イギリス人で時計と聞くと、私の脳にはどうしても、『ジョジョの奇妙な冒険』がまず真っ先に浮上する。
第一部「ファントムブラッド」の序盤も序盤、ジョナサン・ジョースターの懐中時計をディオが勝手に持ち出して、しかのみならずそのことを嫌味ったらしく見せつけているあのシーンが、だ。
江尻正一なる日本人がかつて居た。
ロンドンにだ。
大正八年五月というから、欧州大戦の余燼も強いそのころにブリテン島の土を踏み、以降およそ七ヶ年、彼の地で過ごした人物である。そしてその間、南北ヨーロッパはもちろんのこと、遠くアフリカ大陸にまで脚を延ばして知見を広げた。
この江尻がイギリス人の国民性――古いこと、年代を経ていることをとにかく尊び、背負っている歴史によって物品の価値を決定づける――を説明するに、まさしく時計を宛てているのだ。
ちょっと長いが、せっかくの奇遇、ここに紹介してみたい。
およそ世界の国々の中でイギリス人程、自国の歴史を重んじ、尊び、自国の古いものを喜び愛し、また大切にする国民は少ないであらう。それは自国のものは何事にも他国に優れてゐるといふ、先入的感じを抱いてゐる結果である。(中略)例へば日本人は、その父親がもった時計を、母親がその息子にやらうとするならば、その息子は直に「こんな旧式の時計なぞは、今頃流行遅れで恥かしくてもてやしない」といって顧みないであらう。イギリス人は反対である。自分の父親のもったどころではない。その一代先きのグランド・ファザーのもってゐたところの時計でさへも、得意になってもち歩くことをむしろ名誉としてゐる。それは決してその時計がそんなにも丈夫で、また正確にできてゐるといふばかりではない。それは、時計などといふものが、まだ世間に極めて少かった時代の昔から、自分の祖先はかゝる時計をばもち得た立派な正統なる家柄であったのであるといふ誇りが、自然と証明せられることを喜ぶ。この性格こそ、やがてイギリス人の愛国の精神である。(『世界地理風俗体系 英国篇』96頁)
(ロンドン塔のある風景)
実に見習うべき精神性だ。
なんというか、自慢の仕方がすこぶる渋い。洗練されていると言っていいのか。行う側にも受け手側にも相当以上の洞察力が必要とされ、にも拘らずそのやり方がスタンダードになっているというのであるから、まこと敬服に値しよう。
なお、以下は蛇足かもしれないが。――
英国の渋さに慣れ親しんだ日本人がやがて祖国に
彼らにとって熱しやすく冷めやすい日本人の性情は持久力の欠如として受け取られ、流行から流行へ飛び移るのに余念のない有り様は、
世の潮流にいちいち過敏に反応し、絶えずふらふら動揺している浮草の境涯では駄目だ。我々は沖の岩礁でなければならぬ。どれほどの大波が押し寄せようと
英国新聞記者協会の在外会員、杉村楚人冠なども、如上の論旨に与するところが多少あり、
――流行とは、強き者の真似なり。故に流行を追ふとは、弱き者の自覚なり。かかるが故に、流行を追ふは、時として謙遜の意を表することとなるべし。
このような皮肉を敢えてして、世相人心の引き締めを図ろうとしたものだった。
(ロイヤル・エクスチェンジ周辺)
江尻正一にも、やはり同様の傾きがある。
日本の芝居と英国の芝居、その両方を見比べて、彼はつくづく思わざるを得なかった。
イギリスでは、日本の芝居のやうに幕毎に必ず人を斬らなければ芝居にならないとは思ってゐない。また義理人情の美しいのはよいが、日本の芝居は無理拵へにした人情であらう。胡椒を態々眼にすりつけて泣きたがるのだともいへる。だから日本では「お芝居だ」というふことは、即ち「嘘」といふことの代り言ともなってゐる。(113頁)
これはまったく至当至言で、いまの日本映画界にもそっくりあてはまる観察だろう。
「今までの四倍泣ける」に始まりかの「ドラ泣き」に至るまで、吐き気を催す謳い文句がなんと性懲りもなく流用されてきたことか。
主演女優をヒステリックに泣き叫ばせさえしたならば、客はただちに感動し、脊髄に通電したかの如く棒立ちになると製作陣は思い込んでいるようだが、迷妄もまた甚だしと言わねばならぬ。
アニメに首座を奪われるのも当然だ。もっともそのアニメにしても、最近は「無理拵へにした人情」がいやに顕著になってはいるが。
分の厚い、重々しき人間性は那辺に在りや。ご都合主義にあらざる展開いま
世には流されないでしまふ涙もある。人よ、涙はただ頬にのみ流れるものと思ふか? 涙はまた内部に向って流れることを知らないか?
よし涙は外に流れずとも、洞窟の天井から落ちる雫のやうに、心の中にしたたるならばそれで十分だ。
生田春月の感性が、ただひたすらに慕わしい。
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