穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

※当ブログの記事には広告・プロモーションが含まれます

ひいばあちゃんの知恵袋・前編


 ――ランプの輝度を上げるには。


「最も純粋の固いパラフィン二分と、純粋の鯨蝋一分と混じ、此混和物を石油に加へて使用すれば、消費量を増さずして、著しく光量を増すの効能があります、さうして此の混和物〇、三グラムは〇、五リットル容れのランプに於て、四日間効能を持続します、但し石油は必要に応じ時々之を補充すべきは勿論です」


 斯様な記述が百年前の婦人雑誌の隅の方に載っている。

 

 

 


 節約術、生活の工夫の類であろう。「おばあちゃんの知恵袋」でも、特に古色蒼然とした代物であるに相違ない。


 アウトドアによほど凝ってでもない限り、石油ランプを用いる者なぞ現代社会に稀だろう。むろん筆者わたしの手元にもない。「鯨蝋」とやらに至っては、どこであがなえばよいのやら、正体さえも不明瞭。つまりはまったく使い処を見出せぬ、無駄な知識で、記憶するだけ脳の容量の空費であると看做すべきだが――どういうわけだか気がつくと、指はペンをひっつかみ、サラサラ紙面に抜き書いている。この手の本を見かけるたびに、期待で脈が早くなる。


 要不要ではない。ただ知りたいのだ。識ることが面白くて仕方ないのだ。


 自己の本質が蒐集家だと痛感するばかりであった。


 お蔭で溜まりに溜まったり、時代遅れな故智どもが――。


 以下、選り抜きを列挙してみる。百年前の庶民生活の実態を垣間見るの興趣をも、あるいは引き出し得るだろう。

 


〇石油に塩を入れて燈を点すときは、火止石油に少しも異ならずして、油の減り方も少なく、光量も強く、又油煙が立ちませんからホヤも煤けません。


〇手などに付いた石油の臭ひを消すには、烟草の粉なり番茶なりを火に燻べて其の上で手を揉めば忽ち消へてしまひます。凡て石油の臭ひは番茶の煙に当てればよく消へるものです。

 


 これまたランプに関する四方山。


 前者はともかく後者の方は、石油ストーブをいじくる際に、あるいは役に立つやも知れぬ。

 

 

 


〇新しい漆器の臭ひを取るには、米櫃の中に入れて置くか、米泔水こめとぎみずを温めて注いでもよい、漆器に脂肪の着いたのは青菜の葉で洗ふと、よく取れるものであります。


〇新しき木具の臭を消すには、蕎麦粉を少し入れて、そこへ熱湯を注ぎ、冷へるまで蓋をして置くと宜しい。


〇凡そ焼物は、瀬戸物でも硝子器でも、塩水で煮てしづかに冷まして使へば丈夫であります。

 


 もったいないの美徳に基き、物を長持ちさせるため、先人は努力を惜しまなかった。


 そういう意味でも、東郷平八郎の精神性は、まさに当時の亀鑑として相応しい。


「国民的人気」を博したのも必然だったというわけだ。

 

 

東郷平八郎と孫)

 


〇寒中硯水の凍らない様にするには、硯水の中に胡椒を四五粒入れて置くが宜しい。


雨の後井水が濁ることがあります、其のときは桃仁、杏仁を別々に磨り潰し、順次濁り水の中に入るれば、暫くの間に濁水は底に沈み上は清水になります。

 


「仁」とは種の中にある核の部分を一般に指し、桃のそれもアンズのそれも、生薬として使われる。


 井戸水に放り込んでも安心安全であったろう。

 


新しい手水鉢、石燈籠、敷石等に古びを付けるには、黐を塗って其上へ落葉をふりかけて置く時は、露霜の為め落葉は朽ち果て、後へ白苔が付きます、又青苔を生えしむるには蝸牛を砕いて其汁を石にすり付け、木蔭に置き水を灌げば美事に生えて古くなるものであります

 


 新品を古物に化けさせるの法。


 新品は「侘び・寂び」に欠けるとの感性からか。


 よしんばそうであったとしても、カタツムリを擦り付けるのは、なにかこう、名状しがたい嫌悪感が沛然として胸に湧く。


 寄生虫の巣窟という印象が、あの軟体生物に対しては、どうしても拭い去れないゆえであろうか。とにかく気持ちが悪いのだ。

 

 

武田神社の「さざれ石」)

 


烏賊の黒味に生麩糊を磨りまぜて書けば、其時は普通の墨色でも、漸次色が薄くなり、三年以後には全く白紙となってしまひます。證文など先方で書いて来たものは、迂闊には受け取られません。

 


 冗談みたいな詐欺のカラクリ。


 人間の悪知恵には限界がない。


 まさか、と疑いたくなるような奇天烈な技を平気で編み出す。きっと本当にあった事件、実際に使われた手口に基き、叙された文であったろう。


「男といふもの閾を跨げば七人の敵ありとは、まだ世の中の容易かりし昔の事、ますます複雑にして陰険なる今日の社会は、いかなる敵いかなる暗闇に潜むやら、或意味に於て門外一歩の目に触るゝところ悉く皆これ敵なり」。――村上浪六の言う通り、大正末には性善説など到底通用しないほど、険悪な世相になっていた。


 文明化とはいついつだとて、そういうリスクと背中合わせで成るものだ。

 

 

 


〇桐の花の散ったのを掻き集めて紫蘇の肥料とすれば非常によく繁茂し色も香もよく出来ます。

 


 箱にするだけが桐の効用でないわけだ。


 当たり前ではないか。私は何を書いている。


 五月の陽気の所為であろうか、感情の振れ幅がやけに大きい。


 ちょっと頭を冷やさなければ。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ