穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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戦前の男女共学校

 

 大日本帝国時代の学制といえば、「男女七つにして席を同じゅうせず」との儒教道徳を遵奉して、性別により学び舎はおろかその教科内容まで劃然と区別されていたというのがまず一般的な認識だが、何にでも例外はつきものとみえ、所謂「今風」な男女共学校というのも当時に於いて既にちらほら存在していた。


 下村海南がそれを見ている。島根県安来実業学校と、そこからそう離れていない、やはり県立の平田実業学校がそうである。


 この二校では男子も女子も同じ校舎にて学び、同じ運動場にて遊び、同じ実習園で開墾作業に従事するといった光景が、ごく当たり前に展開していた。しかもそれで――少なくとも海南の視た限りでは――取り立てて事々しく騒ぐべき、何らの問題も起きたりしていなかったのだ。


 もっともこの両校が共学制を採ったのは、別段校長に男女同権だの何だのと、その種のイデオロギスト的な側面があったからでは全然なく、単に県の財政が極めて貧弱だったゆえ別々に校舎を建てられず、窮した末の苦肉の策としてそのようにしたに過ぎないという、なんとも世知辛い理由に基づく。


 それが意外な好結果を齎したことを、しかし海南は素直に喜び、

 


 たまたま投じられた此一石は、くさぐさの波紋をゑがいてゆく事とおもふ。(『プリズム』410頁)

 


 と、希望を籠めて書いている。
 下村海南という男には、こうした自由主義的、開明主義的な傾向があった。

 

 

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 そのことは、彼の台湾に対する態度ひとつをとってもわかる。海南は台湾の権利増進のため非常に骨を折った人物で、大正八年、第7代台湾総督明石元二郎が郷里の福岡で死去した際など、彼が台湾の発展に如何に貢献したかを縷々と説き、せめて台湾に分骨することは出来ないかと働きかけることまでしている。

 

 

Akashi Motojiroh

Wikipediaより、明石元二郎

 


 日露戦争に於いては諜報面で空前絶後の活躍を遂げ、発病さえしなければ、次期総理大臣の見込みすら濃厚だった男の骨を、外地にくれと言ったのだ。


 その意味するところは重大であろう。実現したなら、内地人の意識下に在る台湾像の重々しさが、飛躍的に向上するのは間違いない。


 もっともこの提案は、大日本帝国の伝説的フィクサー、怪傑杉山茂丸翁の暗躍により、分骨どころか元二郎の遺骸がそっくりそのまま台湾に向けて送りつけられる運びとなって、


 ――まあ、せいぜい遺髪が送られて来れば御の字だろう。


 程度に考えていた海南を、逆に魂消たまげさせている。
 このため明石元二郎の遺骨は今も台湾の地に眠り、郷里たる福岡の墓地には遺髪が納められただけという格好になっているのだ。


「杉山という人はぜんたいどんな手を使い、どう遺族を説得してあんなことを実現したのか、未だにさっぱり見当がつかぬ」


 と、つくづく海南は不思議がり、終生杉山を畏敬した。

 

 

Sugiyama Sigemaru

Wikipediaより、杉山茂丸) 

 


 ちなみに安来実業学校は県立安来高等学校として、平田実業学校は県立平田高等学校として、それぞれ今日にまで続いている。

 

 

父杉山茂丸を語る
 

 

 

 


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