いったん海に出た以上、手ぶらじゃ港にゃ戻れねえ――。
額の上にねじり鉢巻きでも結んでそうな、そういう頑固な漁師気質は、どうも日本の独占物ではないらしい。
アメリカでもそうだった。
少なくとも十九世紀、ニューイングランドの諸港に集った、捕鯨船団のやつらは、だ。
(セミクジラ)
彼らが目指すはサンフランシスコ。クジラを獲りつつ、北極海を横切って、西海岸の都市へと向かう。ほぼ同時期の日本国では「桑港」の二文字で表記されたこの街こそが、鯨油取引の中心だった。
航路の危険は折り紙つきだ。
ガスが湧き、暗礁待ち伏せ、氷山さえも押し寄せる。北極海とはそういう海だ。そういう海でクジラを探す。毎年決まって一隻や二隻は海の藻屑だ。一八七六年に至っては、十二隻が沈没している。ライフジャケットなぞ雛形のまた雛形が漸く発明された段階。船員の運命に関しては、敢えて語るに及ばない、推して知るべしというものだ。
既にハイリスクを負っている。
相応のリターンを求めるは、感情的にも勘定的にもあらゆる面から自然であろう。
待てど暮らせどクジラの姿が見当たりません、不運だったね残念無念また来週で済ませられる問題ではない。赤字は断固拒絶する。
そういう場合、彼らは得てしてセイウチを獲った。
鯨油の代わりにセイウチ油でタンクの中身を満たしていった。
(セイウチ)
祥瑞専一が『あらすか物語』で伝えるところに依るならば、一八七〇年~一八八〇年の短期間中に十万頭のセイウチが、アメリカ捕鯨船団により殺戮されたそうである。「一八七四年には、オンワード丸のごときは、一千頭を捕獲し、一八七七年には、マーキュリー丸は、二千頭と云ふ記録を示してゐる」。海が真っ赤に染まる数字だ。セイウチにとっても悪夢だが、北極圏の先住民族――エスキモーらにしてみても、この濫獲は災禍であった。
なんとなれば、セイウチの肉は、この人たちの常食だったからである。
それが絶滅間際となれば、勢い彼らの生活も、文字通り熱量を失って衰微するより他にない。
斯様な犠牲を強いてまで、利益を求めるべきなのか? 文明国の看板に相応しい態度と言えるのか?
そういう疑問は書生談議の材料たるに止まって、実際の現場では見向きもされない。
金銭欲は愛国心を凌駕する。
それが人間の常態だ。大日本帝国時代、三土忠造が早くも気付き、絶叫した真実である。
愛国心に於いて既に然り。況や先住民の文化保護だの、動物愛護の精神だのに於いてをや。十九世紀のアメリカ人に、そういうものを求める方が無理だった。
目下、セイウチの個体数は、ざっと二十五万頭。
そのうち二十万頭がアラスカ附近――ベーリング海やチュクチ海等に棲息しているそうである。
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