トコベイ人形を初めて見たとき、私はとっさにシュメール人を想起した。
(トコベイ人形)
思いきって眼が大きく、何を考えているかわからない、無性に不安を掻き立てさせる漆黒が瞳の奥に蟠っているあたり、よく似ていると今でも思う。
が、シュメール人がそのほとんどオーパーツ的な高度文明を建設したのはユーラシア大陸のど真ん中、ティグリス・ユーフラテス川流域に対し、トコベイ人が棲息するのは西太平洋の波濤が洗う、小さな――まことに小さな、総面積1㎢未満の――珊瑚島に過ぎないのである。
両文明に
偶然の一致に過ぎないだろう。
(Wikipediaより、トコベイ島北西部)
この人形には、また面白い
オリジナルがあったというのだ。
見上げるばかりの巨大さで、島民たちから御神体として祀られており、その霊威に肖らんと木を彫刻して姿を象り、足下に奉納していたのがトコベイ人形の始まりという。
が、大航海時代。この島を見付けたスペイン人が、その欲望の赴くままに大事な神像に縄をかけ、水平線の向こう側へ引っ攫っていってしまった。
要は強奪に遭ったのである。
むろん、何の考古学的裏付けもない言い伝えに過ぎないのだが、あの頃の西洋人の気風を思うと、さもありそうな話ではある。大英帝国博物館を見るがいい。比喩でもなんでもなく、世界中から価値あるモノを掻き集めているではないか。
日本の委任統治時代、トコベイ人形は南洋土産の定番としてそれなりのネームバリューを博したらしい。パラオの各所で
しかしそうした土産用の人形は、専ら日本内地で製作された模造品に過ぎなく、歴としたトコベイ島民の彫ったものとは材質からして違ったらしい。
現に島に上陸し、調査に当たった清野には、触れただけで真贋の区別がついたとか。
土人の手に成るものは軟らかい木で造られて居るのが多いが、内地人製は通常鉄木で造られて居る。(中略)トコベイ島には舟葬がある。人が死ぬと古いカヌーに入れて之を棺とする。又はカヌーを切って其板を打ちつけて箱を造り、此箱の中に死体を入れる。そして之を舟にのせる。舟は島から見えない所まで沖に漕ぎ出して波のまにまに棺を流す。棺の中には一対のトコベイ人形を入れる。殉死の意味か神を祀るの意味か分らない。(昭和十七年『太平洋の民族=政治学』457~459頁)
彼が派遣された昭和十六年の段階で、トコベイ島の人口は一二〇人、練熟した人形彫師に至っては、朽ち木の如き老爺一人を残すのみという寂しさだった。
現今の島民数に至っては更に減少著しく、三〇人まで低下して、人形の彫り方など、もはや誰も覚えていないようである。
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