穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

北アルプス VS 南アルプス


 南アルプスは欠点だらけだ――。


 そんな誹謗中傷に、思いもかけず遭ってしまった。


 甲州人として悲しまずにはいられない。


 往昔の日本山岳会に、小暮理太郎という人がいた。


 群馬の生んだ偉大な登山家、齢六つで赤城山を征して以来、山の魅力に憑かれた男。


 地図にない路、どころではない。そもそも地図の存在しない未踏の山に次々挑み、これを征服、本邦登山史の発展に大きく寄与した功労者。


 そういう彼が物した文に北アルプス南アルプスを比較論及したものがあり、その内容がまた随分と北アルプス贔屓というか、南アルプスの不遇っぷりを強調してくれていて、白峰三山を仰いで育ったこの私の精神を、いたくヘコませてくれたのである。

 

 

 


 まず、南アルプスには雪が少ない。


 冬季日本に雪を降らすは北西からの季節風である以上、これは仕方のないことだ。


 水蒸気は太平洋側まで届かずに、乾いた風がただ吹きすさぶ。


 だから所詮、「雪量においては、夏冬を通じて南アルプス北アルプスの敵ではない」

 


 かく残雪の少いことは、また山の上に池や水の流れる小溝などの少い基となってゐる。火口湖や火口原湖は別としても、北アルプスでは五色ヶ原や雪ノ平に散在する無数の小池、五郎ノ池、双六ノ池、薬師ノ池といふやうに、到るところの窪地に清澄な水が溢れて、登山者の渇を癒し目を楽しませる。南アルプスの山上を旅する多くの人が、何か心の隅に満たされない欠陥があるのを覚えるのは、二三の池はあっても水は汚く、小溝はあっても水の流れた跡のみであることなどが、重要な原因となってゐるやうに思はれる。

 

 

Mt.Senjogatake from Mt.Kitadake 03

Wikipediaより、南アルプス仙丈ヶ岳

 


 ひでえ。


 あんまりな言い草じゃござんせんか。


 南アルプスの天然水を侮るな、現在日本で流通しているミネラルウォーター、その四割は山梨県産なんだぞと、つい無用に胸を反らしたくもなる。


 だが、こんなのは序の口だ。残雪の少なさが景観に与える悪影響、特にカールの眺望を如何に致命的に損なうか、小暮は淡々と論じ抜く。

 


 氷河の遺跡といはれてゐるカールは、北アルプスでは中に多量の万年雪を蔵して、長い雪渓がそれから流れ出したやうに続いてゐる。これが山の肩あたりに三つ乃至四つも駢んで懸ってゐる壮観は、北アルプスならでは見られぬ特色である。日本における高山性地貌の粋は、雪に埋もれたカールにありといふも或は過言ではないであらう。南アルプスでは今のところ仙丈岳に二個、悪澤奥西高地二山の間の山稜に極めて小規模のもの二個、合せて四個を有するのみで、全山系を挙げて北アルプスの一座の立山にさへ及ばないのである。しかも盛夏に至れば、その中には既に雪の片影をも認められない。このカールの少ないことは残雪の少ないことともに、南アルプスにとっては償ひ難き弱点であって、何としても遺憾の極みである。

 

 

Shirouma dai sekkei from Mount Shakushi

Wikipediaより、白馬大雪渓

 


 おうふ。


 この断定ときたらどうだろう。


 顎に一発、いいのを喰らってマットに沈むボクサーの気分になってくる。


 しかし小暮は執拗だった。


 グロッキーの私に向かい最後のとどめを下すべく、その鋭利な筆鋒を、遠慮会釈なく振り下ろしている。

 


 火山に乏しい南アルプスは山の湯にもまた恵まれてゐない。小渋、梅ヶ島、西山など二三の湯泉と称するものはあるが、温泉らしい温泉といへば西山のみである。北アルプスの登山者が思ひも寄らぬ谷川のほとりなどに滾々と湧き出してゐる温泉を発見して、そこに石で囲んだ浴槽を造り、感触のいゝゆくもりに皮膚を撫でられながら、終日の汗を流すやうな快さは、南アルプスでは決して味わへない。

 

 

烏帽子岳の残雪)

 


 むごい。


 まったくなんということだ。


 これではまるで「いいとこなし」の見本じゃないか。


 故郷のため、歯噛みせずにはいられない。


 だが、この不遇、この恵まれざる自然環境であってこそ。


 南アルプスはそう易々と観光地化せず、従って俗界の空気が入り込むこと稀薄であって、山本来の静けさと、幽寂の気を長く保ったと言い得よう。

 

 

農鳥岳より、間ノ岳北岳を望む)

 


 なお、少しばかり私事を語らせていただくと――。


 いつまでも仰ぎ見ているばかりではなく。いつか私のこの足下に、北岳三一九三メートルの頂を踏んでみたいとは年来の宿志であるけれど。目下の最高到達地点は一六〇一メートル、丹沢山塊檜洞丸。それにしたって息も絶え絶え、半死半生の苦しみを味わいながら漸く達成したものだ。

 

 

 


 道は遠い。


 先に寿命を迎える破目にならなければよいのだが。

 

 

 

 

 


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