詳しくは、「夷狄之有君、不如諸夏之亡也」。夷狄の君有るは、諸夏の(君)亡きが如くならず――夷狄でさえ君主を戴くこと、その重要さを心得ており、みすみすそれをぶち壊しにしてしまった我が中華のようではない。
もっともこの項には別の解釈も存在する。「夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かずなり」と読み下し、たとえ君主不在の状態でも諸夏――中華は君主の治める夷狄に勝る、上下の真理は絶対にして揺らぐこと無し、と主張しているとするものだ。
が、『日本魂による論語解釈』では別項にて孔子の発した「子欲居九夷」――いっそのこと東の九夷の国に渡りたい、弟子は野蛮できたなくどうしようもない場所だと止めるが、なんの、わしのような君子が住んでいて、いつまでも野蛮なままであるものかよ――という言動を根拠とし、「不如諸夏之亡」はあくまで乱れに乱れた自国の現状を嘆くものだという、前者の解釈を採っている。
吹き散らされし
(太田覃)
中国でケシといったら連想されるものは一つしかない。
アヘンである。
快楽を齎すかの煙が猖獗を極めたことにより、見るも無惨に荒れ果てた清朝末期の有り様を嘆いた歌と見ていいだろう。
御園の春を 鳥ひとりうたふ
(平田長)
こちらはハワイにて作られた歌。「君」とは1893年の革命により玉座を追われ、街外れの小さな民家に移されたリリウオカラニ女王を指しているだろう。
一字一句、亡きハワイ王国への同情心に満ちている。
これはなにも平田長に限った話ではなく、当時の大日本帝国で、ハワイ革命のニュースに不快感を催さなかった臣民は絶無に等しいといっていい。皆、こぞって旧王家に同情し、裏で糸引くアメリカを憎んだ。
彼らの脳裏には、明治十四年の三月に本邦へと来遊せられた前ハワイ国王・カラカウアの雄姿が、未だに色濃く印せられていたのである。なにしろ日本国開闢以来、外国の国家元首を迎えるなど初めてのこと。そう簡単に忘れられる筈がない。
(Wikipediaより、カラカウア)
当時皇室ではカラカウア王を迎えるに浜離宮内の延遼館を宿に充て、しかも山階定麿宮王――後の元帥海軍大将東伏見宮依仁親王――が足繁く通い、王の話相手を務めたという。
カラカウア王は若干15歳のこの皇族の才気煥発たる立ち居振る舞いに驚き、かつ敬服し、明治天皇に対して「彼を養子としてハワイの王位を継がせたい」と申し入れたほどである。もっともこの提案は、日本政府に断られ、実現することはなかったが。
とまれ、こうした王の
ましてや当時は明治十四年。日露戦争どころか日清戦争さえ未経験の日本は、己がどれほどのものか知らない、自分で自分の実力を測りかねている状態であり、にも拘らずここまで
――そのカラカウアの王国が。
奸佞邪智なる白人の魔手に脅かされ、いやもうほとんど奪取されんとしているのである。
悲憤慷慨の旋風が巻き起こるのは当然だった。
その意気が露骨に顕れたのが、世に云うところの「礼砲問題」であったろう。
1893年の革命時点でハワイには、二万五千人もの日本人が既に居り、彼らの安全保障の為に日本政府は軍艦を派遣。「金剛」「浪速」の二隻がホノルルへ入港するに至ったのである。
到着後、「浪速」艦長・東郷平八郎海軍大佐は総乗員を艦橋下に集め、次のように訓示した。
「一同へ一言する。改めて申さずとも、諸氏に於てはすでに十分の覚悟があると思ふが、本艦が当地に碇泊してをるのは、皇国領土の一部がここへ延長したと意義を同じくするものがあることを忘れてはならない。この観念よりして、我々の責任は一層重大となるのである。従って今後変乱等の有無に拘らず、我々の一挙一動は直ちに御国の品性にまで影響を及ぼすものであることを覚悟し、軽挙妄動を慎むと同時に、いよいよ決行の場合には、少しも躊躇することなく、断乎として進むべきに進み、以て皇国武人の本領を充分発揮せねばならない」(昭和三年刊行。小笠原長生著『鐵桜漫談』9~10頁)
今や自分達を通して、日本国が測られている――。
それを自覚して寸時たりとも忘れるなと部下に厳命した東郷が、しかしハワイ仮政府――ありようはアメリカの傀儡政権――からの礼砲に関する申し入れがあった際、
「仮政府と自称するやうな曖昧なものの大統領とかに対して、礼砲を放つなど以ての外だ。少しも懸念するに及ばぬ、断乎として謝絶するがよい」(23頁)
このように答えてのけたことは重大だ。刹那的な意気でなく、ぶの厚い、余程の覚悟があったとみていい。
このため仮政府大統領ドール氏が米国旗艦ボストン号を訪問した際、短艇に乗る彼に対して各国軍艦は21発の礼砲を撃ち鳴らしたが、独り日本の軍艦のみは終始沈黙を保つという凄まじい光景が現出した。
礼砲問題はこの一回のみにとどまらない。翌1894年1月17日には仮政府建設一周年の式典のため、その外務大臣より在港の各国軍艦に向かい、
「満艦飾を施したる上、正午には礼砲を放ちて祝意を表されたし」(25頁)
との依頼が通達されたが、やはり東郷平八郎は、
「お断りする」
とにべもなく撥ねつけ、ついにホノルル碇泊中、一発の祝砲をも撃たずに通してのけたということだ。
これが日本の意志なりと、強烈に表明してのけたのだろう。
ついでながら東郷を艦長に戴く「浪速」には、かつてカラカウア王と語らった山階定麿宮が、小松若宮依仁親王と名乗りを改め乗船しておられたそうな。
縁とは、まことに奇しきものだ。
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