穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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大切小切ものがたり・後編 ―その始末―

 

 慈悲に縋ろうとした。


 だが拒絶された。


 ならば力に訴えて、無理矢理にでも然諾を引き出すより他にない。


(先祖代々、我らはそうして生きて来たのだ)


 それを想うと、血が酒に変わるほどのくるめきを感じる。


 甘美な陶酔というものだろう。この陶酔は、家を保つことが最大の徳行とされた時代の人間でなくばわからない。


 古めかしい言い方を敢えてするなら、小我を去って大我に至る心境である。己が背後に連綿と続く血脈を自覚し、そこにひたひたを身をすり寄せてゆく場合、彼らは決まって無上の悦びに包まれるのだ。


 この先、甲府の街中で、たとえどのような乱暴狼藉を働こうと、それは狭矮な自分一個の欲からではなく、祖霊の集合意識が然らしむるものであり、直ちに「義挙」として純化され祭り上げられる予感があった。


 各々がそういう意識でいる。


 げにおそるべき進軍だった。


 左様、進軍。


「軍」の字を使わざるを得ぬほどに、都合六千からなるこの人間集団の活動は騒然たるものだった。


 なにせ、火縄銃を担いでいる輩すらいる。

 

 

Edo period rifles

 (Wikipediaより、火縄銃)

 


 おそらくは鳥追い用の猟銃だろう。音で雀を脅かして、稲穂をついばまれるのを防ぐため、こういう道具を持っている農家は存外多い。それを態々引っ張り出して、折に触れては中空めがけ、


 だぁーん


 と盛大に放つのである。


 その度に周囲の人垣が、割れんばかりの喊声を上げた。


 極度の緊張状態――まるで神経という神経が、皮膚の上に露出してしまったような――に置かれた彼らにとって、銃声の刺激は強烈すぎた。電流を流し込まれたといっていい。一発聴くごとに正気が剥げて、その下から今まで知りもしなかった自分自身が誕生するのを目の当たりにしただろう。


(なんということだ)


 その有り様に、駆けつけた邏卒が恐怖した。


 明治初頭の警察官の謂である。


 鎮圧が彼らの任務だが、


(とても、無理だ)


 明らかに達成は不可能だった。


 戸板一枚で山津波を喰い止めるようなものである。無謀な挑戦と言わざるを得ない。事態の解決を図るには、それこそ歴とした軍隊の出動が不可欠だろう。


(迂闊に触れれば、逆に火に油を注ぐ悪果を招く)


 賢明な判断といっていい。


 置物と化し、ただ呆然と人の流れを見送るだけの我と我が身を、彼らはそのように正当化した。


 たまらないのは県庁である。ほとんど無抵抗で包囲される憂き目に遭った。このとき


「大砲で連中の目を覚まさせよう」


 と、ヴァンデミエール13日のクーデターに於けるナポレオンばりの提案をしたのは、権参事富岡敬明。後に西南戦争が勃発した際、熊本権県令として熊本城に籠城し、阿修羅の如き薩摩兵児どもを向こうに回して54日間を戦い抜いた、筋金入りの猛者である。

 

 

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(『ナポレオン 獅子の時代』6巻より)

 


 もしこの提案が受け容れられていたらば、あるいは富岡、「日本のナポレオン」として名を残したかもしれない。


 その後の履歴も随分と変わっていたはずだ。


 が、そうはならなかった。土肥謙蔵県令の反対により却下された。この場合、土肥が穏健というよりも、富岡が激越過ぎたというのが正確な見立てであったろう。


 もっとも大砲の使用を禁じたりとて、土肥県令になにか妙案があるわけではない。


 外の様子を見る限り、声をはげまし、整然と理を説き、諄々と諭してやったところで、狂気渦巻くあの集団には如何ほどの効き目もないだろう。石地蔵を蚊が刺すようなものである。


 事実、このときの騒動で、若尾逸平宅などが、そりゃもうひどい目に遭っている。


 後に甲州財閥の旗頭として名を轟かせるこの人物は、一揆の発生を察知するや、門を開いてめしを炊き、百姓どもを支援する姿勢を如実にみせた。


 そうすることで難を避けんとする目論見もむろんあったが、より以上に一人の甲州人として、純粋な義侠心に動かされた部分が大きい。


 が、さしもの若尾逸平も、集団の狂気がどれほど抜き差しならないものか、十分に理解できていなかった。


「斯くも微温なまぬるきおためごかしに、我らがたぶらかされると思うてか」


 と、群衆は却って激昂。障子を蹴倒し雨戸を破り、土足で屋内に雪崩れ込み、略奪の限りを尽くした挙句、ついには三棟の蔵をぶち破って生糸・衣類を引きずり出して、道路に積み上げ火を放ち、すっかり灰に帰させてしまった。


 この若尾邸襲撃事件に関しては、逸平が不良蚕種を取り締まる立場に当時あり、それで農家の怨みを買ったとか、いやいや阿漕な両替をやっていたゆえのことだとか、背後を探る研究が多い。


 が、貧乏人が武器を手にして集団を成せば金持ちを殺したがるのは、ごく当然の生理であろう。


 もはや物理法則に等しい必然性といってよく、事々しい理由など、もとよりあろうはずがない。


 彼らは衝動の命ずるがまま、ただ壊したいから壊し、焼きたいから焼いたのだ。


 むしろ命まで奪られなかったぶん、若尾逸平は幸運だった。

 


此日他の方角より甲府城下より進入したる一群は別紙山梨県庁の布達書にも見ゆる如く、甲府市街の町家を破りて、器物を壊し、火を放って非常なる乱暴を働きたりとのことなれども、吾村地方に於て其事を知りたるは、其事のありたる後の日であった。(『維新農民蜂起譚』246頁)

 


 と、水上文淵翁の記録にも、打ちこわしに言及している部分が発見できる。

 

 

Ippei Wakao

 (Wikipediaより、若尾逸平)

 


 まあ、それはいい。


 結局のところ、県庁としても陥ってゆく結論は先の邏卒と同一だった。


 すなわち、この場をなんとか誤魔化して、軍が到着する時間を稼ぎ、逆らう気すら起きようのない圧倒的な武力を楯に事態を治める。


 それが一番現実的で、かつ流血の少なくて済む道だろう。そのためならば、どのような飛躍も厭わぬ覚悟が土肥県令には存在した。具体的には、


(大障子を取り外すことだ)


 取り外して、その裏側にくろぐろと、以下の文字を書くことだった。すなわち、


 ――願之趣聞届候事


 わかったわかった、降参だ、そのほうらの言い分はよく理解した、万事その通りにするからどうか鉾を収めてくんろ、という七文字を。


(あっ)


 果然、効果は絶大だった。


 すわ県庁が折れたぞと、一揆の衆は素直に信じ、ほとんど抱き合わんばかりの喜びを呈した。信じてよかった。なにしろ障子の裏書のみならず、歴とした公文書――黒印状も併せて発行されている。

 

 

Dohi Kenzo

 (Wikipediaより、土肥謙蔵)

 


 この上さらに何がしかの保証が欲しいと強請るなら、それこそ県庁吏員の何人かを人質として引っ張っていくより他になく、そのような飛躍は居合わせた誰の頭にも発想すら浮かばなかった。この点、確かに一揆側は「お上」に負けた。


 後日、以下の如き廻状が村々に布達されるに及んで、甲州人の安心はいよいよ盤石なものとなる。

 


当国大小切石代据置之儀追々歎願申達候に付、願之趣聞届候條、於村々得其意、此上妄動無之様小前末々迄無洩可相達旨、此廻状至急継送従廻尾可相返者也
 壬申八月廿三日    山梨県

 


 これでなお且つ疑えというのが無理だろう。


 が、すべては詐略であった。


 甲州人が勝利の夢に浮かれている裏側で、兵力は着々と甲府盆地に集結し。


 翌月三日、すべての準備を完了させた県庁は、ついに本来の意を遂げた。甲斐武田氏菩提寺たる恵林寺に、騒動に参加した村々の代表を呼び集め、軍人たちの警備する中、以下の宣告を下したのである。

 


徒党強訴、高札面にも掲示これ有り厳禁の段は銘々弁へ居り乍ら違犯致し、大小切据置歎願を名とし陰に兇器を携へ数千人府中へ押入容易ならざる所業に付、即時打払べきの処、随従附和の者は勿論無辜の市民迄多数非食の死に至らしめ候は、実に忍び難きに付、朝廷へ対し奉り深恐入候へども、一時の権略を以願意聞届候趣は取消候條、渡置候印書速に返上致すべき者也

 

 

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恵林寺黒門からの眺め)

 


(えっ)


 一同、耳を疑った。


 お前らの要求に屈したのは、あれは一時の弁法だったと、権略だから無効だと、白昼堂々行政府が口にしたのだ。


 あまつさえ無効だからとっとと印書――黒印状を返却しろとは、なんという横紙破りであったろう。


 が、もはやどうしようもない。既に甲州人士六千は勝利の実感に浮かれきり、酒宴を張ってさんざん楽しみ、その後片付けもとっくに終わったあとなのである。


 心気は緩みきったといってよく、ここから再びあの緊張を取り戻すなど、仙人でも呼んで来て、その神通力にあやからない限り不可能だった。


 おまけに今度は県庁も剥き身にあらずして、軍隊の銃口に物々しく守護まもられている。


 竹槍を突き付ける難易度は、果てしなく上昇したといっていい。どう楽観的に観ようとも、再度の蜂起が成る確率など毫も見出し得なかった。決着はついた。すべては終わった。


 やがて首謀者三名のうち、小澤留兵衛、嶋田富十郎の二人に死刑が下され、甲府山崎刑場に於いて執行された。


 なお、彼らは逮捕されて後の取り調べにて、こぞって「首謀者は己一人であり、他の二人は巻き込まれただけ」と供述しており、担当官をいたく感心させている。


 彼らを義民と看做すか否かは議論の余地が存在するが、少なくとも漢であったことは間違いないといっていい。


 同年十一月十日、二人の首に縄がかけられ、それぞれ息が絶えたとき、数百年の長きに亘って脈を保った大小切法も、同時に生命を失った。


 首謀者中、唯一死を免れた倉田利作はその後長らく牢にあったが、明治二十二年二月十一日、憲法発布の大赦によって罪をゆるされ、出獄している。


 やがて恵林寺の境内に、大小切騒動を後世に伝える碑が建った。文は裁判所書記望月直矢の撰にして、揮毫は市川の渡辺信、そして篆額を担当したのは驚くなかれ、従三位勲三等富岡敬明その人だった。

 

 

Keimei Tomiaki

 (Wikipediaより、富岡敬明)

 


 富岡の中で大小切騒動はよほど大きく、解決に騙し討ちを用いたのが遺憾であり、


「あの二人の首謀者が埋められている甲州の地に、自分も骨を埋め申し訳としたい」


 と、平素から人に語ったという。


 晩年、彼はこの言葉を実行し、山梨県西山梨郡里垣村――今で云う中央線酒折駅があるあたり――に一家まとめて移り住み、そこで生涯を終えている。


 享年、八十八歳。村人の心をよく掴み、名誉村会議員にも任命されて、地域の発展に力を尽くした人だった。

 

 

 

 

 


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