穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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明治六年、正月一揆 ―「人生最悪の三が日」―


 多くの大分市にとって明治六年という年は、銃声と共にはじまった。


 一揆のせいだ。


 菊治たらいう湯の平ざいの百姓が音頭をとって不平分子を糾合し、どっと押し寄せ、阿鼻叫喚の巷を現出。街を荒らしに荒らしたのである。

 

 

(大分港)

 


 この連中が目の敵とし、打ち壊して火をつけたのはたとえば官庁、たとえば会所、それから写真屋、牛肉屋――明治の御代に突入してから創設された何もかもであったから、その性質に関してもほぼほぼ察しがつくだろう。


 過渡期に於ける反動現象、典型中の典型だ。


 正月に火蓋を切ったのが、辛うじて特徴的である。


 昨日までザンギリ頭を見せびらかして「これぞ新時代の象徴なり」と大通りを闊歩していた青年たちは、こぞって命の危険を感じ、どこか薄暗い隅の方へと身を隠さねばならなくなった。


 安藤健三も、その中のひとりといっていい。


 市内有数の旧家の子息、平時ならば「御曹司」の肩書きが少しも不釣り合いでない、十九歳の好青年だが、しかし事件の最中にあっては民家の床下に潜り込み、地虫のように息を殺して災禍が通り過ぎるのをただひたすらに待ちわびる、屈辱恥辱言語を絶する汚辱に塗れる憂き目に遭った。


 ふと気を抜くとネズミが裾から突っ込んできて歯を立てる、こんなひどい三が日を経験したのは後にも先にも一度だけ――明治六年のみだった。命こそなんとか拾ったものの、逆に言えばそれだけで、失ったものはあまりに大きく、取り戻す術も絶無であった。

 


 私の宅も、十二大区制中で第三会所に用立てゝ置きましたので、矢張打壊しの標的となり、彼等は、打壊しと共に二階に馳上って、置いてあった凡そ三四百挺の鉄砲を取って乱発し、家財道具を、ドシドシ外に運出して、町の両角で火を附けたのです。私の家は、自分で云ふのは変なものですが、大分市でも昔からの旧家なので、家財道具の類は可なり沢山あったので、三日三晩その火が消えなかった程でした。それに稼業が酒屋でしたから、一揆の仲間はこれ幸ひと、鏡を抜いて、呑散らし、酒樽を打壊して泥溝へ棄てたりしたので、当分酒の香が消えなかったほどです。(『江戸は過ぎる』211頁)

 


 有り体に言えば、この被害により彼は以後、無一文に成り果てた。


 悲惨の二文字も生温い。

 

 

大分県、柴石温泉)

 


 其当時の怖ろしさは今憶出しても身震ひが出ます。(中略)あれが大きくなると西洋なんぞにはよくある革命とか何とか云ふものになるのでせうが、実に惨酷で馬鹿々々しいものだとつくづく思ひました。(213頁)

 


 こういう感想もむべなるかなだ。


 市民革命を経験していないのは、日本史にとり決して不幸な事実ではない。


 むしろ誇りとするに足る。


 思い返せばわが甲州でも同じころ、大小切り騒動で若尾逸平が宅を襲われ打ち壊されて、這う這うの体で逃げ出していたものだった。


 若尾はみずから門を開いて炊き出しをやり、一揆に対する支持の姿勢をあからさまに示したが、それでもやられた。


 勢いを得た暴徒というのは、まったく一個の自然災害同然だ。理屈もなにも通じない、抵抗どころか阿諛追従も叶わない。

 

 

Ippei Wakao

Wikipediaより、若尾逸平)

 


 維新前後の農民暴動を調べるたびに、富豪・商人・地主等々――いわゆる金持ち連中への同情心が湧いてくる。毎度毎度、こいつらロクな目に遭ってねえなと憐憫の念がどうしようもなく迫るのだ。


 これもまた、ある種の判官贔屓だろうか。


 政府による生命財産の保護というのは、全く以って重要だ。

 

 

 

 

 


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