穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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赤露のやり口

 

 以前触れた松波仁一郎について、もう少しばかり語りたい。

 

 

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 昭和六年、彼は欧州歴訪の旅に出た。

 航空機による移動が今日ほど身近でなかった時代である。松波の旅路は日本海を越えて大陸に渡り、北上してシベリア鉄道に乗車、広漠たるロシアの大地を横断し、以ってヨーロッパに入るというものだった。


 時間的にも空間的にも、まことに長大な旅路といっていいだろう。


 半分凍ったバイカル湖や、かつての露帝ニコライ2世最期の地、エカテリンブルク――もっとも当時は革命家スヴェルドロフを記念してスヴェルドロフスクと呼ばれており、松波も「末泥すえどろ」と表記している――を列車の窓からから眺めつつ、兎にも角にも首都モスクワまでたどり着く。


 折しもこの日、5月1日。労働者にとっての聖なる日たるメーデー当日に他ならない。


 その熱狂ぶりをしげしげと眺め、クレムリン宮、レーニン墓所等を順に訪い、見るべきものは見終えたとてホテルに帰った後である。松波が宿泊したのはサボイ・ホテルと云う、歴とした国営ホテルだったのだがあろうことかこのホテル、支払いに際してルーブルの受け取りを拒否したのだ。
 代わりに彼らが請求したのは、アメリカドルに他ならなかった。


(冗談ではない)


 内心、松波は憤慨した。国営ホテルが自国の通貨による支払いを認めぬということは、とりもなおさず政府自身が自分達の発行する貨幣に価値はないと、暗に表白するものではないか。


 だからこそ外貨吸収に躍起になっているのだろうが、いくらなんでもこれはひどい

 手口として拙劣過ぎる。畢竟ごろつきか何ぞかがやるのが関の山な所業であって、苟も一国を裁量する政府に相応しいとは、口が裂けても言えぬだろう。……


 が、いくら顔色を染めて見せても当座の役には何一つとして立たないのである。やむなく、


「生憎、ドルの持ち合わせがない。イギリスのポンドにしてくれ」


 と交渉し、渋る相手に不承不承ながらも認めさせ、どうにか場を乗り切った。


 松波はこのときの体験がよほど不愉快だったらしく、帰国後に出版した紀行文たる『目あきの垣覗き』の中で、


 何と言ってもロシアは陰鬱だ。此国に居るのは不愉快だ。若し大使館の親切なくんば一分たりとも停まるべき所ではない。(59頁)


 と、国全体をけんもほろろに酷評している。

 

 

Flag of the Soviet Union

 


 一事が万事で、ソヴィエトロシアのやり口というのは常にこうだ。周到というよりこすっからい・・・・・・との印象が纏わりついて離れない。オーストリアとの間に通商条約を締結したときもそうである。


 この場合、条約の締結と同時に通商代表を送るのがいわば当然の手順だが、ここでソ連が妙な注文をつけだした。曰く、ソ連社会主義の国ゆえに、貿易をも国営としている関係上、その代表は外交官の一種として待遇されることが望ましい。――…


 治外法権の要求だった。


 やむなくオーストリアがこれを呑むと、果たしていよいよやって来た通商代表の数は、驚くなかれ80人。あまりにも過剰な数だった。


 当のオーストリアにしてみれば、これほど迷惑な話もあるまい。否、迷惑どころの騒ぎでは、到底済ませられる問題ではなかったろう。
 なにしろこの80人が悉く治外法権を与えられ、その特権をいいことに、大っぴらに革命に関する宣伝文書をばら撒いて、盛んに国内の不平分子を煽動し、革命への機運を造ろうと工作に精を出したのである。
 その対応に、政府はさんざん苦しめられる破目になった。


 こんなことを平然とやらかす国が、よく1991年まで崩壊せずにいられたものだと、いっそ不思議な想いさえする。

 

 


 ついでながら、昭和六年に松波仁一郎が宿泊したホテルと同名のホテルが現在のモスクワにも存在する。「モスクワ サボイホテル」で検索すれば、何の労もなく見つけることが出来るだろう。
 だが、これが本当に彼の泊まったホテルと同一の場所かどうかの確定までは、私の力は及ばなかった。

 

 

ジョークで読むロシア 日経プレミアシリーズ

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