も外套の襟を立てて小屋を出た。そしてやみであるべき、大空を眺めた時、私は唖然とした。この神秘的な奇蹟をどう語ってよいか、あまりの偉大さ、あまりの美しさ! その時の私はただ、おのづから何ものかに額づきたい敬虔な念に打たれた。最初、紺碧の大空に淡い虹のやうなものが動き始めたが、だんだんひろがって、大空の果から果まで、大きい布のやうなものと変った。恰もスカーツを下から見上げたやうに上の方は、果しなく大空に溶け入ってゐるが、下は切ったやうである。そのスカーツの皴がふわりふわりと動いて、刻々と色と形を変へる。それが極地に近い、晩秋のできごとである。目をこの光の大空から、地上へうつすとそこには、はてしない氷の平原が続いて、オーロラの光の変る毎に、雪野のひろがりも空と同じく美しい色に染まっていった。(『世界地理風俗体系 18』164頁)

 


 大自然の創り出す神秘と驚異。情緒たっぷりな筆致で以って、宮武辰夫はその光景を描写する。


 当人の受けた戦慄が、如何に深甚なモノであったか。手に取るようにわかるであろう。


 考えてみれば巨岩・巨木の類にも、人は容易に「神」を見出す。


 況や極光に於いてをや。先住民の信仰に、少しも怪しむべき箇所はない。

 

 

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(オーロラに祈る先住民)

 


 極北の凍土から赤道の密林に至るまで。原始美術を追い求め、宮武辰夫が世界各地を行脚したのは1919年から21年にかけてであった。


 現在より溯ること、およそ百年。


 一世紀を過ぎてなお、オーロラの美しさは変わらない。


 が、しかし、それを仰ぎ見る人の心はどれほど変化しただろう。


 少なくとも、雪原の中、全裸になって跪き、祈りを捧げる女性の姿は、もはや絶えたのではないか。

 

 

 

 

 

 

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