穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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励めや励め国のため ―艱難辛苦の底の歌―


 子は親を映す鏡というが、下村家の父子ほど、この諺を体現した例というのも珍しい。


 海南の父、房次郎も、倅に負けず劣らずの、熱烈極まる海外志向の持ち主だった。

 

 

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(中央が下村房次郎)

 


 この人の興味は専ら北方、日露貿易の開拓にこそ集中し、両国の和親実現のため、あらゆる骨折りを惜しまなかった。


 明治三十四年にはなんと、みずから「平和の使者」となり、シベリアの曠野を横切ってサンクトペテルブルグに乗り込んでいる。誰に命ぜられたわけでもなく、自腹を切って切って切りまくってまで出立したこの旅は、しかし例年にない悪天候やそれに伴う毒虫・病魔の襲来により、ほとんど死ぬような苦しみを嘗め、往路だけでも五十日を費やすと、まず惨憺たる始末であった。


 が、そんな艱難辛苦の底にあっても、房次郎氏は不屈の気魂が窺える、力強い詩を詠んでいる。


 七五調から成る長大な詩だ。


 小説家の塚原靖などはこの歌に、「これを誦して誰か居士が骨頂の真なるに泣かざるものあらん、古にいふ武侯が出師の表を読んで流涕せざるものその人必ず忠臣にあらずと、余輩もまたこの言を籍りて読者が胸奥に質さんと欲す」――これを読んで泣かない奴はもはや日本人ではないと、およそ考え得つく限り最大級の讃辞を呈して惜しまなかった。

 

 

Amur

 (Wikipediaより、アムール川

 

 

人事は凡てかくならむ
吾れ積年の志業なる
日本海路の開航と
日露貿易振作の
基礎をかためて帝国を
世界通路の中心と
為さむ準備のかしま立
水陸五千里踏破せむ
日割は五旬の往復に
露都の三旬他の六旬
往は春色帰るさには
秋の気色を眺めむと
こまかに立てし目算も
いすかのはしと喰ひ違ひ
天候常にあやしくて
往路に費す五十日
船路は旱魃に阻害され
鉄路は暴雨に破壊され
辛酸つぶさに嘗めつくし
思ひもよらぬ道草に
日を重ぬれば自から
嚢中銭も減る習ひ
しかも胡地の寒風は
常より早く襲ひ来ぬ
病躬いかでか安からむ
嗚呼我事もやみぬるか
一時はかくこそ思ひしが
思ひかへせば世のことは
平易に成就するものと
はやるは抑も誤れり
絶えぬ難苦と対抗し
耐ふると否とは人間の
なると敗るる岐れ路
身を犠牲いけにえに為すからは
何のおそれかこれあらむ
励めや励め国のため
吾れ春秋になほ富めり
前途望みなからずや
前程望みあるものを
励めや励め世のために
他年に飾る錦ぞと
烏拉爾ウラルの紅葉見てぞ知る
後日の結果円満と
アムールの月見ても知る
古人の教へに云へるあり
平常なして怠らず
また行ひてまざれば
こと自ら成就すと
さらは真ごころ一筋に
倦まず撓まず成功を
他日に期して行路難
天災地殃のほかにまた
人の心の海に立つ
険はしき波瀾もものかはと
進みて中途にやむ勿れ
人事は凡て斯くなれば

 

 

Mont Narodnaïa

 (Wikipediaより、ウラル山脈最高峰、ナロードナヤ山)

 


 下村房次郎は大正二年、二月二十一日を砌に現世を去った。


 享年、五十八歳。シベリアの旅から生きて還って後というもの、晩酌のあとに上の歌を声高らかに吟じることが、何よりの楽しみだったという。


 毎日欠かさずやるものだから、「母や妻や妹などは、おとうさんまた始まったといふほど耳蛸の歌で」あったのだと、息子は愛を籠めて書いている。

 

 

 

 

 


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