福澤諭吉が居合の達者であったのは、こんにちではもう随分と人口に膾炙された話であろう。
さる剣客がその刀勢を目の当たりにし、腰の落ち着きぶりといい、裂かれる大気の断末魔といい、「もしあれほどの勢いで斬りかけられたら、例え受け止めたとしても、受け太刀ごと両断されるに違いない」と嘆息混じりに語ったと。
これは紛れもなく事実であった。福澤の書簡を手繰ってみると、
還暦過ぎの老躯を以って、
刀身二尺四寸九分・目方三百十匁の太刀を、
雄叫びと共に抜き放ち、踏み込みして宙を斬り、鞘に納める一連の動作を、
一日千回から千二百回、しかも一度も休みを挟まず――「午前八時半から午後一時までに終り休息なし」――、ぶっ通しで繰り返し、
「今朝更に腰痛を覚へず、年中慣れたるが故ならんと子供等へ誇り居り候」――翌日少しの筋肉痛をも覚えなかったと自慢する様子が折々にて見出せる。
常人ならばバットの素振り百回でさえ息が上がろう。
それをバットよりも重い刀で、素振りよりも精確さを求められる抜刀術を、千二百回。
なかなか並の器量ではない。
一万円に描かれた、あの肖像の眼光の、深みというかただならなさにも納得だ。掏摸を瞬息で投げ飛ばして制圧した藤公といい、前歴が侍の政治家ないし論客は、風格というか、やはり特殊な華がある。
幸運にも、小泉信三。
幼少の一時期、福澤邸で母子共に養われていたこの人物が、福澤の居合を直に見ている。
以下、昭和四十一年の『座談おぼえ書き』から抜粋しよう。
私は十歳前後の小児のとき、福澤が庭で居合を抜くところを見て憶えている。三田の慶応義塾の丘は、今は福澤在世の当時とスッカリ様子が変ってしまっているが、福澤の晩年、即ち十九世紀末、二十世紀始めの頃、福澤の居邸は三田の東南隅を占めていた。その丘の麓に下ったところにはほぼテニスコートほどの芝の平地があり、福澤の家ではこれを「ガーデン」と称していた。そのガーデンで居合を抜くのを見たのである。
少し前屈みながら、肩幅の広い福澤が、浴衣、たすきがけ、跣足で(草履ばきであったか?)立ち、かけ声とともに刀を抜き、踏み込み踏み込み、また鞘におさめる。同じことを幾たびも繰り返す。
この思い出を論拠とし、「福澤がスポーツマンであったとは誰れもいわないが、スポーツをやれば相当のところまで行けた人ではなかったか」と小泉信三は推察している。
子供の目にもわかるほど、動作がいちいちなめらかで、堂に入っていたのであろう。
福澤諭吉、やはり日本人が亀鑑とするに足る人物だ。
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