本国からの通信が漸く届いた正確な日付を、鶴見三三は憶えていない。『明日の日本』中に於いても、「八月九日か十日であったか」と曖昧な語り方になっている。
通信を受けて以後の展開が、灰神楽の立つほどに慌ただしかった所為であろう。日記をつける暇もなかったというわけだ。
8月4日に英国が参戦して以来、毎日欠かさず大使館に立ち寄って本国の動向を訊ねては、職員の困惑した表情のみを手土産に虚しく辞去するしかなかった鶴見だが、その日は明らかに館内の空気が異なっていた。
触れれば裂けんばかりに張り詰めている。
訊けば、丁度暗号電信が到着したばかりだという。
館員という館員が皆、その解読を固唾を呑んで待ち焦がれている最中であった。
(ついに来たか)
職員の緊張は留学生の鶴見にも一瞬にして感染し、胃の腑を弱火で炙られるような、この上なくじれったい時間が暫く続いた。
やがて解読が終了し、鶴見たち留学生の集められた部屋に息せききって駆け込んで来たのは重光葵。のち、幾度となく外務大臣に就任し、1945年には戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印したこの人物も、1914年のこの段階ではいち書記官に過ぎなかった。
とまれ、重光葵の言うところでは、
「最早諸君はドイツにゐる場合ではない、一日も早くドイツを引き上げろ、それには日本文字で書いたものは勿論、横文字の書物も持って行かぬがよろしい、それに行く先は英国か、スイスの二方面ではあるが、何れにしても国境通過が面倒である、場合によっては五、六マイルは歩く覚悟が必要である(12頁)」
これを受け、居合わせた誰の眼にも日本の腹の内がはっきり視えた。祖国は
とすれば、自分達は敵地の真っ只中に居ることになる。
(冗談じゃない)
気の早い者はその日のうちに大荷物を抱えて大使館を再び訪れ、それを地下室に放り込み、小さな手提鞄一つの身軽になると直ちにドイツから脱出していったケースもあった。
が、鶴見三三その人は、8月15日に至るまでベルリンから出てもいない。
(ワッセルマン博士に暇乞いをしなければ)
律義にそんなことを考えていたあたり、よく言えば高潔、悪く言えば暢気な人柄なのだろう。
暢気といえばこの人は、開戦直後にワッセルマン博士の語った、
「戦争になったが、これは永く続かない、まづ三ヶ月か半年位のものだ、ドイツの策戦は先づフランスを叩き一ヶ月でパリを落し入れ、後東部戦線に全力を注ぎ露国を潰滅するのだ。参謀本部では長年研究の結果策戦が出来て居り、ドイツの世界制覇も近き将来である。だから君はベルリンに止まり、此処で勉強してゐて差し支はない。ベルリンは一番安全な処だ(10頁)」
所謂「クリスマスまでには帰れる」式の文言を半ば信じ、更にワッセルマン博士自身もゆくゆくは軍医として前線に向かう所存だと打ち明けられると、ついそれにつり込まれるような格好で、
「それならば、いっそ、自分も」
ドイツ赤十字の手伝いでもしましょうかと打診してしまったほどである。
斯くも威勢のいい前言を、もう翻さねばならぬかと思うとなんとも気が重かった。
(鶴見三三、近影)
が、鶴見は後ろめたさに屈しない。
あくまでワッセルマン博士に別れを告げに赴いた。
「先日はベルリンにふみ止まってゐて勉強するやうにお話しましたが、きのふ大使館に行き今後の態度につき相談して見た処、今やドイツの周囲は皆敵国となり、吾々ベルリン在住の日本人と本国との間には通信も絶たれ、送金して貰ふことも不可能になった。それでは勉強したくとも金が無い、従って一時中立国に立ちのくより方法がない。過日のお話によると此の戦争は三ヶ月、長くて半年とのことであるから戦争が済んだなら、も一度此処に来て勉強をさしていただきたい(13頁)」
鶴見は弁じた。
日本が対独開戦に腹を決めたということについては秘匿を守り、退去の理由をあくまで経済的事情に求めながら。
実際、これは嘘ではない。留学生の中にはいざドイツから脱出しろと言われても、旅費の工面がどうにもつかぬ貧乏学生が相当数いて、彼らのために大使館は官金を引き出し一人あたま500マルクづつ貸し付けてやったほどである。
が、この程度のカモフラージュに惑わされるほど、ワッセルマンとは甘い男ではなかったらしい。
鶴見の言葉を聞くにつれ、彼の表情はこわばりを増し、
「なるほどそういう事情なら、ドイツを立ちのくのもやむを得まい」
と一応は首肯する態度を見せたものの、「しかし」とすぐさま付け加え、
「併しはっきりと申し渡しておくが、日本がこの戦争に中立を守ればよし、然らずしてドイツの敵となる場合は、仮令戦争が済むでも君をこの研究所で勉強さする訳にはゆかない。否独り君ばかりではない、凡ての日本人留学生に対しドイツのどの大学も、どの研究所でも勉強するのを許さなくなるだらう(同上)」
一句一句、杭でも打ち込むような口調で以って、斯く厳命したのである。
(……見破られたか)
ここで恫喝されたと不快感に駆られるよりも、師に偽りを述べたことへの後ろめたさが先行し、思わず悄然としてしまったあたり、鶴見の人の好さが窺える。
その様子を見て、ワッセルマンの方でも
(言い過ぎたか)
と思ったのだろう。やや表情を緩めて、
「それで君は、どの中立国に向かう気かね」
と鶴見に訊ねた。
「オランダに行くつもりです」
「ああ、オランダなら」
自分の友人も大勢いる、紹介状を書いてやるから彼らを訪ねると良いと言い、すぐにその場ですらすらと、二三枚の手紙をしたため渡してくれた。
もっともこの紹介状を、鶴見が使ったかどうかは定かではない。
たぶん、未使用のまま鞄の奥に秘されたのだろう。何故なら鶴見は確かにオランダに向かうことは向かったが、そこに留まることはなく、フリシンゲンの港から、イギリスに直行してしまったからである。
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