大町桂月は酒を愛した。
酒こそ士魂を練り上げる唯一無二の霊薬であり、日本男児の必需品と確信して譲らなかった。
何処へ行くにも、彼は酒を携帯していた。その持ち運び方が一風変わって、通人らしくまた粋で、竹のステッキの節をくり抜き、スペースを確保、たっぷり酒を詰め込んで、旅行はおろかちょっとした散歩にもこれを伴い、欲するままに呑んだというからたまらない。ぞくぞくするほど
(平福百穂『桂月先生』)
礼儀とは、ようするに、人に快感を与ふること也。少しも不快の感を与へざること也。然るに人を見ると、すぐに己の不幸を訴へ、いつもしかめっ面を為して、にこともせず。人の気をしてめいらしむ。金こそ乞はざれ、要するに人の同情を強要する一種の乞食也。
寸鉄人を刺す如き、鋭利極まる彼の言葉は悉皆酒で錬成された鉄腸より絞り出されたものだった。
「水ばかり飲んで葡萄酒の味も知らない奴に、いい詩がつくれるわけがない」と放言したのは、確か古代ギリシアの、クラティヌスたらいう詩人だったか。時空を超えて邂逅したなら、さだめし桂月と気が合いそうだ。彼はまったく、当代有数の酒徒だった。
東京帝大国文科の同窓で、畏友として相許した文人登張竹風も、壇上桂月を語るにあたって、やはり酒を絡ませている。
文科大学に入ってから後の学友で、今は亡き人の数に入ってゐる人々に樗牛があり桂月があり柳村があります、田岡嶺雲があります、佐々醒雪があります、白川鯉洋があります、内海月杖があります、坂口昂があります、少し遅れて久保天随があります、深田康算があります。これらの人々は何れも稀な天分を以て生まれたもので、友人といふのは甚だ勿体ないやうな気持がします。その一人を説いても三十分や一時間では言ひ盡せないほど豪かった人達ばかりです。
この講演を収録している『遊戯三昧』は昭和十一年の産。
登張竹風は明治六年の生まれだから、せいぜい六十二・三の歳に過ぎない。
にも拘らず、これほど多くの同窓生が既に亡いとはなんたることか。当時の健康事情が窺い知れて、寒心せずにはいられない。結核が未だ死神の有能な尖兵として猛威を振るっていた時代、人は本当にさくりさくりと死んだのだなと――。
今仮に僕が飄然とあの世へ行ったとします、そしてこれらの諸君と会ったとします、定めて喧々囂々当るべからざる光景を呈するであらうと思はれます。樗牛はあの鋭い目をぎらりと光らせて、「君は僕の二倍も生きながら、何をして来たんだ」と真っ向ふにやっつけて来ませう。桂月は「君は碁が強くなったさうだね、さあ四目か五目か」と咄々焉として遣り出すに極まってゐる。それから屹度「一杯」と来ますね。(中略)かう想像するだけでも愉快です、早く逝ってみたいやうな気持がしますが、また、も少し生きてゐたいやうな気持もするのです。
(登張竹風)
彼岸の先の知己朋友に想いを馳せて、
いざみずからが三途の川を渡った際に彼らがどんな面構えで迎えてくれるか予測して、
静かに
場所は日の当たる縁側で、猫の欠伸が隣にあれば更に良い。
庭には松があるだろう。素直に天を目指したりせず、いびつに捻じれているだろう。
埒もない想像ではあるが。想い描けば郷愁にも似た寂びた情緒が肺腑を満たし、物狂おしくもなってくる。
(Wikipediaより、1951年の登張竹風)
登張竹風はこれより更に十九年、昭和三十年まで生きた。
享年、八十一歳。土産話をたっぷり背負って此岸を離れたことだろう。ああ、この想像も悪くない。
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