下村海南の随筆には杉村楚人冠が、楚人冠の随筆には海南が、それぞれしばしば登場し、発見者の私をして「おっ」と瞠若たらしめる。
前者の例を引くと、
昨年(筆者註、昭和九年)のことと思ふ、同人杉村楚人冠翁が十和田湖から八幡平を探勝して田尻湖へでもぬけるつもりであったのであらう。花輪の里をあとに馬上豊かに? 八幡平の高原に志す途すがら彼氏は見事に落馬した。(『プリズム』46頁)
これを読むに、どうもこの時楚人冠は青森から岩手・秋田の県境沿いに南下して、東北のど真ん中の大自然を味わい尽くす旅の途上にあったらしい。
(Wikipediaより、八幡平)
そんな彼を、にわかな災難が襲った。落馬のはずみで、ぽっきり腕が折れたのである。
ここ八幡平では、数日前にも村の木こりが仕事中に木から落ち、やはり骨を折っている。村人たちにとって、その時の情景は未だ脳裏に鮮やかだった。なんでもまずいくっつけ方をした所為で、「大の大人が数日間痛みに堪えかねて男泣きに泣き叫んだ(同上、47頁)」そうである。
ところがずっと年寄りな、楚人冠の態度ときたらどうであろう。
何ぞや
折れた部分は、合わせるのでなく引き離す――。
荒稽古により骨折が茶飯事と化した講道館の日常から帰納された知恵らしい。下手につぎ合わせようとすると、兎角喰い違ったまま引っ付けるから、無駄に痛みが激しいそうだ。おまけにそれで不自然な形に骨が接合しかけると、これをまた正当に引っ付けて直すべく、さらに再び引きはなさなければならなくなるというのだからやってられない。不毛な痛みを、余計に重ねる破目になる。
それよりも思い切って骨折部分を引き離しておくと、痛みも少なく、次第次第にごく自然な形でくっつくそうだ。
腕利きの柔道家と同行していた楚人冠は、つくづく幸運と言わねばならない。
苦痛を最小限に抑え込めたばかりか、何も知らぬ村人たちから「痛みに動じぬ豪傑」としての尊敬まで集め得た。みごとな「怪我の功名」といっていい。
(楚人冠、昭和十三年撮影)
さて、今度は後者、楚人冠の語る海南である。
つい近い頃のこと、下村海南博士が放送を終って、愛宕山から自動車で下りてくると、道の両側には、見物の群衆がさながら
後で聞けば、一同の待ってゐたのは活動俳優の竹内良一君であったさうな。
海南と良一と同じ紀州の人間でありながら、かくまでに
こうして改めて書き並べると、両人とも互いに対する気安さというか、いい意味での無遠慮さが文章のはしばしから窺える。
楚人冠の書いてる通り、同じ紀州――和歌山県の出身で、やはり同じく朝日新聞の関係者だったからであろうか。当時の人間関係網の一端を覗き見るようで、これはこれで面白い。
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