『捕鯨図識』が面白い。
読んでそのまま字の如く、クジラという、地球最大の哺乳類につきあれこれ綴った本である。
(Wikipediaより、ザトウクジラ)
著者の名前は藤川三渓、讃岐の人、文化十三年の生まれ。黒船来航前後から藤森天山・大橋訥庵等々の「勤皇の志士」と交わりはじめ、思想的影響を大いに蒙り、幕末の動乱に際しては「龍虎隊」なる一種の農兵部隊を組織して「熱誠」を顕そうとした。
奔走家といっていい。
が、そうした態度が逆に藩の忌むところとなり、ほどなく立場を失って、牢にぶち込まれている。
物理的な必然性を伴って改革者に付き纏う、反動現象であったろう。
龍虎隊を編成し、その指揮官に就いたのが文久三年六月のこと。
同年十月に下獄したから、半年にも足らぬ盛時であった。
しかし時勢がいつまでも、三渓を獄中に置いておかない。
鳥羽・伏見に於ける幕府方の敗戦は、讃岐高松藩をして従来の方針を一擲する契機となった。佐幕から勤皇への鞍替えである。なにも珍しい話ではない。自家保存こそ武士の本能、勝ち馬に乗るのはごく当然の
その工作の一環として、彼らは急ぎ牢の中から勤皇の志士らを引っ張り出して、今更ながらに下にも置かぬ対応をした。
藤川三渓も、やはりこの時、娑婆に解き放たれている。
以降、戊辰戦争の期間を通して、三渓の活躍はめざましい。庄内各地を転戦し、奥羽監察使とかいう大層な肩書きをくっつけたかと思いきや、身をひるがえして南部監察使の任を帯び、盛岡城を接収するなど精力的に働いた。その慌ただしさは、永く牢に逼塞するうち、積もりに積もった鬱懐を一気に散ずるようだった。
やがて維新回天の大業が成る。
新時代「明治」の空の下、三渓はなかなか先進的な史観というか、世界認識を述べている。曰く、東洋人が西洋人に征服され、塗炭の苦しみを味わったのは、遠洋漁業が彼に発達し、我に発達しなかった所為が第一と。
そのあたりの機微につき、三渓自身の文章から窺うと、
よって日本も国防のため、斯業に磨きをかけねばならぬと、強く訴えかけている。
一定の理は踏まえているといっていい。
『捕鯨図識』もその目的に資するため、三渓が打ち出した策のひとつだ。
クジラについて、平易な文で、実に深く突っ込んでいる。
たとえば鯨油ひとつをとっても、
鯨油に三等あり、其上等を頭部の油と為す、中等を背油と為す、下等を全身油となす。頭部の油は頂骨内部大凹処に在り、所謂脳髄、其油常に温なり、一たび出て冷気に触れば、忽ち凝結して塊となる。(中略)我日本の人は頭油の貴を知らず、鯨を獲れば、之を波濤の中に斬る、故に頭油は悉く海底に沈淪す、豈亦惜からざらんか。此れ目を肉に注ひで、意を油に注がざる故也。
現代人の私をしてさえ、学ばされる部分が多い。
ああ、いや、そういう堅っ苦しいお題目は抜きにして。――読み物として、これは純粋に面白い。
(引き揚げられる鯨)
鯨頭油の価廉なるときは一
こういう具体的な数字を添えての儲け話は、一般の欲心を刺激する、優れた手法であるだろう。
我も後に続かんと、一人でも多く駈け出してくれるのを期待したに違いない。
結局大衆を動かさなければ、彼の目的は達成されないのだから。
洋上鯨を縛するの後、其肉を截切するも、亦極めて神速を貴ふ。然らざれば則鯊鮫、鯨血の香を聞て、群り来て死鯨の四辺に聚り、争て之を嗾ふ、一時に此大体咋ひ盡す。又海鳥あり、形鴎に似たり、鯨の出る所、必ず追てその上に飛翔す。鯨の死を見れば、数千群聚人を避けずして肉を食ふ、
海の屍肉漁りども。
リアリティのある描写であった。
ずっと昔、深海に落ちたクジラの遺骸に何十匹ものヌタウナギが群がって、貪欲に身を啄んでいる光景を液晶越しに見たものだ。
何かしらのドキュメンタリー番組の一幕だったはずである。おぞましくも美しい、アレを久々に想起した。
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