下村海南がはじめて台湾の土を踏んだのは、明治三十一年、彼が二十四歳の折。
東京帝大を卒業し、逓信省に入りたての頃であり、本人の言を借りるなら、「別に会社を訪問するでもなし、取調らべるといふでなし、いやせねばならぬといふではなし。一逓信属としてよりは、大学ポット出の若造として、台湾に放浪した(『プリズム』155頁)」のである。
新任の官吏に斯くも気楽な旅行が与えられたことについては、むろんのこと事情がある。
そも、海南は当時の要路にツテを持ち、入省後すぐの洋行が内々ながらに決定していた。
ところがいざ逓信省入りを果たしてみると、意外にも当時の内閣がぶっ潰れる椿事が発生。この崩落に海南の「ツテ」も巻き込まれ、洋行も何もあったものではなくなってしまう。
(話が違う)
と、若き日の海南は叫びたかったに違いない。彼自身『プリズム』に於ける回想で、「僕は不平をならべ
そんな彼を見かねてか、同郷の先輩で湯川寛吉なる人が、息抜きがてらに行ってこいと出張という名を借りて、態々あつらえてくれたのが、この台湾旅行だったのである。
なお湯川は、後に官を辞して住友に移り、住友五代目総理事として君臨し、日本の経済史にその名を印することとなる。
(Wikipediaより、湯川寛吉)
ともあれ先輩の温かい心遣いによって機嫌を直した海南は、神戸港から新造船の台南丸に乗り込んで、意気揚々と台湾へ渡る。
ところが当時の台湾は、およそ「蕃地」という単語から連想されるすべてのものを含んでいたといっていい。上陸早々海南は、その洗礼を大いに浴びる。
安平の沖合につくと、竹の筏、あの
別に台湾のみが殊更不潔だったわけでなく、当時のアジア各国は大方こんなものだったろう。理学博士の三宅恒方が大正六年に出先の朝鮮から送った書信に、
朝鮮に来てみたら病気の多いのに驚いた。こんな危険な所へ弱い体を提げて来た自分の馬鹿らしさが自分乍らあきれる。(中略)朝鮮赤痢、マラリヤ、赤痢等多く、殊にチフスは悪性で大抵は助からぬさうだ。之から行く元山には非常に多いので弱り切って居る。今日行った所の所長も其為に死んだとか。××氏は朝鮮に来る度に遺言状を置いてくるとか。(中略)始めからこんなと知ったら決して来ない筈だった。此処の官吏が何故に金が高いかは、辺鄙で生命の危険があるからである。(『学者膝栗毛』206頁)
と申し述べている点、このあたりの消息をよく示している。
以下、『プリズム』からの抜粋に戻る。
毎日ペスト新患者は五十名を下らない。どこの役所も会社も、入り口で石炭酸をふりかける事になってる。少しでも
この他にも毎日のように何処其処で土匪や生蕃の襲撃があったと聞かされて、若き日の海南はまったく衝撃を受けてしまった。
総督府では時の通信課長、菊池末太郎の紹介で、民生長官に就任して未だ間もない後藤新平と面会している。まさか約二十年後の自分自身が、後藤の腰掛けているそのイスに座ることになろうとは、預言者にあらざる海南は夢にも思わなかったろう。
このように、初めての台湾旅行はたいへんな衝撃を伴って海南の心に焼き付いた。
それから約四十年後の昭和十年、みずからもその仕上げに尽力した「新たなる台湾」の姿を、海南はこう物語る。
今日では二萬噸級の船が基隆高雄の岸壁に横付けされる事になった。軌道鉄路は網の如く島内を縫ふてゐる。ペストも土匪も全滅した、マラリアも生蕃も影をひそめた。
教育の普及、交通の発達、殖産の振興、治安の維持もさる事ながら、衛生の進歩に伴ふ島内人口の動きを見よ。領台前のままであったなら、中華民国の下にくっついておるとして、清朝より化外の民といはれた台湾は、今日果してどうなったであらう。
そりゃたしかによくもなった、しかしどれもこれも日本内地本位であるといふ人もあらう。いかにも台湾のための日本本土ではない、それは台湾のための支那本土でなきが如くである。(同上、156頁)
万感胸に迫るものがあったろう。大工が思い通りの仕事を果たしたような、しみじみとした満足感が伝わってくる。
それにしても、「そりゃたしかによくもなった、しかしどれもこれも日本内地本位であるといふ人もあらう。いかにも台湾のための日本本土ではない、それは台湾のための支那本土でなきが如くである」という、この切り返しのあざやかさときたらどうであろう。
この一文だけで、海南が幼稚な善悪論や薄っぺらい人情論を超越した、堂々たる合理主義精神を保有していたことがわかる。
事実、彼が台湾人の権利増進に極めて積極的だったのも、彼一個の統治哲学に基づく利益優先主義から湧き出ていたに相違なかった。
海南に言わせれば、斯くの如く文化が栄え、人々の知的水準が向上すれば、遅かれ早かれ必ず「自治」を求めて運動を始める。これは水が上から下に流れるに等しい自然の摂理で人力で覆すことは誰にも出来ない。
そのときになってから、つまり火を噴くが如き熱烈なる民衆運動に押し切られる格好で権利を認めるようでは駄目なのだ。それでは民衆に「官」に対する勝利感を味わわせ、更なる反政府運動へと奔らしめる結果に繋がる。果ては独立運動にまで至りかねない。
日本内地の利益をこそ本位とする海南にとって、それは到底許容可能な範囲でなかった。だからこそ、
民衆の要望の声が非常に強くなり、その力に押されて余儀なくさういふ制度を布かなければならなくなるよりも大勢の動きを見時の推移を考へて、早めて与へるといふ形の方がよい(同上、564頁)
という献策に至るのである。
民衆に勝利の感覚を味わわせない。「獲得」ではなく、あくまで「与える」。些細なことだが、鉄砲の照準と同じく、その些細な相違によって齎される結果の差異は絶大である。
下村海南、人間心理の微妙さを、おそろしいほど知悉しきった男であった。
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