西暦一六四一年、江戸時代初期、三代将軍家光の治下。寛永の大飢饉がいよいよ無惨酷烈の極みへと達しつつあったその時分。幕府の命で、三十人の首が斬られた。
比喩ではない。
そっくりそのまま、物理的な意味で、である。
彼らに押された烙印は「奸商」ないし「姦吏」のいずれか。
囲炉裏端の筵を刻み、煮込んで喰らう。そんな真似さえ百姓たちの間では常態化しているこの苦しみの只中で、なおも物資を不当に溜め込み値を吊り上げて、もって私腹を肥やさんとした。そういう
(江戸城、幕末に撮影)
――ざまをみよ。
庶民はむろん狂喜した。さもありなん、「
そうでなくとも、金持ち連中の不幸ほど貧乏人の耳に快い話柄というのもないだろう。
このあたり、江戸幕府はよく大衆の望みを理解していた。
いつの時代、どこの国であろうとも、買い占め人は嫌われる。
現代日本社会でも、転売ヤーは蛇蝎視されるのが常であり、ことによっては殺人犯より同情のない、冷たい視線に晒されるのも屡々だ。
普段嫌われ者の国税局も、唯一転売ヤーを追い込む場合に限っては拍手喝采で行動すべてを肯定される。
徳川家とその官僚機構もこの連中の対処には随分手を焼かされたようであり、たとえば寛文六年――西暦一六六六年――の御触れなどはかなり大胆で面白い。
米、大豆、大麦、酒、塩、薪炭、菜種、胡麻、油、魚油、そして鯨油に至るまで――。
この年以降、江戸府内にてそういうものを買い溜めし、あるいは貯蔵するとかいう場合、幕府への届け出が必須ということになったのである。煎じ詰めれば、どこの蔵にどんな物資がどれだけしまい込まれているか、幕府が管理せんとした。
この届け出を怠ったり、報告されていない物資が蔵から発見された場合は、本人はもとより借家・店借り・地借り・諸問屋・商人共々、皆ことごとく同罪である、心得よ。――時代名物、「連帯責任」の発露であった。
現実にどの程度まで機能したかは別として。この時代、既にこういうことをやろうとしていた事実そのものが興味深い。
技術の進歩に後押しされて、やり方こそ変遷すれど。統治の原理は四百年前、否、ひょっとすると数千年のむかしから。――人が人を御さんとする要諦は、些かも
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