水戸学はまったく過激一途だ。
掘り下げれば掘り下げるほど、この連中には話が通じぬ――「勤王の志士」を言葉によって説得するなど芋を鰻に
「交易を許して其間に武備を整へんといふは、臆病者の口実にて我一代に事なきやうにと願ふ心より出たる説なるべし」
と、もう明らかに開国論者を人間扱いしていない。
いったい武士の世にあって、「臆病者」とはそういう意味を含有する語句である。人非人か、さもなければ非国民。面と向かって言ったが最後、相手が抜き打ちに切りかけて来ても一切苦情は洩らせない。まこと烈しき言葉であった。
そういうものを使った以上、これはもはや批評ではなく、罵倒であろう。
「夷狡を近付け交易を許さんには、人の心いよいよ弛み、いつとて武備の整ふ時や有るべき。門外に佇める盗人を引入て親しみながら盗人を防ぐ事を心せよといふに均し。しかのみならず、彼大胆狡黠なる夷人、是彼と術を盡し、邪教をもて人を懐けん事、鏡に懸けたる如し。人心は弛み、武備は怠り、邪教は広まりたらんには、臍を噛むも及ぶまじきわざならずや」
なにやらここまで来るともう、西洋人を褒めちぎり、日本人を貶しつけているような、一種倒錯の感すら匂う。
これがたとえば、草深い田舎の禰宜どのが酒に泥酔した挙句、口走った
「外国へ渡る事は必停止し給ふべき事なり。漁民の外国に漂着したる者を救はざるは情なきやうなれども、国の安危にはかへ難ければ、豫て漁民等にも告諭し、外国に漂ひたる者は死するに斉しく思はすべし。彼夷人が漁民抔送り来る事は、仁愛の心より起れるのみにあらず。是を口実にして、神国に因を求め、年頃の望を遂げんとする術なり」
なんと、棄民宣言だ。
これをいったい、どういう
村田保や藤川三渓が激怒するのは疑いがない。こんなことを言っているから日本人は海国民の自覚を欠いて、遠洋漁業は甚だしく未成熟なままなのだ、と。
以上はすべて東湖の代表的著作、『常陸帯』からの引用である。
文字の暴力とはこうしたものか。
額の上を金槌でガンガンどやしつけられた気分だ。
ただでさえ花粉の飛散の所為により、頭が重くて仕方ないのに、この追撃はたまらない。
これはたぶん、今この時期に読むべき書ではなかったのだろう。
春には、駄目だ。読書にも時機というものがある。花の季節――そういえば坪谷善四郎に、桜樹に因んだ美談があった。
坪谷善四郎、水哉と號す。
明治三十四年から大正十一年に至るまで、東京市会議員を務めた人物である。
ある日のテーブルスピーチで、彼は次の如く語った。
「曾て荒川堤に、江北村の村長が、多年苦心して黄桜、緋桜、八重桜などの珍種を夥しく集めまして、天下の奇観と称せられましたが、先年荒川放水路の工事の為に、堤を破壊するとき、其等の桜を移植するとて、大部分の木を枯らしましたが、幸に其頃紀州徳川家の御当主頼倫侯が、極めて多趣味の御方で、御自身が史跡名勝天然記念保存協会の設立を主唱せられ、後に同会の会長になられた方だけに、彼の荒川堤の桜の枝を、一々採って大磯の別荘の庭の普通の桜の台に、接ぎ木して保存せられた為に、彼の多数の珍種の桜も、保存せられてある筈です」
(Wikipediaより、徳川頼倫)
実に素晴らしい。
貴族の存在意義とは何か、目の当たりにするの思いだ。
こんな感じの、気分よく膝を叩いて読めるのがいい。
春にはそれが一番だ。
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